第2話 計算と取引、そして脱出の刻
「ふざけんなっ!」
ガタァン! と激しい音を立てて椅子が倒れた。
向かいに座っていたカザンさんが身を乗り出し、血走りかけた目で衛兵を睨みつける。
「今月のノルマは一度だって落としちゃいねえ! 三番炉で一番働いてんのは、間違いなく俺だろうが!」
「定期検診の数値が落ちている」
「まだ動ける! 俺の体なら、まだまだ全然動けるんだよ!」
「いずれ動けなくなる」
衛兵はカザンさんの悲痛な叫びを気にも留めず、まるで壊れかけた道具でも処分するかのような、淡々とした冷たい口調で吐き捨てた。
「なら、動けるうちに出す。それが上の決定だ」
「くそっ……!」
一瞬、僕の思考がフリーズした。
目の前で起きている現実を、頭が理解することを拒絶していたのだ。
「連れていけ」
先頭の衛兵が短く命じると、後ろに控えていたもう一人の衛兵が、カザンさんの太い腕を強引に掴み上げた。
「離せっ!」
振り払おうとしたカザンさんの腕が激しく当たり、机の上に置かれていた木椀が勢いよく床へ転がり落ちた。ペキッと乾いた甲高い音を立てて割れた木椀から、灰色の薄い汁が床の溝へ広がっていく。
それでも――誰も立ち上がらない。
この食堂にいる数十人の大人のうち、誰一人としてカザンさんを助けようとはしなかった。
彼らが薄情だからではない。
この第七鋳造所では、誰かを助けようとして出しゃばった人間から順番に『消えていく』という絶対のルールを、ここにいる全員が嫌というほど知っているからだ。
僕だって分かっている。
だから、黙っていればいいのだ。目を伏せ、息を殺し、嵐が過ぎ去るのを待てばいい。明日からはカザンさんのいない穴を誰か別の人間で埋め、何事もなかったかのように作業を続ければいいのだ。
それが一番合理的で、最も賢い生き残り方だ。そうしていれば――僕だって殺されずにすむのだから。
(…………分かっているのに)
頭では理解しているはずなのに、胸の奥から吐き気がするほどの拒絶感がこみ上げてきた。
カザンさんが衛兵に引きずられていく。
鉄扉に向かって、一歩、二歩。あと少しで、あの開かれた暗い扉の向こう側へと消えてしまう。
「待ってください」
気づいた時には、自分でも驚くほどすんなりと声が出ていた。
衛兵の足がぴたりと止まる。
腕を掴まれていたカザンさんも、信じられないものを見るような目で振り返った。食堂中の視線という視線が、一斉に針のように僕へと突き刺さる。
(しまっ――)
冷や汗が背筋にドッと噴き出した。けれど、吐き出した言葉をもう戻すことはできない。
「……なんだ、ガキ」
衛兵がゆっくりと振り返る。細められた底意地の悪い瞳が、真っ直ぐに僕の姿を捉えた。
「ああ、お前か」
衛兵の口元が、ニヤリと不気味に歪む。僕のことを知っているのだろうか。
「『響き手』の雛か」
聞き覚えのない単語だった。だが僕は、恐怖で震えそうになる膝を必死で抑えつけながら、しっかりと両足で立ち上がった。爪が掌に食い込み、ジクジクとした痛みが走る。
「カザンさんを出荷すると、明日からの三番炉の処理量が著しく落ちます」
僕の言葉に、一瞬だけ衛兵が呆気にとられたような顔をした。
「……何だと?」
「三番炉の話です」
「聞こえている。ガキが作業に口を挟むな」
「直近七日間において、三番炉の平均処理量は一番炉よりも約二割多いです」
その瞬間、衛兵の目から僕をバカにしたような色がわずかに消えた。
情や哀れみなど、この衛兵たちには一切届かない。けれど数字なら聞く。この場所では囚人の命なんかより、上層部へ提出する成果を示す『数字』の方が遥かに価値があるからだ。
なら――徹底的に数字で殴りつけるしかない。
「この一週間で、三番炉が目詰まりを起こして停止したのはたったの一度だけです」
「だからそれがどうしたと言うんだ」
「カザンさんが現場にいるからです。銀砂の濃度が高い日は、炉の爆ぜる『音』がほんの僅かに変化します。彼はそれだけを聞き分けて、投入する資材の間隔を完璧に調整しているんです」
「……」
「他の作業員は、壁の圧力計の針が危険域に上がってから慌てて稼働を止めます。ですが、それではもう遅いんです」
衛兵が沈黙した。
僕は頭の中で、三週間観察し続けてきた記憶のデータを高速で弾き出していく。昨日、一昨日、その前の資材投入量、停止時間、そして稼働効率。全ての数字が驚くほど鮮明に脳裏へ浮かび上がる。
「カザンさんを別の人間に挿げ替えた場合、明日からの処理量は間違いなく三割落ちます」
「……お前がいるだろう」
衛兵が僕を睨みつける。
「お前もその『響き手』なんだろうが」
「僕一人では不可能です。周りの呼吸に合わせることはできても、炉の『内部状態』までは判断できません」
これは半分だけ本当で、半分はハッタリだった。
僕自身、自分にどんな力があるのか完全には理解していない。ただ、人の呼吸、歩幅、作業のタイミング――そういった『リズム』の微かなズレが妙に気になってしまうのだ。そしてそれらがピタリと噛み合った瞬間、作業効率が爆発的に跳ね上がるのを僕は知っていた。
衛兵たちも、僕の持つその異常性だけは評価している。だからこそ、十一歳の子供である僕が処分されずにここで使われているのだ。
「僕がどれだけ周りに呼吸を合わせようと」
深く息を吸い込み、僕は衛兵の目を真っ直ぐに見据えた。
「合わせる相手の精度が低ければ、何の意味もありません。今カザンさんを出荷すれば、今月のノルマ達成率は確実に下回ります」
言い切った。
「つまり――今カザンさんを処分することは、あなた方にとっても『明確な損失』なんです」
静まり返る食堂。
聞こえるのは、壁の向こうで唸りを上げる炉の不気味な重低音だけだった。
ゴウン、ゴウン。
衛兵が僕を冷たく見下ろしてくる。
「……ずいぶん自分を高く買っているんだな、ガキ」
「違います」
「何?」
「ただの事実と、計算結果を述べているだけです」
長い沈黙が流れた。
心臓が破裂しそうなほどうるさく胸を叩いている。怖くてたまらない。今すぐへたり込んで「冗談です」と謝りたかった。けれど、カザンさんの腕はまだ衛兵に掴まれたままだ。
やがて――男が手にしていた羊皮紙を指でパンッと叩いた。
「……いいだろう」
拘束されていたカザンさんの腕が乱暴に放される。
「カザンの出荷は保留する」
カザンさんが目を見開いた。横にいたレンさんもダグさんも、信じられないといった様子で絶句している。
助かった――そう思って安堵の息を吐きかけた瞬間。
「ただし」
衛兵の冷酷な補足が突き刺さった。
「今月末までだ。三番炉がノルマを一つでも割れば、その時点で即座に連れて行く」
「……はい」
「それと」
ズイッと伸びてきた巨大な革手袋が、僕の肩を力任せに掴んだ。
「っ――!?」
あまりの恐怖に身体が縮み上がる。逃げ出したい衝動を、足の指に力を込めることで全力でねじ伏せた。
「そこまで命を保証するなら」
衛兵が顔を限界まで近づけてくる。
「お前にも責任を取ってもらう。ノルマを割れば、お前も一緒に『出荷』だ」
「ユウ!!」
カザンさんの悲鳴のような叫びが響いた。
衛兵はニヤリと醜く口元を歪める。
「商品を一つ余計に出せば、こちらの損は埋まるんでね」
『商品』。
その言葉が胸に冷たく突き刺さる。
僕には名前がある。十一歳という年齢がある。感情もあるし、死ぬのが怖くて仕方ない。けれど、こいつらにとってはただの「替えの利く商品」でしかないのだ。
「……分かりました」
「ユウ、てめえ正気か!?」
「構いません」
カザンさんの方を見ずに、僕はハッキリと答えた。
「達成します」
「ハッ、言ったな」
衛兵は僕を乱暴に突き放した。よろめきながらも、なんとか踏みとどまる。
「せいぜい必死に働くんだな」
男たちは腹の底から笑いながら去っていった。鉄扉が重々しく閉まり、ガチャリと錠が落ちる。
チリン――。
乾いた鈴の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
それが完全に聞こえなくなるまで、僕は息を吐くことすら出来なかった。
*
「……ユウ」
静まり返った食堂で、カザンさんが僕を呼んだ。
「はい」
「なんでだ」
「何がですか」
「とぼけんな!」
カザンさんの怒声が食堂内に響き渡る。
「なんであんな真似した! 俺のためにお前まで巻き込まれやがって!」
「……必要な判断だったからです」
「結果論だろうが!」
「そうですね」
「お前……っ!」
激昂するカザンさんを前に、僕は転がっていた椅子を起こした。割れた木椀から流れ出た灰色の汁が、床の排水溝へ静かに吸い込まれていく。
「カザンさんがいなくなれば、三番炉の効率が落ちて僕だって危険になります」
「またその話か!」
「事実です」
「そういう理屈を聞いてんじゃねえんだよ!」
「僕にとっては、それが全てです」
――嘘だ。
本当にそれだけなら、あんな死ぬほどの恐怖に耐えて立ち上がれるはずがない。
(……でも)
自分でも驚くほど、小さな声が漏れ出していた。
「僕だって」
「あ?」
「僕だって、まだ死にたくありません」
カザンさんが息を呑んだ。
死にたくない。
たったそれだけのこと。なのにこの地獄では、あまりにも贅沢で途方もない願いだ。
「カザンさんも、同じでしょう?」
答えは返ってこなかった。
カザンさんは床に散らばる割れた木椀の破片を拾い上げ、拳の中で強く握りしめた。じわりと、革手袋の隙間から赤い血が滲み出てくる。
「……バカ野郎が」
吐き捨てるような、一言だけだった。
今日、僕たちは生き残った。
けれど、救われたわけじゃない。
カザンさんの出荷は『保留』されただけだ。そして僕の命が、そこに人質として追加された。
炉が一度でも止まれば終わり。ノルマを割れば終わり。衛兵の気まぐれ一つで僕たちは灰にされる。今日勝ち取ったのは自由などではなく、次の鈴が鳴るまでの、ほんのわずかな『時間』でしかなかった。
なら――その時間を使うしかない。
僕は静かに顔を上げた。
食堂の隅、壁沿いを這う太い蒸気管に視線を向ける。古びて補修だらけの継ぎ目から、一定の周期で白い蒸気が漏れ出していた。
十二秒間、漏れる。
十七秒間、止まる。
そして、また漏れ出す。
あの管の先は壁を穿ち、作業区画の外へと繋がっているはずだ。
昼間、三番炉で目にした圧力計の数値。
作業交代の正確な時刻。
衛兵が鍵を交換する順番。
夜間巡回のルート。
銀砂を積み込む荷車の発車時刻。
この三週間、僕の脳内でバラバラに存在していた記憶のピースが、恐ろしいほどの精度で一つに噛み合っていく。
「……カザンさん」
声を極限まで落とした。隣にいるレンさんやダグさんにすら届かない、蚊の鳴くような小さな囁き。
「あ?」
「さっき、どうして助けたのか聞きましたよね」
「……ああ」
「理由、もう一つあります」
一度だけ、重い鉄扉へと視線をやる。衛兵の気配はない。鈴の音も聞こえない。
僕はカザンさんの目をじっと見つめた。
この場所で目を覚ましてからの三週間、僕はただ怯えて暮らしていたわけじゃないのだ。ずっと観察していた。
炉を、鍵を、人間の動きを、足音を、扉を――そして、この地獄の外へと続くはずの『抜け道』を。
100%の確信はなかった。けれど、もう待つ時間なんてない。次にあの嫌な鈴が鳴ったとき、誰が消えるか分からないからだ。
僕は、言った。
「――今夜」
カザンさんの瞳に、僕の静かな決意が映り込む。
「ここを脱出します」




