第52話:登記のない倉
川を三つ渡って、二日目の午後に、囲いが見えた。石積みの塀である。高さは人の背の一倍半。長さは、端から端まで歩けば四半刻はかかりそうだった。塀の内側に、屋根が三つ。
二重の輪。輪の中に、線が三本。
「……三棟です」
テッサが、そう言った。
門は、閉まっていた。門柱に、板が打ってある。板には何も書かれていない。彫った跡があり、埋めてある。
私は板の前に立ち、彫り跡を指でなぞった。埋めた漆喰は、新しくない。少なくとも十年は経っている。
「ギヨームどの。ここは、何という場所ですか」
「地名は無い。近隣の村では『倉』と呼ぶ」
「村人は、中を」
「知らん。荷が入るのは夜だ。出るのは、めったに無い」
私は帳面を開いた。
門の脇に、小屋があった。番小屋である。中から人が出てきた。六十を過ぎた男だった。痩せて、背が高い。灰色の外套を着ている。歩き方が、ひどく疲れて見えた。
「……当局のお方で」
男は、私の記章を見て、そう言った。驚かなかった。三年前から待っていたような顔だった。
「聖務監査局、三等監査官カサンドラ・エルローと申します。受理番号第五号の検分に参りました」
「バルタザールと申します。ここの、管理人でございます」
「開けていただけますか」
「開けます」
あっさりしていた。私は、一度筆を止めた。
「拒まれると思っておりました」
「拒む根拠が、ございませんので」
男は、鍵束を出した。
「ここは、登記がございません。登記がないということは、教会の財産でも、教区の施設でもない。……立入を拒む権利のある者が、おらんのです」
門が開いた。
中は、思ったより広かった。石畳の中庭。井戸が一つ。三つの棟は、いずれも平屋の長屋である。窓は高い位置に小さく、鉄の格子が入っていた。
東の棟の脇に、水車小屋。その隣に、漉き場があった。簀と、槽と、乾かすための板。
紙の工房である。
「テッサ」
「はい。……ここです。この漉き場の紙です」
私は書いた。工房、確認。
中庭には、人がいた。
五、六人。掃除をしている者と、洗濯物を干している者。老人が多い。
いずれも麻の粗い服で、痩せている。私たちを見ても、逃げなかった。逃げようという動作そのものが、身についていない人たちだった。
その中に、若い女が一人いた。白い衣ではない。だが、髪の切り方が、ジョゼットと同じだった。
ジョゼットが、馬車の窓から身を乗り出しかけた。私は手で止めた。
「バルタザールどの。この方々は」
「お預かりしている方々です」
「どなたから」
「大司教区から、と聞いております」
「書面は」
「ございません」
私は書いた。この旅で、六度目である。
「では、伺います。この施設は何をする場所ですか」
「保管でございます」
「何を」
「……お預かりした方々を」
男は、そう言った。ためらいがなかった。ためらう理由を、この人はもう持っていない。
ギヨームは、門の内側に立ったまま、動かなかった。
中庭の人たちを、一人ずつ見ている。見て、次へ移る。目の動きが、機械のように規則正しかった。それが、この人が自分に課している数え方なのだと分かった。探さないために、順に見る。
「ギヨームどの」
「……数えている」
「はい」
「六人だ。中庭に、六人。……六十三ではない」
男は、そこで初めて息を吐いた。
「まだ六人だ」
私は中庭の中央に立ち、三つの棟を数えた。東の棟。中の棟。西の棟。
西の棟だけ、扉に錠が下りていた。
「あちらは」
「病間でございます」
「錠は」
「……夜だけ、と決めております。昼は、開けております」
「いま、下りております」
「はい」
私は、その一行を書いた。
封蝋刀を取った。
取って、止まった。
当局の封緘は、対象の所有者に対して打つ。扉に打つのは、扉の主に「開けるな」と命じるためである。この場所には、主がいない。登記がないからである。
打っても、誰も拘束されない。
「監査官どの」
ヴァレリーが、隣に来ていた。
「規程では、封緘は登記された財産に対して行います」
「ええ」
「……この施設は、登記がございません」
「では、打てませんね」
「打てません」
私は封蝋刀を手の中で回した。二十日ぶりに、様式が私を止めていた。
テッサが、こちらを見ていた。ルカ様も、ギヨームも、番小屋の男も、みな待っていた。
私は、しばらく中庭の石畳を見ていた。それから、封蝋刀を仕舞った。
「テッサ。白紙を」
「はい」
「大判で。判定書の様式で書きます」
私は井戸の縁に紙を置き、書いた。
「――受理番号、本年度第五号。検分事項、消えた聖女六十三名の行方」
バルタザールが、顔を上げた。
「検分の第一次所見。当該施設は、いかなる登記にも存在しない。教会財産目録、教区施設台帳、本庁の施設綴りのいずれにも記載が無い」
私は書きながら、読み上げた。
「よって当局は、次のとおり認定する。
――本施設は、存在しない。
存在しない施設に、人が居住している。存在しない施設には管理者がなく、責任者がなく、予算の根拠がなく、監査の対象がない。
したがって本施設に置かれた者は、いかなる制度の保護も受けていない。教会の保護も、教区の保護も、本庁の保護もない。当局は、この状態そのものを不実と認める」
私は筆を止め、バルタザールを見た。
「バルタザールどの。あなたは、いま、何の権限で管理人をなさっていますか」
「……」
「答えられませんね。存在しない施設に、管理人はおりません」
「……はい」
「では、あなたは今日から、当局の検分に協力する一個人です。管理人ではありません」
男の肩が、少し下がった。下がった動きが、ほっとしたのか、崩れたのか、私には判別が付かなかった。
「監査官どの」
ルカ様が、静かに言った。
「封は、打たれないのですか」
「打ちません」
私は書き上げた紙を持ち上げた。
「封は、隠されたものを開けさせるための道具です。ここには、隠すための扉がありません。……ですから、こちらを貼ります」
私は、その一枚を門柱の板に貼った。彫り跡を埋めた、名の無い板の上に。紙には、こう書いてある。
『本施設は、いかなる登記にも存在しない。ここに人が居る。聖務監査局は、これを検分中である』
バルタザールは、その紙を長いこと読んでいた。
「……監査官どの。これは、判でございますか」
「判ではありません。ただの紙です」
「では、破れば済みますな」
「済みます」
私は、貼った紙の端を押さえた。
「ですが、破れば、破った者が出ます。破った者は、存在しない施設の紙を破ったことになる。……存在しないものを守ろうとした人間が、そこで一人、記録に載ります」
男は、板を見ていた。
「よくできておりますな」
「よくはありません。封が打てないので、こうするしかなかっただけです」
監査官の私的控え——本日の決算。到達、一件。棟、三。工房、一(紙の透かし一致)。居住者、確認中。錠、一(昼間に下りていた)。
封は打てませんでした。打つ相手がおりませんので、代わりに、無いということを書いて貼りました。……次話、中に入ります。




