第55話:破られた頁
名前の無い八枚目のことは、翌朝に回した。
夜半に人を起こして名を訊くのは、検分ではない。それは、こちらの都合である。ギヨームも、そう言った。言うのに、ずいぶん時間がかかっていた。
私は残りの夜を、四十一枚のほうに使った。物故の四十一名。うち二十二名は、バルタザールの代である。日付があり、埋葬の位置がある。その中に、姉の名があった。
セラフィナ・エルロー。
入所——八年前の秋。物故——五年前の冬。
私は、その二行を三度読んだ。殉教者台帳の姉の頁は、八年前に朱の判で閉じられている。『回収済』。
私は八年前を、姉が死んだ年だと思って生きてきた。十五で報せを受け、二十三の今日まで、そう思っていた。
違った。
八年前は、運ばれた年である。姉は、そのあと三年、ここで生きていた。筆が、止まっていた。
止まったことに気づいて、私は自分の手を見た。聖遺物庫の石室で、同じことがあった。あのときは、それが初めてだった。今日は二度目である。
「バルタザールどの」
声は、思ったより普通に出た。
「はい」
「この方を、覚えておられますか」
「……覚えております」
男は、椅子から立った。立って、棚の下から、小さな木箱を出した。
「お預かりしていた品を、こちらに。……お亡くなりになった方の分は、まとめてございます」
箱の中は、雑多だった。櫛。ボタン。指ぬき。刺繍の切れ端。名前を刻んだ木片。その中に、紙が一枚あった。
折り畳まれ、四つ折りにされ、角が擦れている。
私は開いた。
姉の字だった。
巡礼手帳の紙である。上の縁が、ぎざぎざに破れている。私が八年、懐に入れて持ち歩いてきた手帳の、最後の頁の、破られた側だった。
合わせるまでもなかった。合わせた。合った。
文面は、短かった。
『カサンドラへ。
この頁を破ったのは、私です。手帳ごと持っていかれると思ったので、破って隠しました。
私は、たぶん、もう帰りません。悪いことをしたのではありません。よく効きすぎたのだそうです。
あなたに、一つだけ。私を殺すのは、教義ではありません。採算です。
だから、数えて。』
最後の三文字だけ、字が大きかった。書いた紙が薄いので、力を入れると破れる。破れないぎりぎりの太さで、書いてあった。
私は、その紙を卓に置いた。
置いてから、しばらく、何もしなかった。
卓の向こうにルカ様、隣にテッサ、少し離れてヴァレリー。写しの筆が止まったままだった。誰も、何も言わなかった。
私が最初に思ったのは、姉の顔ではなかった。最初に思ったのは、あの祝宴の夜のことである。
婚約の披露の祝宴で、私は一人で寄進の勘定をしていた。奇跡に沸く会場の隅で、金額の桁を合わせていた。あれは、私の性分だと思っていた。父の家系の癖だと思っていた。
違った。
私は、姉に言われたとおりのことを、八年、していただけだった。言われたことに、今夜まで気づかずに。
「――バルタザールどの」
私は顔を上げた。
「この品は、預かり品ですね」
「はい」
「では、当局が押収します。受理第五号の物証として」
「……お持ちください。ご遺族に」
「遺族としては受け取りません」
私は木箱を引き寄せた。
「遺族が受け取れば、私物になります。私物は、判定に載りません。物証として押収すれば、判定書に載ります。載れば、猊下の前で読み上げられます」
男は、うなずいた。
「監査官どの。一つ、申し上げてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「あの方は、ここで、字を教えておられました」
私は顔を上げた。
「字を」
「はい。……お預かりしている方の中に、字の読めぬ者が多うございましたので。冬の間、火のある部屋に集まって、教えておられました」
「教材は」
「ございません。灰に、指で書いておられました」
「紙は」
「ここは、紙を漉く場所でございます。ですが、漉いた紙は、外へ出す分でございますので」
私は、その一行を書いた。紙を作る場所で、紙を使わずに字を教えていた人がいる。
「習った方は、いまも」
「二人、おられます。……在の八名のうちの、二人でございます」
「その方々は、字が書けますか」
「書けます。お名前と、日付くらいは」
私は筆を止めた。
字が書ける者が、この囲いの中に二人いる。書ける者がいるということは、書かれたものが、どこかにあるかもしれないということである。
「バルタザールどの。この八年、ここから外へ出た紙は、漉いた紙だけですか」
「……」
「月に一度の報せは、あなたがお書きになる。他に、外へ出る紙は」
「ございません。……ただ」
男は、そこで言い淀んだ。
「三年前に、一度。荷に紛れて、束が一つ、出たことがございます」
「中身は」
「存じません。気づいたのは、出たあとでしたので」
「気づいて、どうなさいましたか」
「……報せませんでした」
私は、その一行を書いた。この人は、二十二年で一度だけ、報せなかったことがある。
「監査官どの。……お姉様は、最後まで、静かな方でした」
「伺います」
「よく、外を見ておられました。西の棟の、いちばん端の部屋で。窓が高いので、椅子を寄せて」
「何をご覧に」
「山でございます。ここからは、山しか見えません」
私は書いた。
「それから、数えておられました」
「数える」
「はい。窓から、荷車の音を数えて。……月に何度、荷が来たかを、壁に爪で」
私は、その部屋へ行った。
西の棟の、いちばん端。いまは空いている。窓の下の壁に、細い傷が並んでいた。五本ずつ、束ねてある。
私は数えた。
三十七。
三年で、三十七回。荷車が来た回数である。姉は、来た回数を数えていた。数えて、それを誰かが読むと思っていたわけではないだろう。それでも、数えていた。
私は、その壁の傷を写した。写すのに、四半刻かかった。写し終えたとき、後ろでテッサが泣いていた。声を殺していたが、下手だった。
「泣かないでください」
私は言った。
「……写しが、滲みます」
「はい」
「……」
言葉が、続かなかった。
続かなかったので、私は懐から手帳を出した。出して、破られた頁を、元の位置に当てた。当てただけである。綴じはしなかった。綴じると、物証と私物が一つになってしまう。
当てて、離した。
――姉さん。
三十七の傷を、私は自分の帳面に書き写した。これで、この壁は記録になった。
監査官の私的控え——本日の決算。物故四十一名のうち、一名の記録を検分。入所、八年前の秋。物故、五年前の冬。
「昇天」の日付は、運ばれた日でした。三年、ずれております。……次話、名前の無い八枚目に会いに参ります。




