第8話 存在しない鉄扉と、消えた記号
「空白があります」
翌朝。三番炉へと向かう薄暗い通路の途中で、僕は前を行く三人に追いつき、周囲に聞こえないようごく小さな声で切り出した。
「何の空白だ?」
すかさずレンさんが振り返り、身を乗り出して尋ねてくる。
「巡回です」
その一言に、隣を歩いていたカザンさんの目が鋭く光った。
「いつだ」
「消灯から四十五分後です。炉の圧力が落ちるタイミングで、巡回している衛兵たちが一度北側の通路へ集中します」
「集中?」
「はい」
「……なんでそんなことが分かるんだ」
「足音です」
「足音だけでそこまで分かるのか?」
「……はい」
自分でも、なぜそこまで正確に足音を聞き分けられるのか、明確な理由は説明できない。けれど、意識を研ぎ澄ませていると、不思議と彼らの歩幅や靴の打音の違いが手に取るように伝わってくるのだ。
「その直後、約五分間だけ」
僕は歩調を合わせながら言葉を続ける。
「廃棄区画側の通路から、完全に巡回の気配が消えます」
「それは毎日なのか?」
「はい、三日間連続で確認しました」
「三日か……」
ダグさんが歩きながら、顎に手を当てて思考を巡らせる。
「ダグの言っていた炉圧低下のタイミングと完全に一致しているな」
「はい」
「たぶん夜間の系統切替作業だろうな」
「切替、ですか?」
「どこかで溜まった蒸気を逃す必要があるんだろ。その作業に人手が取られて、その時間だけ一時的に警備員が別の区画へ回されているんだと思う」
僕は深く頷いた。
警備が手薄になる理由については、ダグさんの推測で間違いないはずだ。けれど、僕たちにとって最も重要なのは、そのプロセスではなく「結果」だった。
「五分か……」
カザンさんが苦々しい表情のまま、低く呟く。
「その時間で、狙った場所まで通れるか?」
「ただ歩くだけならギリギリ間に合います」
「走ればもっと早く移動できるんじゃない?」
レンさんが能天気に提案してくるが、僕は即座に首を横に振った。
「ダメです。足音で勘づかれたら一発で終わりですよ」
「分かってるってばー」
「本当に分かっていますか?」
「ねえ、最近ユウって俺にだけ厳しくない!?」
「ただの実績と事実に基づいた懸念です」
「カザンの口癖を真似するなよ!」
小声で軽口を叩き合いながらも、僕たちの足取りは迷うことなく廃棄区画へと向かっていた。
◇
昼の休憩時間。
僕たちは資材の搬送作業を口実に、鋳造所の奥深くに位置する廃棄区画へと足を踏み入れた。
ここには銀砂の染みついた壊れた工具や、不気味に曲がりくねった鉄材、ひび割れた石板などが山積みにされており、日常的にはほとんど誰も立ち入らない廃墟のような場所だった。漂う空気も他より一段と冷たく、かび臭い。
「こっちだ」
先頭を行くレンさんが手招きする。
彼が指し示した壁の足元には、例の古い搬送記号が刻まれていた。
一つ、また一つ。
壁の煤をそっと払いながら矢印の向きを追っていく。奥へ、さらに奥へ。
しかし――。
「……あれ? 行き止まり?」
追っていった矢印の先で、レンさんが首を傾げた。目の前を立ち塞いでいるのは、何の変哲もない分厚い石壁だ。
「いや、待て」
カザンさんが壁へ近づき、その表面を手で探る。
「壁じゃない。扉だ」
煤と銀砂が分厚く付着しているせいで、周囲の石壁と完全に同化していたが、そこには巨大な鉄扉がしつらえられていた。人一人どころか、大型の荷車がそのまま丸ごと通り抜けられるほどの破格の大きさだ。
「これ……」
ダグさんも近づき、見上げるようにして呟いた。
「昔の搬出口か?」
「たぶんね」
レンさんの声が、秘密基地を見つけた子供のように少しだけ弾む。
「やっぱり俺の言った通り、当たりじゃん!」
「……待ってください」
浮き立つレンさんを余所に、僕は鉄扉の脇にある壁へ視線を走らせた。
「どうしたの、ユウ?」
「これです」
扉のすぐ横には、錆びついた金属板が打ち付けられており、そこに古い鋳造所の簡易図面が刻み込まれていた。
三番炉、食堂、倉庫、そして今いる廃棄区画。今まで何度も目にしてきた配置図だ。
僕は何度も図面と目の前の巨大な鉄扉を見比べ、首をひねる。
「……おかしいです」
「何がだ?」
「ここを見てください」
僕は図面の一点に指を置いた。
「図面の上では、ここはただの『壁』になっています」
一瞬、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。
「……扉なんて、最初からどこにも存在しないことになっている」
レンさんの顔から、一気に浮ついた笑みが消え去った。
カザンさんが無言のまま扉へ一歩近づく。
重厚な扉の中央には、見たこともないほど巨大な金属製の錠前が取り付けられていた。現在使われている衛兵の鍵とは構造が違う、明らかに古い型のものだ。
だが――完全に錆びついて動かないわけではなかった。
「……最近、誰かがこの鍵を触ってるな」
カザンさんが低い声で告げた。
「どうして分かるんですか?」
「ここだけ、付着している埃や煤が薄くなってる」
僕も顔を寄せてじっくり観察してみる。
確かに、鍵穴の周辺だけは埃が拭い去られ、金属の地肌がうっすらと露出していた。
作業員すら足を踏み入れない廃棄区画。
図面にも描かれていない、存在しないはずの鉄扉。
なのに――誰かが定期的にこの場所を訪れ、鍵を開閉している。
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく跳ね上がった。
「開けられそうか?」
レンさんが固い声で尋ねる。
カザンさんは鍵穴をじっと睨みつけた後、首を振った。
「専用の鍵がいるな」
「どの鍵だ……?」
僕は昨日、衛兵の腰元で跳ねていた六本の鍵束を頭の中で思い浮かべた。
大振りのものが二本。
細いものが三本。
赤い紐が巻きつけられたものが一本。
「……今の段階では、わかりません」
けれど、調べるべき手懸かりがまた一つ増えたのは間違いなかった。
僕は息を呑み、図面には存在しない巨大な鉄扉を見上げた。
この扉の向こうは、僕たちが目指す『外の世界』へ繋がっているのだろうか。それとも、さらに恐ろしい深淵へと続いているのだろうか。
現時点では、まだ何も分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この鋳造所には――僕たち奴隷には隠されている『秘密の場所』が存在する。




