↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
教会監査人は聖女を信じない 〜婚約破棄された検算令嬢、奇跡の「領収書」を拝見します〜  作者: 小鳥遊ミント
第8章 白の出自編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/51

第49話:検算できないもの、二つ目

 宿場町の朝は早い。


 両替商が戸を開け、荷馬車が並び、宿の前で子供が水を汲む。その子供が、桶を落とした。落とした拍子に転んで、膝を切った。血が出た。母親が飛んできて、抱き上げた。


 ルカ様は、宿の前に立っていた。立っていて、動かなかった。


 私は隣で見ていた。この人が、こういう場面で動かないのを、私は初めて見た。母親が、こちらに気づいた。気づいて、白い外套を見て、目の色が変わった。


「聖人様——」


 言いかけた声が、途中で止まった。止めたのは、ルカ様だった。手を上げたわけではない。ただ、一歩下がったのである。


「お子さんに、伺ってもよろしいですか」


 母親は、意味が分からない顔をした。ルカ様は、膝をついた。抱かれている子供と、目の高さを合わせた。


「痛いですね」

「……いたい」

「私は、痛いのを止められます。止めると、傷はすぐ塞がります。塞がると、あとが残らないことも、残ることもあります」

「……」

「止めますか。それとも、ふつうに治しますか」


 子供は、母親を見た。母親は、答えなかった。答えられない顔をしていた。


「ふつうに、って」

「水で洗って、布を巻いて、二日ほど痛いです。三日目から痒くなります。かさぶたができて、剥がすと怒られます」


 子供が、少し笑った。


「……かさぶた、できる?」

「できます」

「じゃあ、そっちがいい」


 ルカ様は、うなずいた。それから、宿の井戸で自分の手を洗い、布を借りて、膝を洗った。巻いた。巻き方は丁寧だった。治す手ではなく、手当てをする手だった。


 母親が、何か言いたそうにしていた。言えないまま、頭を下げて、子供を連れて行った。


 私は、その一部始終を書いた。


「ルカ様」

「はい」

「なぜ、訊いたのですか」

「訊いたことが、一度も無かったからです」


 聖人は、濡れた手を布で拭いた。


「十年、私は訊かれたことしかありませんでした。治してくれ、と。……こちらから、治していいかと訊いたことが、一度もない」

「訊けば、断られることがあります」

「はい。断られました」


 彼は、少し笑った。今度は、目の底も動いていた。


「断られると、こんなに楽なのですね」


 私は帳面を開いた。開いて、新しい欄を引いた。


 ――受理第二号、検分事項の追加。被監査人が、自らの意思で力を行使しないと選択した事例。


 書きながら、私は受理からの綴りを思い返していた。この綴りには、治した記録しか無い。治さなかった記録が、一件も無い。無いのは、この人が治さなかったことが無いからである。


 治さない、を選べる者は、道具ではない。


 昼過ぎ、私は宿の部屋で判定文を起草した。


 受理第九号は、簡単だった。封鎖の適法性を検めるだけである。理由欄が無く、口頭の指示で判が押され、目的が血縁の照合であった。書くことは決まっている。


 難しいのは、受理第二号のほうだった。


 私は三度書いて、三度破った。四度目に、書けない理由が分かった。様式が「聖性の真贋」を問うている。問いが間違っている問いに、正しい答えは書けない。


 私は白紙を出し、様式のほうを書き直した。


 夕方、テッサが茶を持ってきた。


「カサンドラ様。……三回、紙を丸めてました」

「四回目です」

「四回目、まだ丸めてないです」

「ええ。丸めずに済みそうです」


 テッサは、卓の端に茶を置いた。置いてから、少し立っていた。


「あの。……ルカ様のこと、書くんですか」

「書きます」

「本当のこと、ぜんぶ」

「ぜんぶ書きます。書かないと、書かなかったところを、あとで誰かが好きに埋めます」


 この子は、うなずいた。うなずいてから、小さく言った。


「わたし、書いてもらってよかったです。三年前」

「あなたのときは、書式が足りませんでした」

「足りなくても、書いてありました。……偽聖女でした、って。あれ、あるほうがいいです」

「なぜですか」

「無いと、自分で言わなきゃいけないので」


 私は筆を止めた。


 この子は、ときどき、私の五年分の仕事の意味を、一行で言う。


 ジョゼットは、その日、宿の裏で薬草を干していた。誰に言われたわけでもない。宿の女将が湿気で駄目にしかけていた束を、勝手に広げ直していたのである。私は、それを縁側から見ていた。


「ジョゼットさん。それは、どちらで覚えましたか」

「……村です。母が」

「お母様は、薬草を」

「産婆でした。父は、猟師です」


 この子は、聞かれたことには答える。聞かれないことは言わない。喋ってはいけないと三年教えられた子は、そういう喋り方になる。


「あの」

「はい」

「わたしのやってたの、八割が仕掛けだったって、聞きました」

「ええ」

「残りの二割は、何ですか」

「分かりません」


 私は縁側を降りた。


「一件だけ、説明の付かない治癒があります。腕の上がらなかった男の方です。あの一件を、当局はまだ数え終えておりません」

「……数え終わったら、教えてくれますか」

「教えます。ただし、時間がかかります。何年かかるか、申し上げられません」

「いいです」


 ジョゼットは、薬草の束をひっくり返した。


「三年、待ってたので。待つの、得意です」


 私は、その言い方を書き取らなかった。書き取れば記録になる。だが、この子の「待つのが得意」は、記録にすると、あの三年の証拠になってしまう。


 夜、私は懐から姉の手帳を出した。いつもは、開く前に指で触れる。監査局へ来る前からの癖である。読者の誰も気づかないような、私だけの作法だった。


 今日は、触れなかった。


 触れずに、卓の上に置いた。置いて、判定文の隣に並べた。


 ――姉さん。


 私は、検算できないものを一つだけ持っている、と長いこと思っていた。今日、二つ目ができた。

 二つ目は、治さないと選んだ人の顔である。あれは、どの帳簿にも載らない。載らないので、私はそれを記録の外に置いておく。外に置いたものは、いつでも取り出せる。


 私は手帳を懐に戻し、判定文の清書に入った。


 夜半、ヴァレリーが階下から上がってきた。


「監査官どの。明朝の判定に、私も立ち会います」

「規程では」

「立ち会わなくてよいことになっております。……ですが、立ち会ってはならないとも、書かれておりません」


 私は筆を止めずに答えた。


「ヴァレリーさん。あなたは最近、規程の使い方が私に似てきました」

「……不本意でございます」

「私もです」

監査官の私的控え——本日の決算。実見、一件(被監査人が治癒を行使しない選択をした事例)。起草、四回目。破棄、三回。

検分事項を一つ追加しました。「治さないことを、自分で選べるか」。……次話、判定を読み上げます。二件です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。