第3話 四人の密談
「――今夜、ここを出ます」
静かに、けれどはっきりと言い切った僕を、カザンさんはしばらく無言で見つめていた。
あまりに突飛な発言だったからだろう。僕が空腹でおかしくなったか、たちの悪い冗談を言い出したと思ったのかもしれない。
けれど僕がまっすぐ目を逸らさずにいると、やがて彼は呆れたように深いため息をついた。三番炉で染みついた煤と熱い鉄の匂いが、すぐそばから漂ってくる。
「……お前、頭でも打ったか?」
「打ってません」
「熱は」
「ないです」
「じゃあ何だ。さっき衛兵に肩を強く掴まれたとき、脳みそまで揺れたのか」
「それならカザンさんこそ、さっき出荷されかけたせいで判断力が落ちてると思います」
「口が減らねえな、このガキ」
「十一歳です」
「ガキだろうが」
カザンさんが痛そうに額を太い手のひらで押さえた。
煤で真っ黒に汚れた指先が、かすかに震えている。激怒されるかと思ったが、意外にもそうはならなかった。彼は鋭い目つきのまま、チラリと食堂の重い鉄扉に視線を走らせる。そこに鞭を腰に下げた衛兵の影がないことを確かめると、声をひそめた。
「……本気なのか」
「はい」
「外がどこにあるか知ってるのか」
「いいえ」
「門の位置は?」
「分かりません」
「鍵は?」
「ありません」
「見張りの人数」
「正確には知りません」
「武器」
「ありません」
ガシッ、とカザンさんの大きくて固い手が、僕の頭を掴んだ。タコだらけの無骨な掌から、痛いほどの力が伝わってくる。
「ほら見ろ!」
「痛いです、カザンさん、力が強いです」
「何ひとつ分かってねえじゃねえか!」
「だから、これから調べます」
「今夜出るって言っただろ!」
「言いました」
「どうやって!」
「これから考えます」
「馬鹿かお前は!」
今度は本気で怒鳴られた。
雑多な話し声と器の擦れる音が満ちていた食堂で、近くのテーブルにいた何人かの作業員が、ビクッと怯えたようにこちらを振り返る。カザンさんは慌ててゴホンと咳払いを挟み、怒りを押し殺すように声を落とした。
「……いいか、ユウ」
「はい」
「脱走ってのはな、思いついたその日に見切り発車でやるもんじゃねえんだよ」
「知ってます」
「絶対知らねえだろ」
「少なくとも、今のやり取りでしっかり学習しました」
「一発殴っていいか?」
「駄目です」
「そこだけ即答すんな」
カザンさんは呆れ果てた顔をしていたが、その反応は僕の予想とは違っていた。
『無理だ』『黙れ』『バカなことを考えるな』――そんな言葉で一蹴されると思っていたのだ。けれど、彼が真っ先に確認してきたのは、出口の場所、鍵の有無、見張りの人数、武器の有無だった。
つまり――。
「カザンさん」
「あ?」
「逃げること自体には、反対してないんですね」
カザンさんの太い眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「……」
「今、聞いてきたのは全部『逃げる方法』の話でした」
「お前、本当によけいなところばかり見てるな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
けれど、カザンさんは否定もしなかった。
僕は胸の内で、そっと安堵の息を吐き出す。緊張で冷えていた指先に、少しだけ温かさが戻った気がした。
「だったら――」
「はい、ちょっと待ったー」
不意に、ひょうひょうとした声が上から降りかかってきた。
振り返ると、いつの間にかレンさんが僕たちのすぐ後ろに立っていた。細い身を丸め、楽しそうに目を細めている。
「なんの話?」
「……」
「……」
僕とカザンさんは同時に口をつぐみ、気まずく視線を交わした。
レンさんはニヤリと口角を上げ、面白がるように僕たちを見下ろした。
「怪しいねえ」
「何もねえよ」
「カザンがそんな顔して『何もねえ』って言うとき、大体なんかあるんだよね」
「飯でも食ってろ」
「もう食べ終わったよ。あの泥みたいなスープね」
「じゃあ寝ろ」
「まだ消灯前でーす」
「壁でも見てろ」
「それは今からやろうと思ってたところ」
「やるな」
レンさんは僕の顔をじっと覗き込んできた。その瞳には、ほかの奴隷たちに見慣れた諦めの色ではなく、鮮やかな好奇心が宿っている。
「で?」
「何がですか」
「今夜、どこへ出るって?」
完全に聞かれていた。
カザンさんが「最悪だ……」と呟きながら両手で顔を覆う。
「声が大きかったからねえ、カザンが」
「お前がわざわざ盗み聞きしてただけだろ!」
「まあ両方じゃない?」
レンさんは僕の隣へひょいと腰を下ろした。やけに楽しそうな顔をしている。楽しそうすぎて、逆にこちらが不安になってくるほどだ。
「脱走?」
「まだ何も決まっていません」
「でも出るんだろ?」
「できるなら」
「面白そう!」
「面白くはないです」
「いや面白いだろ。このくそ暑くて臭い牢獄から逃げるんだぞ?」
「捕まったら即出荷ですよ」
「そんなの、ここにいたって普段から同じだろ」
あっけらかんと、笑いながら。
レンさんはそう言った。
一瞬、返す言葉に詰まる。
――確かに、その通りだった。僕たちはここにいるだけで、毎日死と隣り合わせなのだから。今日を生き延びても、次の検診で弾かれればそれで終わりだ。
「で、いつ出るの?」
「今夜だと」
「おいユウ!」
「……思っていました」
カザンさんの鋭い視線を浴びて、僕はあわてて語尾を補足する。
「過去形?」
「カザンさんに準備不足だと怒られましたので」
「そりゃ当然だろ。無謀すぎる」
「じゃあ延期?」
「まだ決めてません」
「決行する気ではいるんだ?」
「だから声を落とせって言ってんだろ!」
押し問答を続けていると、すぐ頭の上から地鳴りのような重低音が響いた。
「何をしている」
ダグさんだった。空になった木椀を片手に、静かな瞳で僕たち三人を見下ろしている。煤けた顔とがっしりした体が、暗がりの中で岩のように見えた。
「なんでもない」
カザンさんが即座に誤魔化そうとしたが、
「脱走の相談!」
レンさんが迷いなく即答した。
「てめえっ!」
「痛っ!?」
カザンさんの容赦ない拳がレンさんの頭に叩きつけられる。鈍い音がした。
「何すんだよカザン!」
「何すんだよじゃねえ! 余計なことを口走るな!」
「いや、ダグなら良くない?」
「良くねえよ!」
ダグさんはしばらく無言のまま、僕たちの顔を順番に見つめていた。その無表情な顔からは、怒っているのか呆れているのか、感情がまったく読み取れない。
やがて彼は木椀を近くの卓に置き、低く呟いた。
「……場所を変えるぞ」




