第10話:異端審問官、来訪
その朝の予定は、ルカ様の治癒名簿の照合だった。
施療院の記録と、教会広報の記録。数字の付け合わせを始めて十六分、卓の向かいで聖人が頬杖をついた。
「今日の私は、何点でしたか」
「採点していません。照合中です」
「では、照合の進みは」
「三百人中、五十一人まで。相違、いまのところ零です」
「……真面目だなあ、私の奇跡は」
他人事のように言う。この方の検分は、いつもこの調子で進む。
「相違が零というのは、監査では、むしろ緊張する数字です」
「おや。どうしてです」
「帳簿は人が付けるものです。人が付けて、写して、三百人分。写し間違いが一つもないのは——記録の側が、後から整えられた場合が多いので」
「……つまり、私の奇跡は綺麗すぎる、と」
「検分を続けます、という意味です」
「カサンドラ様」
窓辺で紙を綴じていたテッサが、振り返った。顔から血の気が引いていた。
「黒い人たちが来ます。……いっぱい」
旧写本館の階段は、上る者の人柄で音が変わる。フェリクス翁なら杖ごと軋み、ルカ様ならほとんど鳴らない。
いま階下から上ってくるのは、革靴の踵が拍を揃える音だった。一段ごとに、乱れがない。
私は数えた。拍と歩幅から推定、二十名超。
扉は、叩かれなかった。開かれた。
黒。廊下を埋めたのは、黒の法服の列である。飾り紐も刺繍もない。装束の経費を全部、威圧に回したような黒だった。
列が割れ、一人が進み出る。
「聖務監査局の責任者は」
「局長は登庁前です。三等監査官、カサンドラ・エルローが承ります」
年の頃は四十半ば。背が高く、痩せて、声が静かだ。怒鳴る必要のない者の声である。狂信の熱ではない。もっと硬い、確信の温度だった。
「異端審問官、ギヨーム・ファーブル」
異端審問庁。教会の刃だ。
私はその胸元に、小さな徽章を認めた。銀の、聖女を象った意匠。縁が擦れて、意匠が半ば潰れるほど古い。審問官の制式の記章ではない。……私物である。
意味は分からない。分からないものは、記録するだけだ。
……審問官が、聖女の徽章を。それも制式ではなく、私物を。
帳尻の合わない持ち物は、いつか必ず、どこかの帳簿と繋がる。
「本日は布告に参った」
審問官は羊皮紙を開いた。朗読ではなかった。暗誦だった。
「聖務監査局の職掌——すなわち奇跡を帳簿で測る行為は、御光の御業を人の物差しにかける傲慢である。よって当庁は、同局に異端の嫌疑を認める。三十日以内に自主解散せよ。さもなくば、公開審問にかける」
フェリクス翁の手からペンが落ちた。耳の遠い翁に、この宣告だけは届いたらしい。
私は手を挙げた。
「一点、確認をさせてください。嫌疑の申立人は」
「秘匿される。審問の定めだ」
「では、もう一点。当局の設置は教会法に基づいています。廃するにも、法の手続きが要るはずです」
「異端の嫌疑は、すべての手続きに優先する」
即答だった。この男の中で、それは既に検算の済んだ答えなのだ。数字ではなく、確信で。
「承知しました。文書の写しを頂けますか。受理しますので」
「……受理、と言ったか」
「はい。当局に届いた文書は、まず受理します。異議は、その後の手続きで」
審問吏の一人が、無言で写しを差し出した。私は手帳に書き留める。
受理——解散勧告、一件。宛先、当局。
「相変わらずだな、カサンドラ嬢!」
列の後ろから、聞き覚えのある声が滑り出てきた。黒の法服ではない。参事会員候補の礼服に、随員の札を勲章のように付けている。オーレル・ドゥ・モルガン様である。
「審問官どの、申し上げた通りでしょう。その女は婚約の祝別記録にも『奇跡を疑う女』と残っている。神官が作成した公式の記録です、審問の証拠にお使いください!」
……あの証文は、あなたの首も締めるのですが。
言わない。証文は、抜く日まで鞘に入れておくものだ。
「事実です。祝別記録には破棄の事由が、署名付きで残っています」
「ほ、本人が認めたぞ!」
「ええ。一言一句、正確に読み上げられる日が来るといいですね」
「……? く、来るとも!」
勘定の合っていない顔で、オーレル様は胸を張った。
ギヨーム審問官は、随員を一瞥もしなかった。
「随員。私語を慎め」
「は、はい」
小物の扱いに慣れた声である。この男はオーレル様の売り込みを情報として受け取り、人物としては計上していない。敵ながら、正確な仕訳だった。
「朝から賑やかだね」
杖の音がした。ベネディクト局長が、黒衣の列を割って登庁してきた。誰も止めなかった。止め方を知らないように見えた。
「ギヨーム・ファーブル。名前は聞いている。いまの審問庁の、一番よく切れる刃だと」
「背教者の耳に届いていたとは、光栄の極み」
「審問庁を辞めたら背教なら、うちの局は毎朝が背教だよ」
二人の間に、面識の匂いがした。検分は後回しにする。
審問官は羊皮紙を巻き、最後に局内を見渡した。台帳の棚を。フェリクス翁を。テッサを。
それから、ルカ様の上で、目が一拍だけ止まった。
「白のルカ。……聖人が、なぜ帳簿方の巣にいる」
「監査を受けているんです。私の奇跡が本物かどうか、数えてもらっています」
「奇跡を数えさせる聖人か。——嘆かわしい時代だ」
「ええ。やっと数えてくれる人が現れた。良い時代です」
同じ言葉で、逆の帳尻だった。審問官はそれ以上、聖人を見なかった。最後に、私を見た。
「猶予は三十日。……帳簿で神を測る者に、火刑台の用意を」
列は、来た時と同じ拍で降りていった。
足音が完全に消えてから、フェリクス翁が長い息を吐いた。テッサはまだ棚の前から動けない。ルカ様が、静かに口を開いた。
「……私の監査は、どうなりますか」
「継続します。判定は保留のままです」
「よかった」聖人は微笑んだ。「保留のまま打ち切られるのは、嫌いです」
ベネディクト局長は、自分の机に杖を立てかけた。
「カサンドラ。連中の手順を教えておこう。私は元、あちら側だ」
「伺います」
「審問は説得ではない、段取りだ。嫌疑、押収、証人、開廷。——まず台帳を押収しに来る。連中は、埃より先に台帳を押収する」
「台帳を」
「そうだ。こちらの武器と、被監査者の記録を、同時に奪える。一番安い一手だよ」
私は棚を見た。三年分の検分記録。フォンス村の裏帳簿の写し。ルカ様の治癒名簿。
この部屋の紙は全部、誰かの潔白か、誰かの罪の、証拠である。
「局長。解散のご意向は」
「訊くかね、それを」
「手続き上の確認です」
老局長は皺の中で笑った。
棚の前で、テッサが小さな声を出した。
「……解散したら、わたしたち、どうなるんですか」
行き場の勘定をする顔だった。あの子の履歴書には、まだ「元偽聖女」しか書ける行がない。
私は、自分の分の回答を置いた。
「解散はしません。疑うことをやめたら、私たちは姉を——本物を、二度と証明できない」
「結構。……では戦争だ。古巣相手の、な」
その夕刻、旧写本館の扉に、礼状が一通届いた。
台帳押収の執行、明朝。
埃より先に、である。局長の見立てに、狂いはなかった。
監査官の私的控え——本日の収支。嫌疑、一件(当局宛)。元婚約者、一名(再計上。評価額は据え置き)。
明朝、台帳がすべて運び出されます。勘定は、それからです。




