第53話:隔離
番小屋の中に、帳面があった。二十七冊。棚に、年ごとに並んでいる。埃はない。毎日誰かが触っている棚である。私は一冊を開いた。
日付。氏名。入所。退所。退所の欄は、ほとんどが空白だった。空白でない行には、二文字が書いてある。
――『物故』。
私は氏名の列を追った。追いながら、一つ確かめておくことがあった。
「バルタザールどの。この帳面には、殉教者台帳に載っていない方も書かれておりますか」
「おります。……聖女様でない方も、時折」
「去年の秋に、王都近郊から織工が一人。モーリスという名です」
男は、去年の綴りを繰った。繰る手が、途中で止まった。
「……おられます」
「退所の欄は」
「空でございます」
「では、いま」
「中の棟に。三月ほど前から、起きて歩いておられます。……薪を割るのが、いちばん上手い方です」
私は、その一行を書いた。書いてから、書いた指をしばらく紙の上に置いていた。
治った男が、寝台ごと運ばれて、ここで薪を割っている。工房の親方は、まだ待っている。
「バルタザールどの。この方は、台帳の六十三名には入りませんね」
「入りません。あの帳面は、聖女様のものでございますので」
「では、別に数えます」
「バルタザールどの。この帳面は、あなたが」
「わしが書いております。二十二年、書いております」
「二十二年」
「はい」
男は、番小屋の椅子に座った。座ってよいか、と一度こちらを見た。私はうなずいた。
「この施設は、いつからありますか」
「わしが来たときには、ございました。前の管理人が、六十を過ぎておりまして」
「その方は」
「亡くなりました。……この中で」
私は書いた。
「では、伺います。ここは、何をする場所ですか」
「隔離でございます」
この人は、ためらわずにそう言った。私は、その語を書いた。書いてから、読み方を訊いた。
「ほかん、と読まれますか」
「はい。……前の管理人が、そう読んでおりました。書くときは、隔離と書けと」
書く字と読む音が違う。殉教者台帳と、同じ作りである。あの帳簿の中では、昇天と書いて、しょぶん、と読んだ。
「隔離の目的は」
「お預かりした方が、外に出ないようにすることでございます」
「なぜ、出してはいけないのですか」
「……その理由は、聞いておりません」
男は、膝の上で手を組んだ。
「わしは、預かれと言われて、預かりました。運ばれてきた方を、部屋に入れ、飯を出し、病めば寝かせ、亡くなれば埋めました。帳面に書いて、月に一度、報せを出しました」
「報せの宛先は」
「大司教区の、庶務でございます」
「返事は」
「ございません。……予算だけは、参ります」
私は筆を止めた。
「予算」
「はい。半年ごとに。金額の書いた紙が一枚と、金子が」
「その紙は」
「取ってございます。二十二年分」
男は棚の下から、束を出した。紙は薄く、様式は簡素で、判が一つだけ押してある。大司教区の庶務印である。
金額を読んだ。
二十二年前——金貨四百二十枚。十五年前——金貨三百八十枚。十年前——金貨二百六十枚。六年前——金貨百七十枚。昨年——金貨百十枚。
私は、それを日付順に並べ直した。並べ直す必要はなかった。すでに順に並んでいたからである。私は、確かめずにいられなかっただけだ。
「バルタザールどの。この間、収容の人数は」
「増えたり、減ったり。……十年前が、いちばん多うございました。二十四名」
「昨年は」
「十名でございます」
「人数は半分以下、予算は四分の一」
男は、うなずいた。
「冬に、薪が足りませんでした」
番小屋の中が、静かになった。
「六年前と、四年前と、一昨年の冬でございます。三度、足りませんでした。……足りぬと、人が減ります。年寄りから、減ります」
私は書いた。書いた手が、少し遅かった。
「報せは、出されましたか」
「出しました。薪が足りぬ、と。三度とも」
「返事は」
「ございません」
「予算は」
「据え置きでございました」
男は、そこで初めて、私の顔を見た。
「監査官どの。わしは、殺しておりません」
その言い方には、開き直りがなかった。開き直りがないぶん、聞くのが辛かった。
「死んだのは、こちらの手落ちではありません。予算の話です。冬に薪が足りなければ、人は減ります。……帳面に書いたとおりだ」
私は、その一言を、そのまま書き取った。
「バルタザールどの。あなたは、その帳面を二十二年、正しく書いてこられた」
「はい」
「正しく書かれたものを、誰かが読みましたか」
「……分かりません」
「返事が一度も無いのは、読まれていないからではありません」
私は帳面を閉じた。
「読んだうえで、返事の必要が無いと判断されたからです。予算の額が、そのつど下がっております。下げるには、読まねばなりません」
男は、動かなかった。
しばらくして、両手で顔を覆った。声は出さなかった。二十二年、この人は自分が管理していると思っていた。管理されていたのは、この人のほうである。
その日の午後、私は三棟を検分した。
東の棟、六室。中の棟、八室。西の棟、四室。東と中は、寝床と、卓と、窓。掃除は行き届いている。粗末だが、荒れてはいない。西の棟だけ、様子が違った。
病間である。四室のうち、三室は空いていた。残る一室に、人がいた。寝台に、女が一人。四十くらいに見える。眠っていた。枕元に、木の椀と、匙。匙は使われた跡がある。誰かが介助している。
「この方は」
「三年前から、こちらに」
「お名前は」
「……マルグリット、と」
私は帳面を開いた。
殉教者台帳、二番目の頁。マルグリット。回収済、十七年前。十七年前に「回収済」と判を押された人が、三年前まで歩いていて、いま、そこで眠っている。
私は、しばらく何も書けなかった。
ルカ様が、戸口に立っていた。私が振り返ると、聖人は首を振った。
「……治せません」
「診なくても、ですか」
「診ます。診ますが、たぶん治せません。この方は、病んでおられるのではありません」
彼は寝台の脇に膝をついた。
「衰えておられます。……衰えは、治癒の対象になりません」
私は書いた。書いた行の下に、線を引いた。
中庭に戻ると、テッサとジョゼットが、洗濯物を干している女たちを手伝っていた。手伝えと言った覚えはない。私が番小屋にいる間に、自分たちで始めたらしい。
女の一人が、テッサに何か訊いていた。テッサが答えると、女は驚いた顔をして、それから笑った。笑うと、歯が二本しかなかった。
「カサンドラ様」
テッサが、こちらに来た。
「あの人、ここ何年か、外の話を聞いてないそうです」
「何年ですか」
「分からないって言ってました。……冬を数えるのをやめたので、って」
私は書いた。
「もう一つ、いいですか」
「どうぞ」
「あの人たち、わたしのこと、村の子だと思ってます。ジョゼットのことも」
「訂正しましたか」
「してません。……したほうがよかったですか」
「いいえ」
私は帳面を閉じた。
「訂正は、こちらの都合です。あの方々は、久しぶりに村の子を見たのだと思います。それは、私が消していい記録ではありません」
その晩、番小屋の卓で、私は二十七冊を数えはじめた。
テッサが年ごとに束ね、私が名を拾い、ルカ様が読み上げる。
ヴァレリーが、写しを取った。規程では、記録係は当局の検分の写しを取ってはならない。取ってはならないとも、書かれていないのだと彼女は言った。
夜半、ギヨームが番小屋の外に立っていた。入ってこなかった。
「監査官」
「はい」
「まだか」
「まだです」
「……そうか」
男は、そのまま門の方へ歩いていった。私は、その足音が止まるまで、筆を止めなかった。
監査官の私的控え——本日の決算。帳面、二十七冊(押収)。予算の通知、二十二年分(保存)。棟、三。室、十八。
薪が足りぬという報せが、三度出ておりました。返事は、三度ともございません。予算は、そのつど下がっております。……次話、名を数え終えます。




