第13話 重なる波調と、導く声
「……え?」
その瞬間、周囲の雑音がすっと遠のいていくような感覚に襲われた。
違う、音が小さくなったわけじゃない。脳内で一つひとつの音が鮮明に分解され、それぞれの意味を持って耳に届いているんだ。
遠くで重低音を響かせる、炉の「ゴウン」という地鳴り。
配管から漏れ出す蒸気の「シュー」という排気音。
曲がり角の向こうから迫る、衛兵の靴が叩く「カツ、カツ」という足音。
カザンさんたちの服が擦れ合うかすかな摩擦音。
そして――重なり合う、僕たち四人の規則正しい呼吸音。
あらゆる音が耳に入ってくるのに、少しもうるさく感じない。むしろ、恐ろしいほどに静寂そのものだった。
カザンさんが今、どちらの足に体重を乗せているのかが手にとるように分かる。
ダグさんが次に右手を出そうと身構えているタイミングが分かる。
レンさんが恐怖に震えながらも、一歩踏み出そうとしている覚悟が伝わってくる。
僕の脳内に、三人それぞれの身体感覚と意識が怒涛のように流れ込んでくる。
いや、違う。流れ込んでいるんじゃない。
僕たち四人の存在そのものが、まるで一本の巨大な河の流れのように一つに溶け合っているんだ。
「……」
怖くない。
さっきまでどこをどう探しても見つからなかった逃げ道が、今ははっきりと視界の先に浮かび上がっていた。
角の向こう、接近してくる衛兵は二人。
一人目は大柄で、歩幅が広い。
二人目は少し右寄りの体勢で追従している。
まだ壁の陰になって姿は見えない。けれど、僕には彼らの配置と動きが克明に『視えて』いた。
「カザンさん」
「……ああ」
カザンさんの返事は妙に早かった。まるで、僕が何を言おうとしているのかをあらかじめ察していたかのように。
「最初の一人をお願いします」
「任せろ」
「ダグさん」
「ああ」
「二人目が右へ動きます」
「分かった」
「レンさん」
「……笛だな!?」
僕はレンさんを振り返る。
「……はい」
レンさん自身、自分がなぜその指示を悟れたのか、驚いたように目を見開いていた。
「なんで分かったんだ、俺……!?」
「僕にも分かりません!」
「またそれかよ!?」
「……来ます!」
全員の視線が、同時に角の暗がりへと注がれる。
カツ。
カツ。
壁に揺れる影が伸び、先頭の衛兵が角を曲がってきた。
「お前ら、そんなところで何を――」
「今っ!」
僕の合図と同時に、カザンさんが跳び出した。
圧倒的な速度。今まで炉の作業や資材搬送で何度も見せてくれた力強さ。けれど、今の動きは今までとはまるで違っていた。無駄が一切削ぎ落とされた、恐ろしいほどの洗練。
一歩で衛兵の懐へと滑り込み、わずかに姿勢を沈めると同時に、容赦のない拳がみぞおちを撃ち抜く。
「ぐっ……――!?」
衛兵の巨体が折り重なるように崩れかける。
だが、僕はその光景すら見ていなかった。僕の意識はすでに次の瞬間をとらえている。
「ダグさん!」
二人目の衛兵が焦って腰の笛へ手を伸ばす。
「右です!」
ダグさんが滑らかに半歩だけ横へ移動した。
たったそれだけの動作で、衛兵が振りかぶった腕が吸い寄せられるようにダグさんの胸元へと飛び込んでくる。そこを逃さず、ダグさんの太い腕が衛兵の手首をがっしりと掴んだ。
「なっ……!?」
「ぬおっ!」
そのまま石壁へと力任せに押しつける。
「レンさん!」
「分かってるっての!」
レンさんが低姿勢のまま滑り込む。
ターゲットは腰の笛。だが、その手前にある鍵束に一瞬視線が奪われた。
違う!
「左です!」
「っ……!?」
直感的な僕の叫びに反応し、レンさんが咄嗟に上体を強く捻る。
直後、カザンさんに打ち倒されたはずの一人目の衛兵が、死に物狂いで振り回した腕が、つい一瞬前までレンさんの頭があった空間を虚しく切った。
「うわっ、危ねえ!?」
「カザンさん!」
僕が言葉を言い切る前に、すでにカザンさんの身体は動いていた。
肘打ち、首元への手刀、膝蹴り。
刹那の間に繰り出された三連撃。速すぎて、何が起きたのか僕の目でも追いきれない。ただ確かなのは、一人目の衛兵から一瞬で完全に意識が狩り取られたことだった。
そのまま力なく床へ崩れ落ちる。
「ダグさん、下です!」
「分かっている!」
二人目の衛兵がダグさんの拘束を逃れようと、身をかがめて下へ逃げようとする。だが、その逃げ道にはあらかじめダグさんの極太の膝が待ち構えていた。
ガツン、と鈍い音が響き、衛兵の逃げ道が完全に潰される。
「レンさん!」
「はいよっ!」
レンさんの素早い手が伸び、腰元の笛と鍵束をまとめて引っつかみ、強引に引きちぎる。
「カザンさん!」
「ああ!」
最後の一歩を踏み込み、カザンさんが短い鋭い一撃を叩き込む。
二人目の衛兵も、ぐにゃりと膝から崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「……」
静寂が戻ってきた。
ゴウン――……。
遠くで、鋳造所の炉だけが何事もなかったかのように不気味な地鳴りを響かせている。
僕は足元に横たわる二人の衛兵を見つめた。
一人。二人。
終わったのだ。
「……え?」
間の抜けた声を漏らしたのは、他ならぬ僕自身だった。
一体、何が起きたというのだろう。
さっきまでの僕たちは、逃げ道すらなく絶望の淵に立たされていたはずだった。なのに今、目の前には武装した衛兵が二人、手も足も出ずに崩れ去っている。
「……死んじゃ……ないよな?」
レンさんが怯えたような声で尋ねる。
ダグさんがかがみ込み、一人目の首筋に太い指を当てた。
「……息はある。生きてるな」
続いて二人目。
「こっちもだ。気絶しているだけだな」
「よかったぁ……」
レンさんがその場にへたり込みそうになる。
「いや、よくねえけどさ!」
奪い取った鍵束をぎゅっと握りしめたまま、レンさんが信じられないものを見るような目で僕を凝視した。
「何なんだよ、今の……!?」
「……」
「なあ、ユウ!?」
「……わかりません」
「いやいやいや!」
レンさんが僕と倒れた衛兵を指で交互に示しながら叫ぶ。
「『分かりません』で済まされるレベルじゃないだろ!?」
「でも、本当に……」
僕は何とか説明しようと一歩踏み出そうとした。
その瞬間。
「っ……!?」
ぐにゃりと視界が大きく傾いた。
「ユウ!?」
ダグさんの叫び声とともに、強い力で肩を支えられる。
「大丈夫か!?」
「……はい」
「顔色が真っ青だぞ……!」
「少し……だけ……」
頭がひどく重い。激痛というわけではないけれど、脳の奥深くを冷たい手でぎゅっと握り潰されているような、ひどい圧迫感と疲労感が全身を襲っていた。身体から一気に力が抜け落ちていく。
「座れ」
ダグさんが厳しい声で言う。
「でも……」
「いいから座れ!」
「……はい」
冷たい石壁に背を預け、ずるずるとその場に腰を下ろす。
呼吸をする。
さっきまで四人で完全に重なり合っていた呼吸のリズムは、今はもうバラバラに乱れていた。
レンさんの呼吸は速く荒い。ダグさんは少し息を荒げている。
そして、カザンさんは――。
「……」
カザンさんだけが、何も言わずに佇んでいた。
「カザン……?」
レンさんが不安そうに呼びかけるが、返事はない。
カザンさんは倒れた衛兵にも、奪い取った鍵にも目を向けていなかった。ただじっと、壁際にへたり込む僕のことを見つめ続けている。
その目が怖かったわけじゃない。
けれど、今までのカザンさんの目とは明らかに違っていた。
驚愕。困惑。それだけじゃない。
何か計り知れないものを確かめようとするような、重く鋭い眼光。
「……カザンさん?」
絞り出すような声で僕が呼ぶと、ようやくカザンさんがゆっくりと口を開いた。
「ユウ」
「はい……」
「お前――」
カザンさんは一度言葉を区切り、今まで聞いたこともないような低い声で尋ねてきた。
「今――俺たちに、何をした?」
僕は、何も答えることができなかった。




