第6話 足音と古い記号
人間は、同じことを毎日繰り返す。
たぶん。
本人が思っている以上に、ずっと正確に、寸分違わず。
◇
カツ。
カツ。
カツ。
薄暗く湿った石造りの通路の向こうから、聞き慣れた不快な靴音が近づいてくる。
僕は抱えていた銀砂入りの重い木桶を持ち上げたまま、静かに壁際へと身を寄せた。
二人。
先頭を歩く奴は少しだけ歩幅が広く、踵を強く鳴らす癖がある。
後ろを歩く奴は、右足をかすかに引きずりながら歩く。
角を曲がってくる前に、誰が来るのかが手に取るように分かった。
数秒後。
僕が予想した通りのタイミングで、見慣れた二人の衛兵が姿を現した。
「止まれ」
言われるより早く、僕は足を止めていた。
深く頭を下げ、石床の煤だけを見つめる。
重苦しい威圧感を漂わせながら、二人が僕のすぐ脇を通り過ぎていく。
その腰元で、重厚な金属の束がジャラリと音を立てて揺れた。
じゃら。
じゃら。
視界の隅、ほんの一瞬掠めた腰の鍵束。
鍵は、全部で六本。
大振りのものが二本。
細く複雑な形状をしたものが三本。
そして、持ち手に赤い紐が固く巻きつけられたものが一本。
昨日見たものと、まったく同じ。
衛兵たちの足音が角の向こうへ消えていくのを確認し、僕は再び歩き出した。
「……ユウ」
横を歩いていたダグさんが、水音に紛れるような低い声で僕を呼んだ。
「はい」
「今ので何を見てた」
「鍵です」
「そうか」
「あと、足音」
「……そうか」
ほんの少しだけ、二人の間に沈黙が落ちた。
「何本だった」
「六本です」
「見えたの、一瞬だっただろ」
「はい」
「……」
「どうしました?」
「いや」
ダグさんは前を向いたまま、ぽつりと呟いた。
「何でもない」
その言葉に、なんとなく少しだけ胸が引っかかった。
けれど、僕はそれ以上深く追及しなかった。
『何でもない』――それは僕自身も、本心を隠したいときに一番よく使う言葉だったからだ。
◇
脱出を決意してから、四日目の昼。
僕たちはいつも通り奴隷として働きながら、密かに鋳造所の中を調べ続けていた。
僕の役割は、衛兵の交代時間と鍵の観察。
カザンさんは、奴隷たちの配置と警備の巡回路。
ダグさんは、炉の稼働状況と配管の圧力変化。
そしてレンさんは、古い区画の構造や壁に残された搬送記号の調査。
ただし――。
「見ろ、またあった」
昼の短い休憩時間。
レンさんが物陰になった壁の足元を指差した。
積もった煤と銀砂の奥に、例の四角い刻印がひっそりと刻まれていた。
「触ってませんよね」
「第一声それやめない?」
「極めて重要ですので」
「触ってないってば」
「本当に?」
「俺が見張ってた」
横からカザンさんが不機嫌そうに口を挟んだ。
「なら大丈夫です」
「ねえ、俺の信用どこ行ったの!?」
「最初からあったか?」
「カザン!?」
レンさんは憤慨してみせたが、彼が見つけ出す記号の数は確実に増えていた。
一つ目は、僕たちが働く三番炉のすぐ近く。
二つ目は、食堂の裏手にある物置の陰。
三つ目は、洗濯場へ続く暗い通路。
そして今日見つかった四つ目は、廃材置き場の壁だった。
どれも矢印の指す向きが少しずつ違っている。
「これ」
レンさんが指先を刻印に近づけ、触れる直前の数ミリでぴたりと止めた。
「たぶん、一つの道に繋がってる」
「どうしてですか?」
「向きだよ」
レンさんは石床に散らばる銀砂を指で払い、簡単な線を引いてみせた。
「三番炉の印は北向き。食堂裏のは東。洗濯場のは北東」
「それが?」
「この線を全部まっすぐ伸ばすとね」
指先が描く線が、床の一点で重なる。
鋳造所の最も深く、暗い奥の領域。
「この辺りに集まる」
カザンさんが太い眉を深く寄せた。
「そこ……閉鎖された廃棄区画だぞ」
「今は、でしょ?」
「昔は違ったかもしれない、と」
ダグさんが静かに言葉を補う。
「そういうこと」
レンさんがニヤリと笑った。
こういう謎解きのような作業をしている時だけは、本当に楽しそうな顔をする。
「なら」
僕は床に描かれた線の交差点を見つめた。
「そこに出口がある可能性は?」
「ある」
「ない可能性は?」
「ある」
「どっちなんですか」
「だから、これから調べるんだろ?」
「正論ですね」
「もっと褒めていいぞ」
「調子に乗るな」
カザンさんの手が伸び、レンさんの頭をポンと叩いた。
「痛っ!」
◇
本格的に調べてみると、この鋳造所は思った以上に規則正しく、機械のように動いていた。
朝。
一番目の鈴で起き上がる。
二番目の鈴で点呼を受ける。
三番目の鈴で作業が始まる。
そして決まった時間ごとの交代、休憩、夜の消灯。
時間を僕たちに知らせるのは、すべて鈴の音だった。
もちろん。
あの、仲間を『選別』するときに鳴らされる甲高い鈴とは音が違う。
作業用の鈴は、低く、重く、腹に響く。
ゴォン――という、重厚な金属音だ。
だから平気だ。
……平気なはずだった。
けれど時折、作業の合間に不意に甲高い響きが耳奥で混じり合ったような気がすると、一瞬で呼吸が止まる。
心臓が嫌な跳ね方をして、視界の端から急速に色が失われていく。
そのたびに、僕は頭の中で数を数える。
一。
二。
三。
何度も数え直し、必死に目の前にあるものへと意識を繋ぎ止める。
すり減った床の石目。煤けた壁の質感。轟々と鳴り響く炉の重低音。
今、自分が立っている『現実』だけを凝視する。
「ユウ」
カザンさんの低い声が降ってきた。
「はい」
「……まただ」
「何がですか」
「手が止まってたぞ」
「……少し、考え事をしていました」
「嘘つけ」
「大丈夫です」
「それも嘘だな」
「大丈夫です」
「二回言うな」
僕はそれ以上、何も言えずに口をつぐんだ。
カザンさんも、それ以上は何も追及してこなかった。
その代わり。
彼は僕が抱えていた、銀砂の詰まった重い木桶を、横から強引に奪い取った。
「持つ」
「自分で持てます」
「知ってる」
「なら」
「今日は俺が持つ」
理由は言わない。
僕も聞かなかった。




