第51話:南へ
紙は、遠くまで運ばない。重いからである。紙を漉く工房は、水と、原料と、運び出す道の三つが揃う場所にしか建たない。私は南街道の地図を広げ、川筋を三本、指でなぞった。
二重の輪。輪の中に、線が三本。
「テッサ。この透かしの図は、何に見えますか」
「……井戸の口です。上から見た」
「線は」
「桶の縄だと思ってました。でも三本は多いです」
ジョゼットが、横から覗いた。
「棟です」
「棟」
「うちの村の水車小屋も、こういう印でした。囲いの中に、建ってる数だけ線を引きます。年貢の帳面に、そう描いてありました」
私は筆を止めた。
「囲いの中に、三棟」
「はい。……囲いがあるところは、たいてい、勝手に入っちゃいけないところです」
私は地図に印を付けた。川が三本のうち、南街道から荷車で半日以内に出られるのは、一本だけである。その川の上流に、地図が白いままの区画があった。
ギヨームが宿に着いたのは、その夜だった。馬を替えながら三日走ってきたという。外套に、埃と、焦げた匂いが染みついていた。
「五件目が焼けた」
「どこです」
「サン=クレール。二日前だ。……間に合わなかった」
「人は」
「無事だ。倉番が一人、火傷をした。それだけは、間に合った」
男は、卓に地図を広げた。私の地図と、ほとんど同じ場所に印が付いていた。
「監査官。私の辿った順は、焼けた順だ。あなたの辿った順は」
「紙の順です」
「重なるか」
「重なります。……ここです」
二つの指が、同じ白い区画に置かれた。
「荷車の轍も、そこへ集まる」ギヨームは言った。「灯りを点けずに南へ抜けた車は、六年前から数えて、少なくとも十一台。宿駅の台帳の余白に、車の泊まった記録だけが残っている。荷の中身は書いていない」
「書けない荷ですね」
「書けない荷だ」
私は帳面を開いた。
「ギヨームどの。当局は、明朝発ちます。同行なさいますか」
「する」
「一つ、確認します。妹御のことは」
「訊かないと言った」
男は、外套を脱いだ。脱いだ下に、胸元の徽章は無かった。妹御の判定を出した日に返してから、この人はそれを付けていない。
「……だが、監査官。もし在るなら」
彼は、そこで言葉を止めた。止めたまま、椅子に座った。
「もし在るなら、私は先に見たくない。あなたが数えてから、順番に呼んでくれ」
「なぜです」
「私が先に見れば、私は探す。探せば、他の者の名を飛ばす。……六十三名だ。飛ばされる者が出てはいけない」
私は、その一行を書いた。この人は、かつて私に火刑台を用意しようとした人である。
出立の前に、私は残す者を決めなければならなかった。
テッサは連れて行く。数えるからである。ジョゼットは、決めかねた。
「監査官どの」
ルカ様が言った。
「あの子を置いていくと、どうなりますか」
「当局の管理下にありますが、当局が離れれば、実務としては認定課の目の中に残ります」
「では、連れて行くべきです」
「危険です」
「置いていくほうが危険です」
私は、それに反論できなかった。
ジョゼット本人にも訊いた。訊くのが作法だと、この二日で決めたからである。
「ジョゼットさん。行先は、名前のない場所です。何があるか分かりません」
「はい」
「怖ければ、残る方法も考えます」
「行きます」
「理由を伺っても」
「……わたしのいた小屋も、名前がなかったので」
この子は、そう言った。
「地図に無いところに、人がいるのは、知ってます」
出立は、翌朝だった。
荷を積み終えたとき、ヴァレリーが土間で書きものをしていた。いつもの報告である。私は通りすがりに見た。見せる規程はないが、伏せない人である。
紙は、白紙だった。
「ヴァレリーさん」
「はい」
「今日の報告は」
「書きました」
彼女は、書き終えた紙を封に入れるところだった。
「封を、しております」
「中身は白紙です」
「はい」
私は足を止めた。
「規程では、記録係は日々の報告を上げねばなりません。上げないことは、規程違反です。ですから、上げます」
「白紙で」
「白紙で」
ヴァレリーは、封に蝋を落とした。認定課の判である。
「規程では、報告の内容について定めがございません。……様式と、日付と、封は、規程どおりです」
「本庁は、どう読みますか」
「叱責されると思います。……あるいは、召還されるかもしれません」
「召還されたら」
「行きます。行って、叱責を受けます。そのうえで、白紙にした理由を口頭で申し上げます」
彼女は、封をこちらに向けた。
「監査官どの。口頭で申し上げたことは、規程の上では、存在しないことになります」
私は、その封を見ていた。
「……ですから、そのときは、あなたが書いてください」
フェリクス翁への便りも、出立の前に一枚だけ書いた。日付だけ書いて送れ、と老書記は言った。届かなくなった日が、何かがあった日である、と。私は日付を書き、その下に一行だけ足した。
『川筋、三本のうち南の一本。荷車で半日』
届かなければ、届かなかった日と、この一行だけが局に残る。残るものを先に決めておくのは、監査の作法であって、悲観ではない。
テッサが、封をしながら訊いた。
「カサンドラ様。これ、遺言みたいです」
「業務です」
「……業務でも、みたいです」
「では、業務のように書き直しましょう。『帰着は追って報告する。写本の監督、引き続き頼む』」
テッサは、その一行を足して、封をした。足した字は、また滲んでいた。滲む字を、私はもう三年見ている。
馬車は、朝のうちに宿場町を出た。
街道は、途中から川沿いの道に折れる。道は細くなり、荷車の轍だけが、しつこく残っていた。途中の村で、水を貰った。
村の女に、上流のことを訊いた。女は、川上のほうを一度見てから、答えた。
「あちらは、行かんほうが」
「なぜです」
「……教会の、療養所があると聞いとります」
「行かれたことは」
「ございません。誰も行きません。行っても、門から先は入れませんので」
「病人が運ばれてくるのですか」
「運ばれてはきます。……出ていくのは、見たことがありません」
私は書いた。
書きながら、この村の人たちが、六年も十年もそれを見てきて、誰も数えなかったことを思った。
数えないのは、悪意ではない。数える役の者が、置かれていなかっただけである。置かれていなかったのは、置かせなかった者がいるからだ。
監査官の私的控え——本日の決算。焼失、五件目(人は無事)。地図の白い区画、一つ。轍、十一台分。同行、一名増(審問官)。
記録係どのが、白紙の報告に封をなさいました。規程は、守られております。……次話、地図に無い場所に着きます。




