第19話 ひとつの動き
「あなたが三人を動かしていたわけじゃないのね」
鉄格子の向こうから、ミリアが静かな声でそう言った。
「どういう意味……ですか?」
僕は冷たい石壁に背中を預けたまま尋ねた。
頭の中は未だに鈍く重く、耳の奥ではキィンと高い不協和音が掠れ気味に響いている。それでも、彼女の言葉を無視することはできなかった。
「そのままの意味よ」
「俺たちを操って叩き伏せさせたわけじゃない、ってことか?」
レンさんが驚いたように目を丸くする。
「ええ」
ミリアは小さく頷いた。
「少なくとも、私の目にはそう映ったわ」
「見てわかるもんなのか?」
「全部を見通せるわけじゃないけれど」
ミリアは素足でゆっくりと鉄格子へ近づいてきた。
「カザンは自分の意思で踏み込んでいた。ダグも自分の判断で拳を握っていた。そして……レンも」
「俺も!?」
「一応ね」
「一応ってなんだよ! 一応って!」
「静かにしなさい」
「はい……」
一瞬だけクスリと笑ったミリアだったが、すぐにその瞳を僕へと向け直す。
「そして……あなたもよ、ユウ」
「僕も……ですか? でも、僕はほとんど自分の身体を動かしていません」
「そういう物理的な動きの意味じゃないわ」
彼女は鉄格子越しに、僕たち四人を順番に見つめた。
「誰か一人が支配者になって、他の三人を人形みたいに操っているようには見えなかった。四人がそれぞれ自分の頭で考え、自分の足で動いていたわ」
僕は先ほどの息詰まる激闘を思い返す。
カザンさんが右へ身を翻したこと。僕が声を張るよりも早く、身体が勝手に反応していたこと。ダグさんも、レンさんもそうだ。
「でも……動きは完璧に噛み合っていました」
「そうね」
「じゃあ……あの感覚は、一体何なんですか?」
「知らないわ」
「……」
「そんな失望したような顔をしないでちょうだい」
「ミリアでも分からないんですね」
「分からないものは分からないものよ」
どこかで聞いたような台詞だった。僕がチラリとカザンさんを見上げると、彼は口元をわずかに歪めて短く言った。
「……言ったろ、俺もそうだと」
「……はい」
ミリアは構わずに言葉を続ける。
「ただ……すごく変だった」
「変、ですか?」
「ええ。全部がね」
「全部……」
少しだけショックを受ける僕に、ミリアは小さく苦笑した。
「悪い意味じゃないわよ」
「本当ですか?」
「たぶんね」
「たぶんかよ!」
横からレンさんがツッコミを入れ、緊張感が少し和らぐ。ミリアは意に介さず言葉を紡いだ。
「普通ね、四人で戦ったら『四人分』のバラバラな動きになるはずでしょう?」
「はい」
「一人が前に出れば誰かの邪魔になり、誰かが避ければ誰かの対応が遅れる。狭い場所なら尚更、お互いにぶつかり合ってしまうわ」
「……」
「でも、あなたたちは違った」
ミリアが華奢な指を一本立てる。
「カザンが滑り込んだ死角へ、あらかじめ狙っていたかのようにダグが踏み込んだ」
二本目の指を立てる。
「ダグが打ち破って作った隙を、レンが即座に利用した」
「俺、足元の鍵を蹴っ飛ばしただけだけどな!」
「それだって立派な判断と動きよ」
「おおっ!」
「そして」
ミリアの視線が、じっと僕の瞳を射抜く。
「ユウ。あなたは、そのすべてをあらかじめ視ていた」
「……はい」
「違うかしら?」
僕は自分の手元を見つめ、思考を巡らせた。
「視ていた……というか。分かったんです」
「何が?」
「次に……誰がどこへ動くのかが、頭の中に自然と浮かび上がってきたんです」
「未来の予想?」
「たぶん……そうだと思います」
「だがな」
ここでダグさんが低く重い声で口を挟んだ。
「俺たちも分かってたんだよ」
「え……?」
ミリアが驚いたようにダグさんを見上げる。
「どういうことかしら?」
「さっきも話したがね」
ダグさんは自分のゴツゴツした拳を見つめながら言った。
「ユウに指示されるより先に、次に自分がどこへ動けば一番いいのか、感覚的に分かった瞬間があったんだ」
「カザンもそうなの?」
「ああ」
カザンさんが短く頷く。
「レンも?」
「……俺もだな。なんかこう、迷いなく体が勝手に最善の動きを選んでる感じだった」
「……」
ミリアは沈黙した。
僕を見つめ、次にカザンさん、ダグさん、レンさんを順番に見やり、最後にもう一度僕へと視線を戻す。
「……面白いのね」
ぽつりと、小さな呟きが漏れた。
「何が……ですか?」
「あなたのその力よ」
『力』――その響きには、まだ背筋がむず痒くなるような違和感がある。
「僕が……皆さんに何かをしてしまっているんでしょうか」
「何かしらの影響は与えているでしょうね」
「でも、自分でも何が起きているのかさっぱり分からなくて……」
「それでいいんじゃないかしら?」
「え?」
「今すぐ全部を解き明かす必要なんてないでしょう?」
あまりにもあっさりと言い切られ、僕は毒気を抜かれてしまった。
「それより」
ミリアが鉄格子に身を寄せる。
「一つだけ、ハッキリと分かったことがあるわ」
「何ですか?」
「あなたのその力は……誰か一人の腕力を無理やり跳ね上げるようなものじゃない、ということ」
「強くする力じゃない……?」
「カザンは、あの瞬間に急に筋力が何倍にもなったかしら?」
「……いや、力そのものが増した感覚はない」
カザンさんが答える。
「ダグは?」
「腕力や頑丈さ自体はいつものままだな」
「レンは?」
「俺は元から超強いし!」
「聞いてないわ」
「はい」
ミリアは僕に向かって微笑んだ。
「ほらね。誰も急に超人になったわけじゃないわ」
確かにそうだ。カザンさんは元から鋭い武術の腕があり、ダグさんは元から人一倍力が強い。レンさんは――鍵やからくりの扱いにかけては右に出る者がいない。
「でもね」
ミリアは両手の指を少し広げて見せた。
「ぶつかり合わなくなっているのよ」
その言葉が、胸の奥深くに重く響いた。
「ぶつからない……」
「ええ。それぞれが得意なことを、バラバラに主張してぶつけ合うんじゃないわ」
彼女は広げた両手の指を、ゆっくりと交差させていく。
「こうやって、噛み合わせていたの。まるで――最初から『一つの生き物』として動いているみたいに」
カチリ、と指が噛み合わさる。
ひとつの動き。
「じゃあ……」
レンさんが頭を掻きながら言った。
「ユウが俺たちの意識を乗っ取って、無理やり操ってたわけじゃないんだな?」
「たぶんね」
「よかったー! いやさ、自分の意志と関係なく体が勝手に動き出したら、流石に怖すぎるだろ?」
「……そうですね」
僕も心底ほっと胸を撫で下ろした。
自分自身でも恐れていたのだ。もし僕が、自分の都合で三人の身体や意思を勝手に支配していたのだとしたら――そんな不気味で恐ろしい力、二度と使いたくないとすら思っていた。
「ユウ」
ミリアに呼ばれ、ハッと顔を上げる。
「はい」
「今、何を考えていたの?」
「……」
迷ったけれど、正直に話すことにした。
「もし僕が……三人の身体を勝手に操っていたのだとしたら、すごく嫌だなと思って」
「どうして? 便利じゃない」
「そんなの……嫌に決まってます」
「誰が嫌なの?」
「……三人が、です」
「ふん、当の本人より、お前が一番嫌そうな顔をしてるがな」
カザンさんが呆れたように息を吐く。
「……そうかもしれません」
僕が苦笑すると、ミリアは満足そうに目を細めた。
「なら、その感覚は絶対に忘れないことね」
「感覚……ですか?」
「『自分がやられたら嫌なこと』を、相手に対して想像できることよ」
彼女は冷たい鉄格子にそっと掌を添えた。
「力なんてものはね……便利だと分かると、便利だからという理由だけで使いたがる人間が山ほどいるんだから」
「……」
さっきカザンさんに言われた「使えるからって、使わなきゃいけないわけじゃない」という言葉が脳裏をよぎる。
「それにね」
ミリアが柔らかく微笑む。
「私は、今のあなたのその力なら……結構好きよ」
「好き……ですか? まだ何なのかも分かっていないのに」
「今見せてもらった範囲で十分よ。一人の英雄だけが異常に強くなる力なんかじゃないでしょう?」
鉄格子越しに、彼女の視線が僕、カザンさん、ダグさん、レンさんを順番に巡る。
「四人とも、自分の足で立ち、自分の意思で動いていた。それなのに――四人で一人の人間みたいに鮮やかに動いて見せた」
僕は息を呑んだ。
あの戦闘の瞬間の感覚が蘇る。
右、左、前、後ろ。
誰の動きも邪魔にならない。足りない隙間を、誰かが自然に埋めていく。
僕一人では、倒れた衛兵一人にすら立ち向かえない。けれど――。
「誰か一人が強くなるんじゃない。みんなで一緒に強くなる……そんな力なのかもしれないわね」
「みんなで……」
小さく呟いた言葉が、じんわりと心に染み込んでいく。
さっきまで、自分の中に芽生えたこの得体の知れない力が恐ろしいばかりだった。今だって正体は分からないし、不安が完全に消えたわけじゃない。
けれど――ほんの少しだけ、この力を受け入れられる気がした。
「ユウ」
カザンさんの呼びかけ。
「立てるか?」
「はい」
僕は石壁に手を突き、ゆっくりと立ち上がった。一瞬、視界がグラリと揺れる。
「……」
カザンさんが無言で僕を見つめてくる。
「大丈夫――」
口を突いて出かけた言葉を、僕は咄嗟に飲み込んだ。
「……少し、頭が痛いです」
「よし」
「何が『よし』なんですか……」
「ようやく学んだようだな」
ダグさんが豪快に笑い、レンさんもニヤニヤと肩を叩いてくる。
「ユウも成長したじゃん!」
「レンさんにだけは言われたくありません」
「本日二回目のそれ! ひどくない!?」
軽口を叩き合い、僕たちは少しだけ笑った。
その時――地下通路の深い暗闇の奥から、コンコンと弱々しい咳払いが聞こえてきた。
僕たちの笑い声がピタリと止まる。
忘れてはいけない。この地下には、僕たち以外にも大勢の囚われた人々がいるのだ。
「……行かないと」
「ああ」
カザンさんが頷き、倒れた衛兵二人から使えそうな物品を手早く回収し始めた。鍵束、小さな巾着袋、予備の小太刀。けれど、荷物になるような大きなものは持っていけない。
「急ぐぞ」
「はい」
僕はもう一度、ミリアと向き合った。
「今度こそ、行きます」
「ええ」
「必ず――」
言葉を途中で区切る。安易に「必ず」なんて約束していいはずがない。僕たち自身、無事に地上へ脱出できる保証すらどこにもないのだから。
それでも。
「絶対に、助けを呼びます」
固い決意を込めて告げると、ミリアは愛おしそうに目を細めた。
「信じているわ」
「……はい」
僕が意を決して背を向けようとした、その時だった。
「待って」
ミリアの声に引き止められ、振り返る。
「何ですか……?」
ミリアは何かをためらうように、僕をじっと見つめていた。
やがて、彼女は意を決したようにゆっくりと右手を髪の奥へと伸ばした。
暗がりでよく見えないが、彼女の華奢な指先が何かに触れる。
チリン――。
小さく、澄んだ金属音が響いた。
「っ……!?」
その音を聞いた瞬間、僕の身体が石のように硬直した。
一瞬。ほんの一瞬だけ。
薄暗い部屋。冷たい壁の質感。見知らぬ誰かの荒い息遣い――。
記憶には存在しないはずの光景が、激しい閃光のように脳裏を駆け抜けていく。
「ユウ……?」
ミリアの心配そうな声で、ハッと現実に引き戻された。僕は激しく上下する胸を押さえ、大きく息を吐き出す。
「……大丈夫、じゃないです」
今度は誤魔化さず、自分の口からハッキリと言った。
「でも……聞けます」
もう一度深く息を吸い込み、意識をしっかり保つ。
ミリアは僕の様子を確かめるように見つめると、髪から取り外した「何か」を、愛おしそうにその手の中に握りしめた。
「あなたに……」
彼女は静かに、けれど強い意志を込めて告げた。
「どうしても、渡しておきたいものがあるの」
暗い地下室の僅かな明かりを拾い上げ、その手の中で一際美しく輝くものがあった。
銀色に象られた一対の翼。その中央には、澄み切った空のような鮮やかな空色の石がひとつ、静かに嵌め込まれている。
「……綺麗」
「ふふ、ありがとう」
ミリアは愛おしむような眼差しでそれを見つめると、鉄格子の隙間から僕に向かってそっと差し出した。
「無事に外へ出られたら……しかるべき騎士にこれを見せなさい」
「騎士……ですか? どうして騎士に見せるんですか?」
「見せればわかるわ。……これも秘密。女の子には秘密が多いのよ」
「それ、さっきも聞きました」
「ふふ、便利でしょう?」
ミリアは少しだけ寂しそうな、けれど揺るぎない覚悟を秘めた瞳でその髪飾りを見つめている。
「本当に……これを見せるだけで、僕たちの話を信じてくれるんですか?」
「少なくとも、無下に追い払ったりはせずに話くらいは聞いてくれるわ」
差し出された髪飾りは、どう見ても装飾が細かく高価な品だった。僕が受け取るのを一瞬躊躇していると、ミリアは柔らかく微笑んだ。
「あなたなら、売って金に換えたりしないでしょう? さっきだって、私を無理やり連れて行こうとしなかったもの。それに――あなたには、頼れる仲間がいるわ」
そう言われ、僕たちは顔を見合わせる。
「……託すわね」
『渡す』ではなく『託す』。その言葉の重みをしっかりと受け止め、僕は両手を重ねてそれを受け取った。
指先に触れた金属はひんやりと冷たく、小ぶりな見た目に反してずっしりとした重みが手に伝わってくる。
「絶対に失くさないこと。それから売らないこと。あと……絶対にレンには渡さないこと」
「なんで俺指定なんだよ!?」
「だって、速攻で珍しがって分解しそうだもの」
「しねえよ! 流石にそこまでデリカシーなくねえわ!」
ミリアの軽妙な冗談に、緊張に包まれていたその場にふっと和やかな笑みがこぼれた。
僕は受け取った大切な髪飾りを、服の内側のポケットへ大事に仕舞い込む。
「ミリア。必ず助けを呼びます。そして、必ずここへ戻ってきます」
「……うん。待っているわ」
今度は茶化したりせず、ミリアは真剣な眼差しでまっすぐに答えてくれた。
◇
「行くぞ」
カザンさんの短い一言を合図に、僕たちは今度こそミリアに背を向けた。
一歩、二歩、三歩。
歩みを進めるたび、暗闇の奥へと独房が遠ざかっていく。けれど、僕の胸元には確かに冷たい銀の翼がある。
外へ脱出する。騎士を探し出す。これを見せて助けを求める。そして、必ずここへ戻ってくる。
やるべきことは増えてしまったけれど、僕たちの胸の中に不思議と絶望感はなかった。
「ユウ、歩けるか?」
「はい。……少し、頭が痛いですけれど」
「最初からそう言え」
「すみません……」
「ダグ、ユウの荷物を持ってやれ」
「任せろ」
「自分で持てますってば……」
苦笑いを浮かべながら、僕たちは薄暗い通路を進んでいく。
僕たちはまだ追手を振り切れていないし、この先に本当に外への出口があるかもわからない。
けれど、さっきまでとは決定的に違っていた。
僕たちには――絶対に『ここへ戻ってくる理由』ができたのだから。
胸元の髪飾りを衣類越しに一度だけ強く握り締め、僕は迷わずまっすぐ前を見据えた。




