第9話:姉の巡礼手帳
大司教猊下のご視察から、三日。
その日は『白のルカ』案件の定例検分だった。旧写本館の三階、夕刻。テッサは書庫の整理に出ており、フェリクス翁は早仕舞い。局には、私と被監査人だけが残っていた。
「監査官どの。本日の質問は、以上ですか」
「……失礼しました。あと三問、残っています」
「では、その前に。私から一問だけ」
ルカ様は、被監査人席から静かに言った。
「猊下がおっしゃった『セラフィナ』という方は、どなたですか。……あの日から、あなたの検分の手が、一拍ずつ遅れています」
被監査人に観察されていた。監査官として、失格である。
私は監査手帳を閉じ、懐から、もう一冊を出した。表紙の角が擦り切れた、古い巡礼手帳。
「姉です。セラフィナ・エルロー。十二年前、聖女に認定されました。当時、姉は十五。私は十一でした」
明るい人だった、と思う。私の勘定癖を、家中で唯一笑わなかった人だ。庭の花を数える私の隣にしゃがんで、「じゃあ、数えた分だけ水をあげようね」と言う人だった。
認定の日、大聖堂の前は人で埋まった。壇上の姉は白衣で、綺麗で、遠かった。人垣の中の私に気づくと、姉は聖女の礼の途中で、こっそり指を三本立てた。三日したら帰るから、の合図である。
その約束は、果たされた。……果たされたのは、あれが最後になったが。
認定の後、姉は王都に上がり、巡礼と祈祷の日々に入った。会うことは、ほとんど叶わなくなった。代わりに、この巡礼手帳がいつも姉の側にあった。……姉の死後、家に届いた遺品は、これ一冊である。
「読んでも?」
「監査に必要ですか」
「必要です。あなたを検分しているのは、私も同じですから」
妙な理屈だ。だが、筋は通っている。私は手帳を開き、卓の上で二人の間に置いた。
姉の字を他人に見せるのは、八年ぶりである。指先が一度だけ迷い、それから、頁は素直に開いた。
初めの頁は、字が跳ねている。
『認定式。緊張して嚙んだ。カサンドラが笑うから助かった』
『北の巡礼から戻ったら、カサンドラに王都の焼き菓子を。硬いのじゃなくて、ちゃんと甘いの』
『祈祷、三件。おばあさまの膝が伸びた。うれしい。御光さまは、いる』
頁が進むにつれ、字が変わっていく。私は監査官なので、筆跡で読む。線が細り、行間が詰まり、インクの継ぎ足しが増える。……疲れている者の字だ。
『祈祷、九件。数を、覚えていられない』
『今日も献納の話だった。わたしは祈っただけなのに、まわりは金貨の話ばかりする』
『眠い。指の先が、うまくあたたまらない』
初めの年、頁のあちこちにあった「うれしい」の三文字は、進むごとに数を減らし——最後の年には、一度も出てこない。
最後の記入は、八年前の春。
『次の巡礼が終わったら、少しだけ家に帰れるって。カサンドラ、大きくなったかな』
——その次の頁は、ない。
綴じ目に、破り取られた紙の根元だけが残っている。誰が、いつ破ったのかは、分からないままだ。
「……その巡礼の、途中に?」
「『昇天』の報せが、一枚届きました。享年十九。遺体は聖別のため教会が引き取ったとのことで、家族は対面していません。墓所は、非公開。記録は、閲覧不可。……以上が、姉の決算です」
報せの日のことは、正確に覚えている。父は文面を三度読み、母はそのまま立てなくなった。十五の私は、報せの字数を数えていた。数えていないと、何かが崩れる気がしたのだ。
本文、五十六字。姉の十九年に対して、五十六字である。
勘定が、合っていない。十五の子供にも分かった。人がひとり消えたのに、家の側に載ったのは、紙一枚なのである。
「私が奇跡を疑うのは、奇跡に姉を持っていかれたからです」
言ってから、訂正した。監査官は、記載を正確にする職業である。
「——いえ。この書き方では、科目が違いますね。私は、奇跡を恨んでいるのではありません。姉を連れて行った何かが、『奇跡』の名で記帳されたことを、まだ認めていないだけです。検算が済んでいないんです。だから」
「だから?」
「だから私は、本物に会いたいのです。本物が一つでもあると立証できれば、姉の消えた勘定の、どの行からが嘘だったのか——割り出せる」
ルカ様は、長いこと黙っていた。
やがて浮かんだのは、いつもの完璧な微笑ではなく、もっと不器用な、出来の悪い微笑だった。
「初日に、訊きましたね。あなたは奇跡を憎んでいますか、と」
「答えは、あの日と変わりません」
「ええ。……あれは本当は、私がずっと、自分に訊いてきた質問なんです」
聖人は、卓の上の巡礼手帳を——触れずに、ただ見た。
「奇跡に人生を持っていかれたのは。……あなたも、だったんですね」
「……ルカ様」
「私は、十歳で『発見』されました」
聖人は、自分の掌に目を落とした。
「あの日から、私の帳簿は、ぜんぶ他人が付けています。聖名も、認定も、治す相手も、治す順番も。……あなたのお姉さんの頁も、きっと、誰かが代わりに付けたんです。本人には、書かせないままで」
「…………」
「だから、検分を続けてください。私の頁を、私の代わりに検めてくれる人は——あなたが、初めてなので」
持っていかれた側同士。そういう勘定科目は、まだどの規程集にもない。
扉が、開いた。
ベネディクト局長が立っていた。本庁の会議から戻ったにしては、いつからそこにいたのか、煙管には既に火が入っている。局長は卓の上の巡礼手帳を一瞥して——驚かなかった。
「……局長。姉をご存じですね。猊下のあの日から、一度も『セラフィナとは誰だ』と訊かれていません」
「昔話をひとつ、しよう」
局長は、軋む椅子に腰を下ろした。
「十二年前、ある少女の聖女認定の席に、口うるさい異端審問官がひとりいてな。『この娘の奇跡は検分が済んでおらん』と言って、最後まで判を押さなかった」
「……その審問官は、どうなりましたか」
「左遷されてな。いまは埃臭い部署で、局長などをしておる」
「……判を押さなかった理由を、伺っても」
「検分が済んでおらんかった。それだけだ」
「姉の奇跡は、本物だったと思われますか」
「わしは、判を押しとらん。押しておらん判の中身を語るのは、監査官のやることではないよ」
それだけだった。今日の局長は、それ以上を語らない。私も、今日は追わない。
……追わないが、記録はする。八年前ではなく、十二年前から判を押していなかった人が、ここにいる。局長が祝宴の夜に私を拾ったのは、偶然ではなかった。
「嗅ぎ回るのは構わん」
局長は、煙をひとつ吐いた。
「わしの古傷まで含めて、な。だが——急ぐな」
「急ぐな、とは」
「……この局に、近く客が来る。あまり良くない客だ」
「客。……猊下の視察のような、ですか」
「あれよりは、行儀が悪い。じきに分かる。——テッサに言っておきなさい。台帳の写しの置き場所を、もう一つ増やせ、とな」
写しの置き場所を、増やす。つまり局長は、持ち出されるたぐいの事態を勘定に入れている。
私は姉の手帳を懐に戻し、監査手帳の明日の欄に、一行だけ書いた。
『来客に備える。茶器は、出さない』
監査官の私的控え——本日の収支。過去の開示、一件。検算できないもの、一冊(残高、変わらず)。
局長の言う「良くない客」。典礼課へ茶器を返すのは、延期します。




