第1話 乾いた鈴の音
【毎週月・水・土曜日 20:20更新予定】第一部完結に向けて連載中です!
2026年11月3日現在
チリン――と。
遠くで小さな鈴の音が鳴り響いた。たったそれだけの音なのに、聞いた瞬間に僕は呼吸の仕方を忘れてしまう。
喉がぎゅっと縮み、指先から急速に体温が失われていくのを感じた。まるで冷ややかな刃物で直接首筋を撫で回されたかのような悪寒が、全身を駆け抜ける。
――暗く、息苦しい部屋。
――冷たく無機質な、金属の壁。
――すぐ近くで聞こえる、誰かの荒い息遣い。
何かを思い出しそうになる。けれど、いつも同じところで記憶は白い靄に包まれ、途切れてしまうのだ。
「……ユウ」
誰かが僕を呼んでいる。けれど、その声は遠く水底から届くようにかすんでいた。
「おい、ユウっ!」
「……っ!?」
ドカン、と目の前で木製の机が叩かれた。
びくりと肩が跳ね上がり、そこでようやく僕は止まっていた息を吸い込んだ。
目の前に広がっていたのは、冷たい金属の壁ではない。縁が大きく欠けた木椀だった。中には灰色がかった薄い汁が入っている。大麦の殻と根菜のクズを煮込んだだけの、僕たちの今日の夕食だ。
「聞こえてんのか、小僧」
向かいに座る大柄な男――カザンさんが、眉間に深い皺を寄せて僕を睨みつけていた。煤と油で汚れた頑固そうな顔だが、その目には心配の色が浮かんでいる。
「飯だ。食わねえならレンに取られるぞ」
「人聞きが悪いな、カザン」
横から呆れたような声が飛んでくる。ひょろりと背の高い青年、レンさんが木匙を指先で器用にくるりと回した。
「俺は残された貴重な食料を無駄にしないという、極めて立派な思想に基づいているだけだっての」
「それを世間じゃ泥棒猫って言うんだよ」
「全然違うね。俺の主義主張を侮辱しないでほしいな」
「黙って食え」
「はいはい」
いつもの聞き飽きたやり取りだ。
けれど、レンさんの軽口とは裏腹に、その手元もピタリと止まっていた。僕の右隣に座るダグさんは何も言わず、水の入った木杯を僕の方へそっと押し寄せてくれる。
四人とも、聞こえていたのだ。さっきの、あの微かな鈴の音を。
「……ありがとうございます、ダグさん」
水を一口、乾いた喉へ流し込む。
「大丈夫か」
「はい」
僕は膝の上で情けなく震える指を、ギュッと握りしめた。
「大丈夫です。……ただの耳鳴りですから」
『大丈夫』というのは便利な言葉だと思う。こう言ってしまえば、大抵の大人や周りの人間はそれ以上踏み込んでこない。余計な心配をかけたくなかった僕は、木匙を手に取った。食堂には、再び器と匙が触れ合う寂しい音が戻り始めていた。
*
ここは〈乗っ取り領〉旧森区画、第七鋳造所。僕たちの職場であり――一歩も外へ出ることの許されない牢獄だ。
食堂と呼ばれているこの大部屋に窓はない。厚い石壁は何枚もの鉄板で二重に補強され、天井近くに細い通気孔がいくつか穿たれているだけだ。壁のすぐ向こう側では、巨大な魔導溶解炉が絶えず唸りを上げている。
ゴウン、ゴウン、と一定の間隔で床が微かに震える。
錆びた鉄の匂い、焼き焦げた古い油、そして大勢の人間がまき散らす汗の臭い。さらには喉の奥へまとわりつくような、どこか甘ったるい異臭――『銀砂』の臭いだ。
魔法術式を使ったあとに残留物として残るという、銀色の砂。本来なら時間とともに自然界へ溶けて消えるはずのそれが、この歪んだ土地では土にも、水にも、壊れた道具にまで深く染みついている。
僕たちの仕事は、その汚染された物質を炉へ放り込むことだった。
銀の斑点が浮き出た土塊、壊れて暴走した紋具、どこから運ばれてきたのかも分からない金属片。それらを全て砕き、焼いて溶かす。最後に抽出された純粋な銀砂だけを集め、密封容器へ詰めるのだ。
『これは土地を綺麗にするための、聖なる奉仕作業だ』
衛兵たちは胸を張ってそう言っているが、たぶん嘘だ。
夜、作業の合間に排気孔から外を盗み見たとき、僕は何度か目撃している。僕たちが詰めた銀砂の容器が、闇に乗じて黒塗りの荷車へ大量に運び込まれているところを。通常の物資なら必ず貼られているはずの行き先や検査の印が、あの容器には何ひとつ存在しない。
だが、ここでは不思議に思わない方が長く生きられる。この場所で目を覚ましてから三週間、それを覚えるのに時間はかからなかった。
それ以前の記憶は、驚くほど綺麗に抜け落ちている。
覚えているのは自分の名前が『ユウ』であることと、十一歳だということだけ。家族の顔も、生まれ育った場所も、なぜ僕がここにいるのかも分からない。
ただ不思議なことに――教わった記憶もないのに『分かってしまう』ことがあった。
たとえば、僕たちが担当する三番炉。カザンさんを作業投入口に配置すると、炉の稼働効率が劇的に安定する。彼だけが、溶鉱炉の中の混ざり具合を炎の爆ぜる『音』だけで正確に判断できるからだ。
ダグさんは圧力計の異常察知に長けている。メーターの針が危険域に入る前に、配管の奥から響くかすかな異音で金属疲労に気付くことができるのだ。レンさんは工具を持たせれば一番素早いが――
「レンさん」
「ん?」
「さっきから何を見てるんですか」
「……いや? 別に?」
「右の壁ですよね」
「見てないって」
「この数分で三回見ました」
「数えてんのかよ!?」
レンさんの視線の先には、壁から半分剥き出しになった古い金属管があった。通常の配管にはない見慣れない刻印が入っている。
「触らないでくださいね」
「触らねえよ!」
「昨日も同じこと言って、壊れた圧力弁を勝手に分解しましたよね」
「あれは壊れてたから構造への探究心がだな……」
「直すためじゃなくて、ただの好奇心でバラバラにしましたよね」
「中身が気になったんだから仕方ないだろ!」
「だから言ってるんです」
僕たちのやり取りに、カザンさんが呆れたように深くため息をついた。
「お前ら、よくそんなくだらねえ話をする元気があるな」
「カザンが暗すぎるんだよ。もっと楽観的に生きろって」
「誰のせいだと思ってやがる」
そのとき――ダグさんの手がぴたりと止まった。
僕もすぐに気づく。廊下の向こうから、重い足音がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
チリン――。
今度こそ、脳内の幻聴ではない。僕の手から木匙が抜け落ち、からんと虚しい音を立てた。
「……選別か」
ダグさんが低く呟く。レンさんの顔から一瞬で余裕の笑みが消え去った。
この鋳造所には、二種類の鈴がある。
一つは交代を知らせる低く鈍い鈴。それが鳴れば地獄の作業がひとまず終わる。
そしてもう一つが、甲高く乾いた音を立てる小さな鉄の鈴だ。
それが鳴るのは――人間を運び出すときだけだった。衛兵たちはそれを、あざけりを込めて『出荷』と呼ぶ。
咳が止まらなくなった者。定期検診で悪い数値が出た者。作業速度が落ちた者。怪我をした者。そして時には、何の理由もなく。
連れていかれた人間がどこへ行くのか、僕は知らない。分かっているのは、戻ってきた者は誰一人としていないということだけだった。
チリン。チリン。
鈴の音が、食堂の分厚い鉄扉の前でピタリと止まった。
数十人はいるはずの部屋から、一切の音が消える。誰も扉を見ようとしない。全員が俯き、ひたすら食事を続けるふりをしていた。
ガンッ!
重い錠が外され、鉄扉が乱暴に跳ね上がった。
入ってきたのは二人の衛兵だ。分厚い革鎧を纏い、胸元には赤黒く光る紋章が刻まれている。
先頭の男が胸元から羊皮紙を広げた。誰も息を吸わない。僕も必死で息を止める。名前が読み上げられるまでのわずかな時間が、永遠のように長く感じられた。
「三番炉」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「――作業員、カザン」
向かいで、カザンさんの肩が大きく跳ねた。
「立ち上がれ」
衛兵の冷徹な声が響く。
「本日の検診で基準値を下回った。判定は――『消耗』だ」
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