第6話:聖人ルカの監査、開始
受理番号・本年度第二号。案件、『白のルカ』の真贋。
監査局の朝の打ち合わせ——といっても局員は四名だが——で、私は検分計画を読み上げた。
「奇跡の検分は、三つの帳尻で成り立ちます。一、仕入れ。奇跡の材料をどこかで買っていないか。二、装置。水門や遅燃蝋燭のような仕掛けがないか。三、動線。事前の仕込みや、雇われた『治る係』がいないか」
「つまり、いつもの手順ですね」
テッサが帳面を構える。
「いつもの手順です。相手が聖人でも、手順は変えません」
「はい。楽しみです」
と、当の被監査人が答えた。ルカ様は来客用の椅子——当局では被監査人席と呼ぶ——で、嬉しそうに背筋を伸ばしている。監査されるのが嬉しそうな被監査人を、私は初めて見た。
「ひとつ言っておくがな」と、ベネディクト局長が受理文書に判を押しながら言った。「教会史上、聖人が自分の監査を願い出た前例はない。つまり、前例のない案件だ。手順で押し切れるところまで、押し切りなさい」
「承知しました」
「あの……ルカ様。聖人様も、緊張とか、するんですか」
テッサの問いに、聖人は真顔で頷いた。
「します。ゆうべは早めに休みました」
「検分は明朝からです。ルカ様、本日はお引き取りを」
「はい。……楽しみで眠れなかったら、どうしましょう」
「知りません」
検分の場は、王都の施療院とした。ルカ様が七日ごとに治癒を行う場所である。
まず、仕入れ。施療院の仕入簿を三年分検めた。薬種、包帯、香油。治癒の日に合わせて増える品目は、ない。むしろ薬種の払い出しは、治癒の日の後には決まって減る。在庫から割れる奇跡なら、必ずここに影が出る。……影は、なかった。
次に、装置。
「ルカ様。恐れ入りますが、両袖を」
「はい、どうぞ」
袖口、掌、指の間、聖職衣の縫い目、履物の底。針一本、薬包ひとつ、出てこない。
「……あの、監査官どの。くすぐったいのですが」
「動かないでください。縫い目が検分できません」
「私はいま、王都で一番厳しく検分されている男ですね」
「記録上、そうなります」
施療院の廊下では、行き交う修道女たちが皆、ルカ様に深く頭を下げていった。頭を下げられるたび、聖人の微笑は寸分も揺れない。……揺れない、ということを、私は手帳に書かなかった。どの科目に載せればいいのか、分からなかったからである。
顔を上げると、思ったより近くに聖人の微笑があった。私は半歩下がり、距離を検分の適正値に戻した。テッサには寝台の裏と床板を検めさせる。何もない。
最後に、動線。
「本日の被治療者は、私が選びます」
施療院の名簿から、無作為に一名。三日前に足場から落ちた石工の男。右脛の骨折は、施療院の医師二名の触診記録がある。仕込みの余地は、ない。
ルカ様は男の枕元に膝をつき、副木の上から、ただ手を置いた。
光はない。祈りの文句もない。強いて言えば、ルカ様の呼吸がひとつ、深くなっただけ。
「——痛くねえ」
三十を数える前に、男が身を起こした。医師が副木を外し、触診し、首を振り、もう一度触診した。男は自分の足で立ち、歩き、しまいには跳ねた。折れていた骨が、である。
「医師どの。ご所見を」
「……『見立て違い』と書ければ、どれほど楽か。三日前に副木を当てたのは、この私です。骨は確かに折れておりました。いまは——折れた痕すら、ない」
念のため、過去の被治療者にも聞き取りをした。三年前に腕を治された織物職人。去年の冬に熱病から起き上がった姉妹。証言は一致している。触れられた。治った。金銭は、求められなかった。
雇われた『治る係』なら、証言に台本の匂いが出るものだ。日付が揃いすぎる。言い回しが似通う。……なかった。皆、自分の言葉と、自分の日付で話した。
私は手帳を開いた。
仕入れ、なし。装置、なし。動線の細工、なし。被治療者は当方が無作為に選定。治癒、確認。
……そして、判定欄の前で、ペンが止まった。
偽と書く根拠が、ない。真と書く根拠も、ない。正確に言えば、真と立証する手法を、私は持っていない。原価から迫る検分は、原価の見えない奇跡には、そもそも届かないのだ。
私は生まれて初めて、判定欄にこの二文字を書いた。
——保留。
書いた自分の字を見て、意外なほど苛立った。監査官の判定欄に、判定の不在を置いたのは初めてである。
「監査官どの」
気づけば、ルカ様が手帳を覗き込んでいた。距離が、近い。被監査人は普通、監査官の手元を覗かないものだ。
「今日の私は、何点でしたか」
「点は付けません。判定は——保留です」
「保留」
聖人はその二文字を、舌の上で転がすように繰り返した。
「保留は、いい言葉ですね。……まだ、嘘だと決まっていない」
声の底が、一瞬だけ抜けた。完璧な微笑はそのままなのに、目の奥だけが、誰もいない夜の礼拝堂のようだった。
瞬きひとつで、聖人は元に戻る。
「引き続き、よろしくお願いします。何度でも、検分してください」
局に戻って報告すると、ベネディクト局長は「保留、と書いたか」と、皮肉屋の顔のまま少しだけ真面目な声を出した。
「不服そうだな」
「不服です。保留は判定ではありません。判定の欠損です。原価の見えない奇跡を検める手法が、当局の規程にありません」
「規程にはな。——だが、前例ならある」
局長は煙管の先を、窓の外——大聖堂の尖塔へ向けた。
「奇跡を検めた者なら、開祖アルノーがいる」
「開祖……『疑いて後、信ぜよ』の」
「そうだ。あの御仁は、奇跡を検めた最初の人だ。その検分の記録を『開祖の検算録』という。大聖堂の書庫に封印されたきり、誰も読んでおらん」
「読めば、手法が分かりますか」
「さあな。読めればな」
局長は、そこで煙をひとつ吐いた。
「もうひとつ訊いておこう。保留のまま終わる監査は、あると思うかね」
「……あるのですか」
「あるとも。ただし、保留のまま終わった案件の監査官は、だいたい、ろくな終わり方をしとらん。——早めに、どちらかの根拠を掘り当てなさい」
封印された前例。私は手帳の隅に書き留めた。期日は未定。ただし、忘れない場所に。
翌日、教会本庁から取り寄せた資料が届いた。『白のルカ』の治癒記録。認定から十年、三百人の名簿である。
テッサと突き合わせを始めて四半刻、テッサの手が止まった。
「カサンドラ様。これ、においが変です」
「どこですか」
「治った人の『その後』の紙が、ところどころ……ないんじゃなくて、閉じてあるんです」
名簿には、治癒後の経過を追う追跡記録が綴じられている。三百人分。そのうち十二人分だけ、綴じ紐の上から封印紙が貼られていた。
『閲覧封鎖。本庁認定課の許可なく開封を禁ず』
十二人の内訳を検めた。男女はまちまち、歳もまちまち、教区も散っている。並べても、共通項が浮かばない。
……共通項が見えない、というのは、それ自体が一つの情報である。隠した者は、見えないように選んでいる。
治癒の記録は、開いている。治った者の「その後」だけが、閉じている。
私は封印紙を数え直し——十二。手帳に一行だけ書いた。
——隠されているのは、奇跡の中身か。それとも、奇跡の後か。
監査官の私的控え——本日の収支。保留、一件(当職、初)。封印された前例、一冊。
閲覧封鎖、十二名分。……治した記録より、治った後の記録のほうが、重いようです。




