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第12話 迫る靴音と、ひとつの呼吸


カツ。

カツ。

カツ。


暗闇の向こうから、硬い靴音がじわじわと近づいてくる。


目の前には、外されたままの計器の裏板。

足元の床には、作業で散らかった工具が転がっている。

ダグさんは未だ圧力計の前にかがみ込んだままだ。

今からこれらを隠して何事もなかったかのように装う時間なんて、どこにもなかった。


「……一人か?」


カザンさんが息を殺して囁く。

僕も全神経を耳に傾けて、遠くの音を探った。

違う。一人じゃない。


「二人です」

「二人だと?」

「……少し後ろに、もう一人います」


先頭の足音が大きすぎて打ち消されそうになっていたけれど、間違いなく存在していた。

重く踏みしめる第一の足音。そして、その少し後ろを追うような、わずかに歩幅の狭い第二の足音。

衛兵は、二人だ。


僕は頭の中で、これまで必死に記憶してきた巡回ルートと時間表を高速で手繰り寄せる。

消灯の鈴。全炉の圧力低下。衛兵たちの北側への集中。そして、今生まれるはずの五分間の空白。

何度も何度も確認したはずだ。本来ならこの時間帯、この通路に衛兵がやって来るはずはなかったのだ。


「おかしい……」

「何がだ、ユウ」


レンさんが焦りを滲ませて聞いてくる。


「この時間、この場所に衛兵が通るはずがないんです」

「だが、現に来ちまってるぞ!」

「はい……っ」

「どうする!?」


必死で思考を回転させる。


右側の通路――作業区画へと続く。ダメだ、足音が聞こえてくる方向だ。

左側の通路――細工を施した蒸気管がある。ダメだ、見られたら一発で細工が露呈する。

後ろ――三番炉。今から引き返すにはあまりにも遅すぎる。


どこにも、姿を隠せるような場所がない。


ならば、誤魔化すか?

剥き出しの圧力計の裏板、散らばった工具、そしてしゃがみ込むダグさん。

どう言い繕っても、誤魔化しきれるはずがない。


どこをどう探しても、逃げ道という答えが見つからなかった。


靴音が容赦なく近づいてくる。


カツ。

カツ。


「ユウ」


不意に、カザンさんが低い声で僕を呼んだ。


「お前は下がってろ」

「え……?」

「レン、お前もだ」


声の質が、ガラリと変わっていた。

いつもの荒っぽくもどこか温かみのあった声ではない。深く、冷たく、殺気を孕んだ声。

カザンさんが僕とレンさんを庇うように、一歩前へと踏み出した。


「カザンさん、何をする気ですか!?」

「見れば分かるだろ」

「でも、相手は二人ですよ!?」

「だからどうした」


カザンさんは軽く首を鳴らし、肩を回した。

恐怖に怯えている様子など微塵もない。それどころか、さっきまでよりも全身から余計な力が抜け、戦闘のための無駄のない体勢へと移行している。


「ダグ」

「ああ」


ダグさんも静かに立ち上がった。


「一人は俺が押さえる」

「レン」

「……分かって居るって」


レンさんが息を呑み、床に転がっていた重厚な工具を一つ拾い上げた。


「笛を吹かれる前に、叩き潰せばいいんだろ?」

「待ってください!」


僕は思わず叫び、三人の背中に声を張り上げた。

三人が一斉に僕を振り返る。


「なんだ、ユウ」

「それじゃ……それだとダメです!」


言葉が喉でつっかえる。

何がダメなのか。なぜ僕の胸はこんなにも警鐘を鳴らしているのか。


カザンさんは圧倒的に強い。

ダグさんだって力仕事で鍛え上げられているし、レンさんだって僕なんかよりずっと素早く動ける。

三人で不意を突けば、二人の衛兵くらい倒せるかもしれない。


けれど――何かが強烈に腑に落ちない。気味の悪さが胸を焦がす。


僕は脳内で三人の動きをシミュレーションした。

カザンさんが、一人目へ飛びかかる。

ダグさんが、二人目を抑えに走る。

レンさんが、笛を奪うために踏み込む。


違う。遅い。それじゃダメだ。

一人目の衛兵がカザンさんの初撃を回避する。ダグさんが二人目の腕を掴む。レンさんが笛へ向かって手を伸ばす。その瞬間、一人目の衛兵の意識が――。


「……違う!」

「何が違うんだよ、ユウ!?」


レンさんが痺れを切らしたように問う。


「その動きだと、途中でお互いにぶつかります!」

「ぶつかる……?」

「カザンさんが最初の人をかわしたとき、ダグさんの進入軌道と交差して前に入り込んじゃうんです!」


カザンさんが深く眉をひそめた。


「おいおい、まだ来てもいねえ相手の動きが、なんでそんな風に分かるんだ?」

「分かりません!」

「はあ!?」

「でも……分かっちゃうんです!」


頭の中で、人間たちの配置が、動きが、まるで未来予知のように立体的に立ち上がっていく。

カザンさん、ダグさん、レンさん。

そして、まだ姿すら見せていない曲がり角の向こうの二人。

何度イメージを重ね合わせても、どこかでコンマ数秒のズレが生じ、破綻してしまうのだ。


「バラバラに動いたら絶対にダメです!」

「じゃあ、どうすればいいって言うんだよ!?」


答えようと口を開きかけた、その時だった。


スッ――と、レンさんが息を吸い込んだ。

恐怖からくる、短く浅い呼吸。

カザンさんの呼吸は、腹の底から吐き出すようなゆったりとした周期。

ダグさんは、重く深いリズム。


全員の呼吸が、見事なまでにバラバラだった。


「……」


なぜだろう。

その『バラバラな呼吸の音』が、僕の意識を激しく揺さぶった。


「ユウ……?」


僕は無意識のうちに、己の胸に手を当てていた。


一度、息を吸う。吐く。

もう一度、吸う。吐く。


「お前、こんな時に何やってんだ?」

「……呼吸です」

「はあ!?」

「呼吸を……合わせてください」


三人が息を呑み、沈黙する。


「僕の呼吸に、合わせてください」


自分でも何を言っているのか理解できていなかった。

けれど、絶対にこれだという強い直感が、僕の全身を突き動かしていた。


「僕の呼吸のタイミングに、合わせてほしいんです」

「今!? こんな緊急事態に呼吸を合わせろってのか!?」


レンさんが金切り声を上げる。


「今です!」

「なんでだよ!?」

「分かりません!」

「分かんねえのかよ!?」

「レン」


カザンさんが低く制した。

そして、じっと僕の瞳を見つめてくる。

一瞬の逡巡。思考の交差。


「……分かった」

「カザン!?」

「いいからやれ」


ダグさんも力強く頷いた。


「俺も分かった。ユウに乗る」

「えっ、嘘だろ!? 俺だけ仲間外れ!? 待って待って!」

「レンさん!」

「はいはい! やればいいんでしょ、やれば!」


狭い通路で、四人が身を寄せ合う。


息を吸う。吐く。

一。二。三。


もう一度。

一。二。三。


最初は不揃いだった。

不安からレンさんの息が速くなり、ダグさんのリズムが遅れる。カザンさんだけが必死に僕の周期に合わせようとしてくれていた。


もう一度。

吸う。吐く。

一。二。三。


四人の肺が、同じ空気を取り込み、同じリズムで吐き出された――そのとき、何かが劇的に変わった。


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