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教会監査人は聖女を信じない 〜婚約破棄された検算令嬢、奇跡の「領収書」を拝見します〜  作者: 小鳥遊ミント


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第8話:大司教猊下のご視察

 視察の朝、監査局は開局以来の大掃除をした。

 といっても、書類の山の稜線を整え、フェリクス翁の湯呑みを一つ洗っただけである。茶器は結局、大聖堂の典礼課から借りた。

 『白のルカ』案件の定例検分は、翌日に振り替えた。振替を告げに行くと、被監査人は「猊下に、よろしく」と完璧な微笑で言った。……あの微笑の科目は、まだ検分が済んでいない。


 テッサは朝から、湯沸かしの前で直立している。


「テッサさん。本日の予定を言います。猊下は刻限にお見えになり、四半刻で帰られます。あなたの仕事は、湯を沸かすこと。以上です」

「……しゃべらなくて、いいですか」

「話しかけられなければ」

「話しかけられたら、どうしましょう」

「数字のことだけ、正直に」


「よいか、お前たち。余計なことは言うな。訊かれたことにだけ答えなさい」


 ベネディクト局長は、朝から皮肉を一度も言っていない。この老人の皮肉の在庫が切れる日があるとすれば、それは在庫を出す余裕のない日である。


 刻限ちょうどに、大司教ロタール猊下はお見えになった。

 供回りは、書記官がひとりだけ。緋の縁取りの法衣に、飾りの少ない胸十字。御歳は六十を過ぎているはずだが、声も肌も、そのずっと手前で時が止まっている。


「ベネディクト師。お久しいことです」

「……猊下におかれては、ご壮健で何よりです」

「ええ、おかげさまで。物覚えも、昔のままですよ」


 挨拶のかたちをした何かが、二人の間を通った。局長の顔は、動かなかった。動かない、ということが読み取れる程度には、私もこの老人の顔を知り始めている。


「ようこそお運びくださいました、猊下。狭い局ですが」

「良い部屋です。紙とインクの匂いがする。……教会の仕事の匂いだ」


 猊下は微笑み、ゆっくりと局内を歩かれた。

 私は、その足元を見ていた。旧写本館の三階へ上がる階段は、十三段のうち四段が軋む。初めての来客は、必ずどれかを鳴らす。……猊下は、一段も鳴らさずに上がってこられた。

 初めて来る建物の、軋む段をご存じである。あるいは——初めてでは、ないのか。どちらの仮定も、いまは裏付けの取りようがない。

 供の書記官は、終始一言も発さず、何も書き留めなかった。書記官が何も書かない視察を、視察と呼んでいいのかどうか、私は知らない。


 猊下は台帳の棚の前で立ち止まり、一冊の背に目を細めた。手袋の指先が、背表紙の手前でぴたりと止まる。触れそうで、触れない。


「これが評判の検算録ですか。フォンス村の……ああ、見事な仕事だった。寄進の返還に、児童の就学。教会が忘れかけていた背骨です。監査局こそ、教会の良心と呼ぶべきでしょう」

「恐縮です」と局長。

「本庁には、当局を疎む声もあると聞きますが」

「疎まれてこその監査です、猊下」

「ふふ。頼もしい」


 猊下の視線が、湯呑みを運んできたテッサの上で、す、と止まった。


「……良い顔だ。よく働く子の顔をしている」

「っ、ひゃい」

「教会は、こういう子で保っているのですよ。上等な指輪では、なくてね」


 言葉は、どこまでも正しかった。テッサは湯呑みを置き、後じさり、書棚の陰で小さくなった。正しい言葉に撫でられたのに、撫でられた場所を確かめるような顔をしていた。


 完璧な応酬だった。まるで台本があるかのように。

 私は一歩、進み出た。台本にない行を、一行だけ足すことにする。


「猊下。フォンス村の案件に、一点だけ未検分の項目がございます」

「カサンドラ」局長の声が低くなった。

「伺いましょう」と、猊下は微笑んだまま。

「バルナバ司教の裏帳簿より、王都大司教区への献納、金貨四百枚。お受け取りになった大司教区側の記帳を、いずれ照合させていただきたく」


 局の空気が、一段冷えた。フェリクス翁の湯呑みだけが、湯気を立てている。

 猊下は——笑みを、深くされた。


「もちろん。検めてくだすって結構」

「……よろしいのですか」

「大司教区の帳簿は、いつでも開いています。教会の金に、隠すべき出所などありません。……良い目だ。監査官どのは、良い目をしておられる」


 含むところのない、澄んだ声だった。それがかえって勘定を狂わせる。人は普通、金貨四百枚の照合を求められれば、まばたきの一つも増える。……増えなかった。


 猊下が局長と型どおりの挨拶を交わす間、テッサが私の袖の陰で囁いた。


「……カサンドラ様。あの方、数字のにおいがしません」

「しない?」

「はい。帳簿をたくさん抱えている人は、指の先とか、目の動きとかに、においが残るんです。あの方は、まっさらです。……自分では一度も帳簿を書いたことのない人です」


 書かせる側、ということだ。私はテッサの観察を、頭の中の手帳に転記した。


 ご視察たなおろしは、四半刻で終わった。

 去り際、猊下は扉のところで、ふと振り返られた。


「そういえば、監査官どの。お名前を伺っていなかった」

「カサンドラ・エルローと申します」

「エルロー……ああ、思い出しました。セラフィナ。惜しい聖女でした。あれは実に、採算の合う奇跡だった」


 ——姉の記録は、閲覧不可のはずだ。

 私は、懐の手帳の角に、指先で一度だけ触れた。それだけにした。声は、正確に出す。


「……姉を、ご存じでしたか」

「認定の場に、居合わせましてね。もう十二年になりますか。妹御が教会にお勤めとは、御光のお導きだ」


 猊下は柔らかく一礼し、軋まない階段を降りていかれた。

 残された局内で、しばらく、誰も口をきかなかった。


 最初に口を開いたのは、局長だった。


「……お前さんという奴は。猊下の御前で、四百枚ときたか」

「未検分項目の報告は、規程です」

「規程でわしの寿命が縮む」


 言いながら、局長は皮肉の在庫を取り戻していた。……取り戻さねばならない何かが、あった、ということでもある。


 採算の合う奇跡。

 私はその七文字を手帳に書き取り、書き取ってから、検分した。

 「惜しい」は、死を悼む言葉だ。「採算」は、帳簿の言葉だ。人は聖女を悼むのに、帳簿の言葉を使わない。——使うのは、その聖女が帳簿に載っていた場合だけである。


 そして、もう一つ。

 姉の記録は閲覧不可。ルカ様の名簿の追跡記録に貼られていた封印紙の許可権者は、本庁認定課。認定課を束ねるのは——王都大司教区。


「局長。ひとつ、伺います」

「……今日は答えん」


 ベネディクト局長は、窓の外の尖塔を見たまま言った。


「今日はまだ、答えんよ。……茶を淹れなさい。借り物の茶器が、まだ温かいうちにな」


 その夜、局に残って、私は昼の記録を清書した。

 賛辞の言葉は、一言残らず書き起こせた。声の温度も、足音の静かさも、覚えている。……ただ、どの行にも、勘定の取っ掛かりがない。テッサの言う通りだ。あの方からは、数字のにおいがしない。においのしないものを検める手法を、私はまだ持っていない。


 なぜ猊下が、閲覧不可のはずの姉を、名前で「思い出せる」のか。

 私は手帳の疑問の欄に、受理番号のない一行を書き足した。

 書き足してから、その下に、もう一行。


 『閲覧不可の記録にも、閲覧できる者は、いる』


監査官の私的控え——本日の収支。賛辞、多数(時価不明)。姉の名、一回。

本日、当局は何も検分しておりません。検分されたのは、どうやらこちらです。


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