第11話 囮の策
その夜、僕は寝台の上で一人、暗闇を見つめながら思考の海に沈んでいた。
鍵。存在しない鉄扉。夜間に生まれる五分間の空白。そして、警備の衛兵たち。
五分の時間さえあれば、あの廃棄区画の扉まで辿り着くことはできる。
けれど、鍵穴を探り、錠を開け、重い扉を押し開いてその先の安全を確認する――それだけの作業をこなすには、いくらなんでも時間が足りなさすぎるのだ。
なら、どうすればいい?
衛兵たちの注意を他へ逸らし、もっと遠くへ移動させることができれば……。
警報を鳴らすか、設備事故を起こすか、あるいは火事を出すか。
けれど、どれも奴隷たちに甚大な危険が及ぶ無謀な手段だ。
何か別の方法はないだろうか。もっと確実に、人を傷つけず安全に動かせるような方法は――。
◇
翌日。
「ひとつ、案があるんだけど」
人目のない薄暗い資材置き場に集まった時、レンさんが前置きをして切り出した。
「何ですか?」
「喧嘩を起こすんだよ」
「……」
「だから、そんな嫌そうな顔しないでよ」
僕が露骨に眉をひそめると、レンさんは弁解するように両手を振った。
「食堂でさ、誰もが巻き込まれるようなデカい喧嘩を起こすんだ。衛兵たちが慌てて止めに走ってくるだろ? その隙を突いて、俺たちは反対側から堂々と抜ける」
「……誰がその喧嘩をするんですか?」
「そこは……」
レンさんが言葉に詰まると、横からカザンさんが静かに引き継いだ。
「俺たち以外の奴らだ」
「どうやって起こすんですか」
「配給の飯を、あえて一つ余計に置いておく」
カザンさんは感情の起伏を感じさせない、淡々とした声で言った。
「いつも食い物が決定的に足りねえ班のテーブルにな」
その光景が鮮明に脳裏に浮かび、僕は言葉を失った。
「……奪い合いになる」
簡単だった。あまりにも容易に想像できてしまう、血みどろの浅ましい争い。
「成功率という観点だけで言うなら」
ダグさんが低い声で告げる。
「かなり高い策だな」
「衛兵は来ますか?」
「来るはずだ。最低でも二、三人はな」
「そうなれば、廃棄区画側の警備は相当手薄になる」
合理的だ。頭の片隅で、そんな冷静な言葉が浮かんできた。
けれど――。
「やりません」
気づいたときには、声が口から飛び出していた。
「ユウ?」
「そのやり方は、絶対にやりません」
「でもな――」
「嫌です」
戸惑うレンさんが口をつぐむ。
「……理由はなんだ?」
ダグさんが僕をまっすぐ見つめて尋ねてきた。
「僕たちが無事に逃げ出すために」
僕はすり減った服の上から、ぎゅっと自分の両手を固く握りしめた。
「関係のない誰かを囮にして、衛兵の前に差し出すことになるからです」
「死ぬと決まったわけじゃねえ」
カザンさんが低い声で言う。
「はい」
「少し痛い目を見て、殴られるだけで済むかもしれん」
「はい」
「それでもダメなのか?」
「嫌です」
僕は一切の迷いなく即答した。
「俺たちは、この鋳造所にいる全員を助け出せるわけじゃねえんだぞ」
「分かってます」
「ここにいる奴らを全員連れて、あの五分の間に逃げるなんて最初から不可能なんだ」
「分かってます……っ」
そんなことは、最初から痛いほど分かっているのだ。
僕は一度深く息を吸い込み、胸の中で固まった言葉を慎重に紡ぎ出した。
「助け出せないことと」
僕は目の前の三人を見回した。
「自分たちの都合で、あの人たちを利用して犠牲にすることは違います」
沈黙が、重く冷たくその場を支配する。
「僕たちは……」
声が震えそうになるのを、必死で押さえ込む。
「ここにいる人たちを置いて逃げます」
その事実を言葉として口に出すだけで、胸の奥が引き裂かれそうに痛んだ。
「でも」
あの日、冷たい鉄扉の向こうへと引きずられていった男の顔が脳裏をよぎった。ボルグ。最後に見つめ合った、あの静かな瞳。
「だからって」
僕はまっすぐに三人の目を見据えた。
「その人たちを、僕たちが生き延びるための捨て駒や道具にはしたくありません」
「……成功率は著しく下がるぞ」
「はい」
「もし捕まったら」
カザンさんが僕の顔を鋭く見つめる。
「次に選別の鈴が鳴ったとき、差し出されるのは俺たちかもしれねえんだぞ」
「……はい」
怖い。恐ろしいに決まっている。
この前の検診は、運よく四人全員が通り抜けることができた。けれど『次の検診までは安全だ』なんて都合のいい保証はどこにもない。衛兵の気まぐれでリストに名前が追加されるかもしれないし、明日の作業中の事故で動けなくなるかもしれないのだから。
それでも。
「僕は」
大きく息を吸い込み、固い決意を口に乗せる。
「そんな方法を使ってまで、逃げたくはありません」
「……」
「ですが」
僕は一度視線を落とし、それから三人の顔をしっかりと見つめ直した。
「僕の勝手な我儘を、三人にまで強制するつもりはありません」
「……は?」
「もし、囮を使う方が確実で良いと三人が判断するなら」
僕は静かに、けれど明確に告げた。
「僕だけ、別の脱出方法を一人で探します」
言い終わった次の瞬間。
ごつんっ!
「痛っ!?」
頭頂部に強い衝撃が走り、僕は思わず両手で頭を押さえた。カザンさんに本気で叩かれたのだ。
「馬鹿野郎」
「な、なんで叩くんですか……!」
「なんでそこで、すぐに一人で抱え込もうとするんだ」
「だって――」
「誰が囮を使うって言ったよ?」
「……え?」
「俺はただ、策としての成功率の話をしただけだ」
カザンさんは心底呆れたように、深々とため息をついた。
「俺だってなぁ、他人を売ってまで自分だけ泥船から逃げ出したいわけじゃねえよ」
「俺も俺も」
レンさんが気まずそうにひょいと手を挙げた。
「まあ、最初に言い出したのは俺なんだけどさ……」
「はい」
「実際やるって具体的に想像したらさぁ……」
レンさんはガリガリと自分の頭を掻き回した。
「……うん、やっぱり後味悪くて嫌だわ」
ダグさんも無言のまま、力強く小さく頷いた。
「別案を考えるぞ」
「いいんですか……?」
「四人で逃げるんだろ」
カザンさんが言った。
「……はい」
「だったら」
カザンさんは僕の頭の上に、さっき僕を叩いた太くて固い手のひらを、今度はポンと優しく置いた。
「四人全員が納得できる方法で、胸を張って逃げるぞ」




