第4話 水滴の線と、冷たい現実
「ダグ!?」
カザンさんが思わず声を上げた。僕も同じくらい驚き、慌てて口を覆う。
「ここで続ける方が愚かだ」
「いや、お前まで参加すんな!」
「もう聞いてしまった」
「そういう問題じゃねえ!」
カザンさんの抗議もむなしく、ダグさんは動じることなく背を向けて歩き出した。僕たちは顔を見合わせ、その後を追った。
*
消灯前。僕たちは食堂を出て、薄暗い作業区画の奥にある洗い場へと移動していた。
夕食後に汚れた器を洗うこの場所は、この時間になると人影が途絶える。石造りの壁を伝って流れ落ちる水音が周囲の物音をかき消してくれる。声を潜めれば、話を聞かれる心配もない。湿った石畳からは、錆とカビが混じったような匂いが立ち上っていた。
僕、カザンさん、ダグさん、レンさん。
いつも三番炉で汗を流している四人。僕がこの第七鋳造所で目を覚ましてから、ずっと一緒に働いてきた顔ぶれだ。
「最初に確認する」
ダグさんが流れる水に視線を向けたまま、静かに切り出した。
「ユウ。本気なんだな」
「はい」
「理由は」
僕はすり減った靴底で湿った石床を踏みしめ、少しだけ考えてから答えた。
「今日、カザンさんが出荷されそうになったからです」
「それだけか」
「……それだけで十分です」
ダグさんがわずかに息を呑み、口を噤んだ。
「今日はカザンさんでした」
僕は排水溝へと流れていく濁った水を見つめながら、言葉を続けた。
「明日は僕かもしれない。レンさんかもしれない。ダグさんかもしれないんです」
灰色に濁ったスープの残り汁が、暗い排水溝の奥へと吸い込まれて消えていく。その光景は、役目を終えて処分されていく僕たち奴隷の未来そのものに見えた。
「次も今回みたいに止められるなんて、思えません」
今日カザンさんを残せたのは、奇跡のような偶然が重なったからに過ぎない。三番炉のデータ、カザンさんの長年の技術、そしてやってきた衛兵がギリギリ言葉の通じる相手だったこと。全てが噛み合ったからこそ通じた手札だ。次も同じ手が通じる保証なんて、どこにもない。
「だったら」
僕は排水溝から目を上げた。
「大人しく出荷される順番を待つより、足掻いてでも出た方がいい」
レンさんが深く頷いた。
「賛成」
「軽いな、お前は」
「カザンは反対なの?」
「俺は――」
カザンさんが僕をじっと見つめ、苦々しい顔になる。
「『死にたいなら一人でやれ』と言いたい」
「もう言ってるじゃん」
「ただ」
カザンさんはため息混じりに言葉を継いだ。
「こいつが一人でやったら、もっと悲惨なことになるのが目に見えてる」
「失礼ですね」
「事実だ。さっきまで脱出経路すら知らなかったろうが」
「レンさんも知りませんよね」
「知らないよ?」
「なら同じです」
「俺はまだ逃げるなんて一言も言ってないしー」
「さっき賛成って言いました」
「それは気持ち《メンタル》の話!」
「面倒くさいですね」
「ユウに言われたくないよ!?」
「……静かにしろ」
ダグさんの一言で、その場の空気が引き締まった。
彼は洗い場の湿った木板に太い指を置いた。
「必要な要素を整理する」
水滴で一筋の線を描く。
「まず出口」
一。
「鍵」
二。
「見張り」
三。
「決行の時間」
四。
「外へ出た後の行き先」
五。
「食料」
六。
「怪我人が出た場合の対処」
七。
「多くない!?」
レンさんが思わず顔をしかめた。
「少ないくらいだ」
「武器も要るだろ」
カザンさんが低く付け加える。
「衛兵と遭遇しないのが大前提です」
「遭遇したときの話だ」
「戦うんですか?」
「逃げるために必要ならな」
カザンさんは淡々と言い切った。
いつものぶっきらぼうな彼と変わらない。けれど、その言葉だけには妙に迷いがなかった。
「……カザンさんって、戦えるんですか?」
「人並みにはな」
「絶対それ嘘でしょ」
レンさんが即座にツッコミを入れた。
「何がだ」
「『人並み』って言う奴、大体人並みじゃないからね。前に荷崩れしたとき、鉄箱を片手で受け止めたじゃん」
「あれは火事場の馬鹿力だ」
「毎回火事場になってんじゃん」
「黙れ」
僕は二人を見ながら思考を巡らせる。
カザンさんの過去はよく分からない。自分のことをほとんど話さない人だからだ。
仕事ができて、体力があって、危険を察知するのも早い。けれど、それ以上踏み込もうとすると煙に巻かれてしまう。
だから、あえて聞かないことにしている。
今重要なのは、彼が過去に何者だったかではなく「何ができるか」だ。
「カザンさんには、見張りと危険箇所の察知をお願いできますか」
「……なんで俺なんだ」
「一番向いています」
「根拠は」
「いつも衛兵が近づく前に、真っ先に気づくからです」
「たまたまだ」
「この三週間で十四回ありました」
「数えてんじゃねえよ」
レンさんが吹き出した。
「十四回って! ユウ怖っ!」
「普通です」
「普通じゃないからね!?」
僕はダグさんに向き直る。
「ダグさんは、炉の停止時間と配管の圧力測定を」
「分かった」
迷いのない即答だった。
「いいんですか?」
「何がだ」
「脱走計画に参加して」
「まだ参加すると決めた覚えはない」
「でも調べてくれるんですよね」
「調べるだけだ」
「それを世間では参加って言うんじゃ――」
「レン」
「はい」
レンさんは速やかに黙った。
「僕は巡回時間と交代の周期を観察します」
「で」
レンさんが自分を指さした。
「俺は?」
三人でレンさんをじっと見つめる。
「……」
「なんで黙るんだよ!?」
「勝手に何かを分解したり触ったりしないでください」
「役割ですらないじゃん! 注意事項じゃん!」
「極めて重要だ」とダグさん。
「大事ですね」とカザンさん。
「お前ら、俺を何だと思ってんの!?」
「危険要素」
「要確認事項」
「レンさん」
「ユウだけ優しい!?」
「ただ名前を呼んだだけです」
「そういう冷たさが一番刺さるんだよ!」
思わず、ふっと口元が緩んでしまった。
(……あ)
自分でも驚いた。
ここに来てから、僕が笑ったことなんてあっただろうか。思い出そうとしても、ひとつも浮かばなかった。
「どうした、ユウ」
カザンさんが覗き込んでくる。
「いえ」
僕は小さく首を振った。
「なんでもありません」
まただ。
『大丈夫』『なんでもない』――僕はいつもそんな言葉で自分を覆い隠そうとしてしまう。
けれど今は、本当に『なんでもなかった』。ほんの少しだけ、胸の奥の重荷が軽くなった気がしたのだ。
*
「結論から言う」
まだ詳しい調査すら始めていないというのに、ダグさんはそう言い切った。
「今夜の決行は不可能だ」
「まだ何も見ていませんよ」
「だからだ」
僕は反論できずに黙り込む。
「出口が分からない。鍵がない。巡回パターンも不明。外の地形すら知らない」
「……はい」
「その状態で今夜突っ込むのは、脱走ではない」
ダグさんの静かな視線が、僕を射抜いた。
「単なる自殺だ」




