第57話:猊下の帳尻合わせ
王都に着いたのは、出立から五十三日目の夕方だった。
大聖堂の鐘が、いつもと同じ刻限に鳴っていた。旧写本館の三階へ上がる階段は、十三段のうち四段が軋む。軋み方も、変わっていなかった。
変わっていたのは、局の中である。卓の上に、書面が積んであった。いちばん上の一通に、大司教区の判が押されていた。
「読みなさい」
局長は、老眼鏡を外していた。外しているときのこの人は、たいてい機嫌が悪い。
私は封を切った。
『大司教区通達。南方巡礼路上流の療養施設について。
当区は、かねてより南方における未登記の保護施設の存在に関し疑義を有し、独自に調査を進めていた。このほど当該施設を確認し、大司教区の管理下に置いた。収容者の処遇改善に着手する。
なお、聖務監査局の巡回が同施設に到達したことについては、当区の調査に資するものとして評価する』
私は、三度読んだ。
三度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
「……先に、名乗られましたね」
「五日前だ」局長は言った。「お前さんが門柱に紙を貼った翌々日には、王都で通達が回っておった」
「早い」
「早いな。……あの方は、いつも早い」
私は書面を卓に戻した。
これで、南倉は「大司教区が見つけた施設」になった。私が門柱に貼った紙は、地図の白い区画を教える札になった。教えた相手が、先に着いた。
「テッサ」
「はい」
「八名の移送は」
「……調べてきます」
この子は、走って出て行った。
半刻で戻ってきた。
「移されてません。まだ、あそこにいます」
「確かですか」
「大司教区の庶務に、輸送の手配が出てません。……ヴァレリー様が、本庁の綴りを見てくれました」
私は、そこで初めて息を吐いた。
ヴァレリーが本庁へ提出した報告が、効いていた。八名が生きていることが、本庁の紙に載った。載ったものは、消すのに手続きが要る。手続きには、押した者の名が残る。
――知らぬままにしておくと、この八名は『所在不明』のまま、いつでも消せます。
あの人は、正しかった。
「局長」
「うむ」
「大司教区は、なぜ処遇改善を打ち出したのでしょう」
「改善すると言えば、いままでが悪かったことになるが」局長は椅子を軋ませた。「悪かったのは前任の管理と、末端の予算執行だ、という筋書きにできる。……お前さんが二十二年分の予算の紙を押収してきたのは、痛かったろうな」
「痛かったからこそ、先手を打たれました」
「そうだ。先に自分で膿を出したことにすれば、判は打たれん」
私は帳面を開いた。
この五十三日で、私は判を四つ打った。徴収官に赤。生き神の行事に赤。認定課の封鎖に赤。そして被監査人に白。
どれも、南倉には届いていない。届かないように、届く前に囲われた。
大聖堂からの召還状が届いたのは、その日の夕方だった。白のルカに対するものである。巡行の日程が組まれているので、速やかに戻れ、と。
「監査官どの」
ルカ様は、召還状を私に渡した。渡す手が、春よりも落ち着いていた。
「行かれますか」
「受理第二号の被監査人は、当局の許可なく王都を離れられません」
「巡行は、王都の外です」
「ええ。ですから、許可しません」
私は召還状の裏に、回答を書いた。
『被監査人は現在、検分の継続中である。検分事項は本年度中に二項が追加された。当局は、当分の間、被監査人の遠隔地への移動を許可しない』
「……これは、あなたが罰せられませんか」
「罰する条があるなら、罰されます。無ければ、無いままです」
私は封をした。
「ルカ様。この春、あなたは私に検めてくださいと申されました。あのとき、あなたが何を頼まれたか、私は今日まで正しく分かっておりませんでした」
「何を、でしょう」
「盾です」
私は封に判を押した。
「あなたは、自分を検めてくれる相手を探していたのではありません。自分を動かせなくする様式を、探しておられた」
聖人は、しばらく黙っていた。
「……十三のときには、言葉になりませんでした」
「いまは」
「いまも、なりません。ですが、当たっていると思います」
「監査官」
局長が、書棚のほうを見た。
「お前さんの手帳は、まだ生きとるか」
私は懐から手帳を出した。七つの符牒。商会の判定のときから、寝かせてある刀である。大司教区受納簿の、欠番・差し替え七箇所。
「生きております」
「錆びとらんか」
「研ぎました。……南倉の予算が、二十二年で金貨五千八百枚あまり。欠番の七箇所は、合わせて千四百枚あまり」
「桁が近いな」
「近いですが、合いません」
「合わんものは、どうする」
私は手帳を閉じた。
「合わないので、間に一枚あるはずです。予算を出した綴りと、受納簿の間に」
ジョゼットは、局の三階に上がるとき、階段を一段ずつ数えていた。
「十三です」
「ええ。うち四段が軋みます」
「四段、覚えます」
「なぜですか」
「……夜に、誰か来たら、分かるので」
この子の身につけた作法は、そういうものばかりである。三年で身につけたものは、三年では抜けない。
フェリクス翁が、机を一つ空けた。テッサの隣である。翁は、ジョゼットに白紙を三枚と、炭筆を一本渡した。
「ほっほ。書く物が無いと、字は錆びますでな」
「……いいんですか」
「局の備品でございます。使うのが、備品の役目ですわい」
ジョゼットは、しばらく紙を見ていた。それから、いちばん上に、自分の名前を書いた。
滲まなかった。
テッサが、それを見て、少し悔しそうな顔をした。
その夜、私は五十三日分の記録を整理した。押収した帳面、二十七冊。予算の通知、二十二年分。治癒名簿の封鎖十二枚。候補者名簿の写し。姉の手記、四枚。壁の傷の写し。破られた頁。
そして、六十三枚の紙。
卓に載りきらないので、床にも並べた。
フェリクス翁が、灯りを足しに来た。
「ほっほ。……ずいぶん、お持ち帰りになりましたな」
「翁。日付の便り、届いておりましたか」
「三通、届きました。四通目から止まりましてな」
「四通目は出しました」
「では、止めた者がおるということですのう」
老書記は、床に並んだ紙を一枚ずつ見て回った。姉の手記の前で、足を止めた。
「……この字は」
「セラフィナです」
「そうでございましたか」
翁は、腰を落として、しばらくその紙を見ていた。
「十二年前、この字を、わしは一度だけ見ております」
「どこで」
「認定の申請書でございます。写しを取れと言われて、取りました。……そのあと、局長が判を押されんかったので、写しは残っておりません」
私は局長を見た。
老人は、天井を見ていた。
「押さんかった」
「はい」
「押さんかっただけだ。止めはせなんだ。……止めるには、あのとき、わしの判では足りなんだ」
その一行は、書かなかった。書く代わりに、私は翌朝の請求書を用意した。大司教区会計、決裁綴りの閲覧請求。受納簿と同一の書庫に置かれるものである。規程で、そう定まっている。
監査官の私的控え——本日の決算。帰着。通達、一通(当方より五日早い)。移送、未着手。押収品、床に並べて三畳分。
猊下は、こちらが貼った紙を読んで、二日で名乗りを上げられました。……次話、間に挟まっている一枚を探します。




