第5話 四人の共犯者と、古き矢印
ぐうの音も出なかった。
合理的に考えれば、彼の言う通りだ。頭では分かっていたはずなのに、僕は焦っていた。
「でも」
僕は諦めきれずに食い下がる。
「次の『出荷』がいつ来るか分からないんです」
「分かっている」
「だったら――」
「焦って四人全員捕まったら、そこで終わりだ」
ダグさんの声は静かだった。責める色はない。
「生きるために逃げるんだろう」
「……はい」
「なら、確実に生き残れる準備をしろ」
僕は固く口を結んだ。
生きるため。
その言葉に胸を突かれた。
……僕は脱出を考え始めたとき、無意識のうちに『自分は捕まってもいい』と考えてはいなかっただろうか。この三人さえ外へ逃がせれば、自分はどうなったって――。
「ユウ」
カザンさんの低い声で、考えが途切れた。
「何ですか」
「お前、今何か変なこと考えてただろ」
「考えてません」
「今の間はなんだ」
「考えてません」
「二回言うと余計に怪しいぞ」
「三回言いましょうか?」
「もっと怪しくなるわ!」
カザンさんは盛大なため息をついた。
「とにかく、今夜はナシだ」
「……分かりました」
「素直だな」
「ダグさんの言うことが正論でしたので」
「そういうところだけは聞き分けがいいんだな、お前は」
今夜の脱走はなくなった。
少し悔しい。けれど、計画を諦めたわけじゃない。むしろ逆だ。
「じゃあ」
僕は三人を見回した。
「徹底的に調べましょう」
「何を?」
「全部です。出口、鍵、巡回、交代時間、炉の停止周期、配管、食料、外の地形――全部」
ダグさんが力強く頷いた。
「分担するぞ」
「はい」
僕は木板に残った水滴の線を見つめる。
知らないことばかりだ。けれど、知らないなら一つずつ潰していけばいい。
今まで僕は、この地獄で『今日一日を生き延びる』ことしか考えてこなかった。今日の仕事、今日の食事、次の検診、次の鈴。明日まで生き残れればそれでいい。ただそれだけだった。
けれど今、初めて――その『明日』の先を考えようとしている。
「一週間」
僕は言った。
「まず一週間、調査に費やしませんか」
「一週間で足りるか?」
「分かりません」
「なら、なぜ一週間だ」
「次の検診が『八日後』だからです」
三人の顔つきが変わった。
「それまでに」
僕はカザンさんの目を見据えた。
「いつでも出られる状態を作りましょう」
次の検診で、また誰かが『消耗』と判定されたら。
今日のように言葉だけで引き留められる保証は二度とないのだから。
「……分かった」
カザンさんが腹をくくったように言った。
「やるからには、中途半端はナシだ」
「はい」
「それと、勝手な単独行動も禁止だ」
カザンさんがチラリとレンさんを見る。
「なんで俺を見るの!?」
「一番釘を刺す必要があるからだ」
「偏見だよ!」
「過去の実績だ」
「ひどい!」
「レンさん」
「ユウまで!?」
「本当に、勝手に分解したり触ったりしないでくださいね」
「分かったよもうー!」
レンさんが参ったというように両手を挙げた。
「触らない! 勝手に動かさない! 怪しいもの見つけたら即報告する!」
「絶対ですよ」
「信用なさすぎでしょ!?」
押し殺した笑い声が漏れる。
衛兵に聞かれないよう、ごく小さな声。けれど確かに四人分の笑い声だった。
その夜。
僕たちは、ただ同じ炉で働かされるだけの『奴隷』ではなくなった。
誰かに命じられたわけじゃない。逃げると決めたのは、僕たち自身だ。
『生き延びて外へ逃げる』という目的のために、それぞれが己の意思で役割を引き受けた。
僕たちは――四人の『共犯者』になったのだ。
*
翌日。三番炉へ向かう暗い通路でのことだった。
「ユウ」
後ろから低い囁き声が聞こえた。
振り返ると、レンさんが壁際にかがみ込んでいた。
「何してるんですか」
「触ってないよ!」
「まだ何も言ってません」
「先手を打っとこうと思って」
怪しい。
「これ、見てみなよ」
レンさんが壁の足元を指さす。
そこに小さな刻印があった。銀砂と煤に汚れて、輪郭がかすんでいる。
普段なら、ただの壁の傷やヒビにしか見えないだろう。けれど、違った。
四角い枠。その中に斜めに走る二本の線。そして先端に刻まれた小さな矢印。
「これ……」
レンさんが刻印に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「昨日も、似たものを見たんだ」
「昨日?」
「食堂の壁の隅に、これと似た印があった」
ドクン、と胸が跳ねた。
「何の印ですか」
「わからない」
「……」
「でもね」
レンさんは立ち上がった。
少し楽しそうでいて、目は真剣だった。
「これ、今使われてる鋳造所の記号じゃないんだよ」
「どうして分かるんですか?」
「今の搬送記号は『三角』だろ? でもこれはもっと古い規格だ」
レンさんの指先が、壁の矢印の先を指し示す。
分厚い石壁。その向こう側。
「たぶん」
レンさんは声を潜めた。
「昔使われていた、隠された搬送路を示してる」
カザンさんとダグさんも静かに近づいてくる。
四人で壁の刻印を覗き込んだ。
矢印が指し示しているのは――三番炉でも、食堂でも、正門でもない方向。
鋳造所の最奥。今は誰も近づかない、使われなくなった区画の暗がりだった。
「……レンさん」
「ん?」
「触ってませんよね?」
「気にするのそこ!?」
「重要です」
「触ってないってば!」
僕はもう一度、煤に覆われた古い矢印を見つめた。
もしかしたら。
僕たちが必死で探そうとしていた『道』は。
最初から――誰にも思い出されないまま、この壁の奥で眠っていたのかもしれない。
外の世界へ続く扉が。
ずっと、そこに。




