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教会監査人は聖女を信じない 〜婚約破棄された検算令嬢、奇跡の「領収書」を拝見します〜  作者: 小鳥遊ミント


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9/10

第9話:姉の巡礼手帳

 大司教猊下のご視察から、三日。

 その日は『白のルカ』案件の定例検分だった。旧写本館の三階、夕刻。テッサは書庫の整理に出ており、フェリクス翁は早仕舞い。局には、私と被監査人だけが残っていた。


「監査官どの。本日の質問は、以上ですか」

「……失礼しました。あと三問、残っています」

「では、その前に。私から一問だけ」


 ルカ様は、被監査人席から静かに言った。


「猊下がおっしゃった『セラフィナ』という方は、どなたですか。……あの日から、あなたの検分の手が、一拍ずつ遅れています」


 被監査人に観察されていた。監査官として、失格である。

 私は監査手帳を閉じ、懐から、もう一冊を出した。表紙の角が擦り切れた、古い巡礼手帳。


「姉です。セラフィナ・エルロー。十二年前、聖女に認定されました。当時、姉は十五。私は十一でした」


 明るい人だった、と思う。私の勘定癖を、家中で唯一笑わなかった人だ。庭の花を数える私の隣にしゃがんで、「じゃあ、数えた分だけ水をあげようね」と言う人だった。


 認定の日、大聖堂の前は人で埋まった。壇上の姉は白衣で、綺麗で、遠かった。人垣の中の私に気づくと、姉は聖女の礼の途中で、こっそり指を三本立てた。三日したら帰るから、の合図である。

 その約束は、果たされた。……果たされたのは、あれが最後になったが。


 認定の後、姉は王都に上がり、巡礼と祈祷の日々に入った。会うことは、ほとんど叶わなくなった。代わりに、この巡礼手帳がいつも姉の側にあった。……姉の死後、家に届いた遺品は、これ一冊である。


「読んでも?」

「監査に必要ですか」

「必要です。あなたを検分しているのは、私も同じですから」


 妙な理屈だ。だが、筋は通っている。私は手帳を開き、卓の上で二人の間に置いた。

 姉の字を他人に見せるのは、八年ぶりである。指先が一度だけ迷い、それから、頁は素直に開いた。


 初めの頁は、字が跳ねている。


 『認定式。緊張して嚙んだ。カサンドラが笑うから助かった』

 『北の巡礼から戻ったら、カサンドラに王都の焼き菓子を。硬いのじゃなくて、ちゃんと甘いの』

 『祈祷、三件。おばあさまの膝が伸びた。うれしい。御光さまは、いる』


 頁が進むにつれ、字が変わっていく。私は監査官なので、筆跡で読む。線が細り、行間が詰まり、インクの継ぎ足しが増える。……疲れている者の字だ。


 『祈祷、九件。数を、覚えていられない』

 『今日も献納の話だった。わたしは祈っただけなのに、まわりは金貨の話ばかりする』

 『眠い。指の先が、うまくあたたまらない』


 初めの年、頁のあちこちにあった「うれしい」の三文字は、進むごとに数を減らし——最後の年には、一度も出てこない。


 最後の記入は、八年前の春。


 『次の巡礼が終わったら、少しだけ家に帰れるって。カサンドラ、大きくなったかな』


 ——その次の頁は、ない。

 綴じ目に、破り取られた紙の根元だけが残っている。誰が、いつ破ったのかは、分からないままだ。


「……その巡礼の、途中に?」

「『昇天』の報せが、一枚届きました。享年十九。遺体は聖別のため教会が引き取ったとのことで、家族は対面していません。墓所は、非公開。記録は、閲覧不可。……以上が、姉の決算です」


 報せの日のことは、正確に覚えている。父は文面を三度読み、母はそのまま立てなくなった。十五の私は、報せの字数を数えていた。数えていないと、何かが崩れる気がしたのだ。

 本文、五十六字。姉の十九年に対して、五十六字である。


 勘定が、合っていない。十五の子供にも分かった。人がひとり消えたのに、家の側に載ったのは、紙一枚なのである。


「私が奇跡を疑うのは、奇跡に姉を持っていかれたからです」


 言ってから、訂正した。監査官は、記載を正確にする職業である。


「——いえ。この書き方では、科目が違いますね。私は、奇跡を恨んでいるのではありません。姉を連れて行った何かが、『奇跡』の名で記帳されたことを、まだ認めていないだけです。検算が済んでいないんです。だから」

「だから?」

「だから私は、本物に会いたいのです。本物が一つでもあると立証できれば、姉の消えた勘定の、どの行からが嘘だったのか——割り出せる」


 ルカ様は、長いこと黙っていた。

 やがて浮かんだのは、いつもの完璧な微笑ではなく、もっと不器用な、出来の悪い微笑だった。


「初日に、訊きましたね。あなたは奇跡を憎んでいますか、と」

「答えは、あの日と変わりません」

「ええ。……あれは本当は、私がずっと、自分に訊いてきた質問なんです」


 聖人は、卓の上の巡礼手帳を——触れずに、ただ見た。


「奇跡に人生を持っていかれたのは。……あなたも、だったんですね」

「……ルカ様」

「私は、十歳で『発見』されました」


 聖人は、自分の掌に目を落とした。


「あの日から、私の帳簿は、ぜんぶ他人が付けています。聖名も、認定も、治す相手も、治す順番も。……あなたのお姉さんの頁も、きっと、誰かが代わりに付けたんです。本人には、書かせないままで」

「…………」

「だから、検分を続けてください。私の頁を、私の代わりに検めてくれる人は——あなたが、初めてなので」


 持っていかれた側同士。そういう勘定科目は、まだどの規程集にもない。


 扉が、開いた。

 ベネディクト局長が立っていた。本庁の会議から戻ったにしては、いつからそこにいたのか、煙管には既に火が入っている。局長は卓の上の巡礼手帳を一瞥して——驚かなかった。


「……局長。姉をご存じですね。猊下のあの日から、一度も『セラフィナとは誰だ』と訊かれていません」

「昔話をひとつ、しよう」


 局長は、軋む椅子に腰を下ろした。


「十二年前、ある少女の聖女認定の席に、口うるさい異端審問官がひとりいてな。『この娘の奇跡は検分が済んでおらん』と言って、最後まで判を押さなかった」

「……その審問官は、どうなりましたか」

「左遷されてな。いまは埃臭い部署で、局長などをしておる」

「……判を押さなかった理由を、伺っても」

「検分が済んでおらんかった。それだけだ」

「姉の奇跡は、本物だったと思われますか」

「わしは、判を押しとらん。押しておらん判の中身を語るのは、監査官のやることではないよ」


 それだけだった。今日の局長は、それ以上を語らない。私も、今日は追わない。

 ……追わないが、記録はする。八年前ではなく、十二年前から判を押していなかった人が、ここにいる。局長が祝宴の夜に私を拾ったのは、偶然ではなかった。


「嗅ぎ回るのは構わん」


 局長は、煙をひとつ吐いた。


「わしの古傷まで含めて、な。だが——急ぐな」

「急ぐな、とは」

「……この局に、近く客が来る。あまり良くない客だ」

「客。……猊下の視察のような、ですか」

「あれよりは、行儀が悪い。じきに分かる。——テッサに言っておきなさい。台帳の写しの置き場所を、もう一つ増やせ、とな」


 写しの置き場所を、増やす。つまり局長は、持ち出されるたぐいの事態を勘定に入れている。

 私は姉の手帳を懐に戻し、監査手帳の明日の欄に、一行だけ書いた。


 『来客に備える。茶器は、出さない』


監査官の私的控え——本日の収支。過去の開示、一件。検算できないもの、一冊(残高、変わらず)。

局長の言う「良くない客」。典礼課へ茶器を返すのは、延期します。


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