第16話 奥の独房
「そこに、誰かいるの?」
暗闇の奥から響いたのは、まだ幼さの残る女の子の声だった。
僕たちは誰も、すぐには答えることができなかった。
暗い地下通路。冷たく湿った古い石壁。
ぽたり――どこかで水滴が落ちる音だけが空虚に響いている。
その奥から、ガチャリと小さく金属が擦れ合う音が聞こえた。鎖だ。たぶん、誰かが動いたのだ。
直後、さらに奥から、また別のガチャリという音が重なった。今度は少し離れた場所から聞こえる。
「……一人じゃない」
僕が息を呑んで呟く。
「ああ」
カザンさんも低く低く重い声で応じた。
耳を澄ませば澄ますほど、暗闇の奥から様々な気配が立ち上ってくる。
誰かが押し殺すように吐き出した咳。衣服の擦れる音。そして、幾重にも重なる微かな呼吸音。
人がいる。声をかけてきた女の子だけじゃない。暗闇の底に、一体どれほどの人間が息を潜めているのか、見当もつかなかった。
「ここ……」
レンさんが声を潜めて問いかける。
「牢獄なのか?」
「みたいだな」
ダグさんが苦々しい顔で答えた。
第七鋳造所の地下。どこにも描かれておらず、誰も存在を知らないはずの場所。
そこに、何人もの人々が閉じ込められている。
「……ユウ」
カザンさんが僕をかばうように前へ出た。
「後ろにいろ」
「でも――」
「誰がいるか分からねえ」
「……はい」
カザンさんの厳しい横顔に押し切られ、僕は一歩後ろへ下がった。
カザンさんは暗闇の先に向けて、短く声を投げかける。
「こっちも聞きてえ。お前、誰だ」
静寂が支配する。少しの間を置いて、暗がりから声が返ってきた。
「先にそちらが名乗るのが礼儀じゃない?」
思いのほか、凛とした声だった。
「……」
レンさんが僕の耳元にそっと顔を寄せてくる。
「なんか、思ったより元気そうじゃない?」
「聞こえてるわよ」
「うわ」
「レン」
すぐさまダグさんがレンさんの肩をガシッと掴んだ。
「すみません」
「素直ね」
くすっ、と鈴を転がすような小さな笑い声が聞こえた。
妙だった。こんな冷たく暗い牢獄に囚われているというのに、その声には怯えや絶望の色がほとんど感じられない。
「……僕の名前は、ユウです」
僕が名乗ると、彼女は興味深そうに繰り返した。
「ユウ?」
「はい」
「ほかの人は?」
「カザンだ」
「ダグだ」
「レンです」
「なんでお前だけ丁寧なんだよ」
「第一印象って大事だろ!」
「黙れ」
僕たちの相変わらずのやり取りに、彼女は再び小さな笑い声を漏らす。
「変な人たち」
その声を聞いて、僕の肩から少しだけ緊張の力が抜けた。
「あなたは?」
「私は――」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。
「……ミリア」
「ミリア?」
「ええ」
それ以上の名前は言わなかった。理由を深く追及するつもりもなかった。
「ミリアさん」
「さんはいらないわ」
「でも」
「いらない」
「……ミリア」
「よろしい」
どこか満足げで、少し楽しそうな響きだった。
「近づいてもいいですか」
「ええ。ゆっくりなら」
「分かりました」
一歩、踏み出す。
徐々に暗闇に目が慣れてくると、通路の左右に等間隔で並ぶ鉄格子が見えてきた。
一つ目、二つ目、三つ目。
最初の牢は真っ暗で何も見えない。次の牢も暗闇に包まれている。空室なのか、それとも誰かが潜んでいるのかすら窺い知れない。
さらに奥へと足を進めた、その時。
「……水」
掠れた声が聞こえ、僕は思わず足を止めた。
左側の鉄格子の向こう。暗闇で姿は見えないが、確かに誰かがそこにいる。
「水……」
懇願するような、弱々しい声。僕は思わず鉄格子へ近づこうとした。
「ユウ」
「でも……!」
「今は駄目だ」
「水くらいなら――」
「持ってねえだろ」
「……」
ダグさんの言葉に、僕は言葉を詰まらせた。その通りだった。僕たちの手には何も与えられていない。
「それに」
カザンさんが苦々しく声を落とす。
「時間がねえ」
冷たく聞こえる言葉だった。けれど、カザンさんの握りしめられた拳が固く震えているのを僕は見逃さなかった。
「……はい」
僕は歯を食いしばり、再び歩き出した。助けを求める声を置き去りにして進むのは胸が押し潰されそうに痛かった。けれど、今の僕たちにはどうすることもできない。
通路のさらに奥から、ガチャリと右手から誰かが動く音。その先で溢れる短い咳。もっと奥で、途切れ途切れに何かを呟く声。
姿は見えない。どんな人間なのかも分からない。けれど、いるのだ。
僕たちが知らなかっただけで、この暗い地下には、たくさんの人々が捕らわれている。
「ここよ」
ミリアの声が響いた。
通路の奥にある鉄格子の向こう側に、ようやく一人のかすかな人影が浮かび上がった。
女の子だ。年齢は僕より少し上くらいだろうか。粗末なベッドの端に腰掛けている。
着ている服は汚れ、髪も少し乱れていた。けれど――何かがおかしかった。
ここに閉じ込められている他の囚人たちとは、どこか根本的に違っている。
その背筋の伸びた姿勢。佇まい。上品な話し方。そして、僕たちを見つめるその瞳。
僕、カザンさん、ダグさん、レンさん。
一人ひとりの顔を冷静に見比べ、品定めするように観察している――そんな印象を受けた。
「怪我はないか?」
ダグさんが問いかける。
「大きなものはないわ」
「歩けるか?」
「ええ」
「食事は」
「一応、もらっているわ」
ダグさんが小さく頷く。
「いつからここに?」
「それは――」
一瞬だけミリアは言葉を濁し、考えるように目を伏せた。
「今は言わないでおくわ」
「なんでだよ」
レンさんが首を傾げる。
「秘密」
「また秘密かよ」
「女の子には秘密が多いの」
「そういうもんなのか?」
「たぶんね」
「自分でも分かってないじゃん!」
「レンさん」
「はい」
僕は目の前の鉄格子に目を向ける。
「鍵」
レンさんも即座に意図を察した。
「ああ!」
衛兵から奪い取った鍵束をじゃらりと鳴らす。
「これなら、開けられるかもしれない」
レンさんが鉄格子へ一歩踏み出し、鍵穴へ手を伸ばそうとした。
「待て」
カザンさんの制止の声に、レンさんの手がぴたりと止まる。
「何だよ、カザン」
「先に聞く」
カザンさんは鉄格子の向こうのミリアをじっと見据えた。
「俺たちは、ここから逃げる途中だ」
「……」
それを聞いたミリアの表情が、ほんのわずかに動いた。
「そう」
「この牢を開ければ、お前も外へ出られる」
「そうね」
カザンさんは一息置き、まっすぐに告げた。
「俺たちと来るか?」
静寂が降り積もる。
僕は当然、「行く」と答えるものだと思っていた。ここは冷たく暗い牢獄だ。逃げられるチャンスがあるなら、跳びつくのが普通のはずだった。
しかし。
「行かないわ」
予想外の言葉が、彼女の唇から零れ落ちた。
「……え?」
思わず僕の声が漏れる。
「行かない」
ミリアはもう一度、毅然とした声でハッキリと言い切ったのだった。




