第49話:検算できないもの、二つ目
宿場町の朝は早い。
両替商が戸を開け、荷馬車が並び、宿の前で子供が水を汲む。その子供が、桶を落とした。落とした拍子に転んで、膝を切った。血が出た。母親が飛んできて、抱き上げた。
ルカ様は、宿の前に立っていた。立っていて、動かなかった。
私は隣で見ていた。この人が、こういう場面で動かないのを、私は初めて見た。母親が、こちらに気づいた。気づいて、白い外套を見て、目の色が変わった。
「聖人様——」
言いかけた声が、途中で止まった。止めたのは、ルカ様だった。手を上げたわけではない。ただ、一歩下がったのである。
「お子さんに、伺ってもよろしいですか」
母親は、意味が分からない顔をした。ルカ様は、膝をついた。抱かれている子供と、目の高さを合わせた。
「痛いですね」
「……いたい」
「私は、痛いのを止められます。止めると、傷はすぐ塞がります。塞がると、あとが残らないことも、残ることもあります」
「……」
「止めますか。それとも、ふつうに治しますか」
子供は、母親を見た。母親は、答えなかった。答えられない顔をしていた。
「ふつうに、って」
「水で洗って、布を巻いて、二日ほど痛いです。三日目から痒くなります。かさぶたができて、剥がすと怒られます」
子供が、少し笑った。
「……かさぶた、できる?」
「できます」
「じゃあ、そっちがいい」
ルカ様は、うなずいた。それから、宿の井戸で自分の手を洗い、布を借りて、膝を洗った。巻いた。巻き方は丁寧だった。治す手ではなく、手当てをする手だった。
母親が、何か言いたそうにしていた。言えないまま、頭を下げて、子供を連れて行った。
私は、その一部始終を書いた。
「ルカ様」
「はい」
「なぜ、訊いたのですか」
「訊いたことが、一度も無かったからです」
聖人は、濡れた手を布で拭いた。
「十年、私は訊かれたことしかありませんでした。治してくれ、と。……こちらから、治していいかと訊いたことが、一度もない」
「訊けば、断られることがあります」
「はい。断られました」
彼は、少し笑った。今度は、目の底も動いていた。
「断られると、こんなに楽なのですね」
私は帳面を開いた。開いて、新しい欄を引いた。
――受理第二号、検分事項の追加。被監査人が、自らの意思で力を行使しないと選択した事例。
書きながら、私は受理からの綴りを思い返していた。この綴りには、治した記録しか無い。治さなかった記録が、一件も無い。無いのは、この人が治さなかったことが無いからである。
治さない、を選べる者は、道具ではない。
昼過ぎ、私は宿の部屋で判定文を起草した。
受理第九号は、簡単だった。封鎖の適法性を検めるだけである。理由欄が無く、口頭の指示で判が押され、目的が血縁の照合であった。書くことは決まっている。
難しいのは、受理第二号のほうだった。
私は三度書いて、三度破った。四度目に、書けない理由が分かった。様式が「聖性の真贋」を問うている。問いが間違っている問いに、正しい答えは書けない。
私は白紙を出し、様式のほうを書き直した。
夕方、テッサが茶を持ってきた。
「カサンドラ様。……三回、紙を丸めてました」
「四回目です」
「四回目、まだ丸めてないです」
「ええ。丸めずに済みそうです」
テッサは、卓の端に茶を置いた。置いてから、少し立っていた。
「あの。……ルカ様のこと、書くんですか」
「書きます」
「本当のこと、ぜんぶ」
「ぜんぶ書きます。書かないと、書かなかったところを、あとで誰かが好きに埋めます」
この子は、うなずいた。うなずいてから、小さく言った。
「わたし、書いてもらってよかったです。三年前」
「あなたのときは、書式が足りませんでした」
「足りなくても、書いてありました。……偽聖女でした、って。あれ、あるほうがいいです」
「なぜですか」
「無いと、自分で言わなきゃいけないので」
私は筆を止めた。
この子は、ときどき、私の五年分の仕事の意味を、一行で言う。
ジョゼットは、その日、宿の裏で薬草を干していた。誰に言われたわけでもない。宿の女将が湿気で駄目にしかけていた束を、勝手に広げ直していたのである。私は、それを縁側から見ていた。
「ジョゼットさん。それは、どちらで覚えましたか」
「……村です。母が」
「お母様は、薬草を」
「産婆でした。父は、猟師です」
この子は、聞かれたことには答える。聞かれないことは言わない。喋ってはいけないと三年教えられた子は、そういう喋り方になる。
「あの」
「はい」
「わたしのやってたの、八割が仕掛けだったって、聞きました」
「ええ」
「残りの二割は、何ですか」
「分かりません」
私は縁側を降りた。
「一件だけ、説明の付かない治癒があります。腕の上がらなかった男の方です。あの一件を、当局はまだ数え終えておりません」
「……数え終わったら、教えてくれますか」
「教えます。ただし、時間がかかります。何年かかるか、申し上げられません」
「いいです」
ジョゼットは、薬草の束をひっくり返した。
「三年、待ってたので。待つの、得意です」
私は、その言い方を書き取らなかった。書き取れば記録になる。だが、この子の「待つのが得意」は、記録にすると、あの三年の証拠になってしまう。
夜、私は懐から姉の手帳を出した。いつもは、開く前に指で触れる。監査局へ来る前からの癖である。読者の誰も気づかないような、私だけの作法だった。
今日は、触れなかった。
触れずに、卓の上に置いた。置いて、判定文の隣に並べた。
――姉さん。
私は、検算できないものを一つだけ持っている、と長いこと思っていた。今日、二つ目ができた。
二つ目は、治さないと選んだ人の顔である。あれは、どの帳簿にも載らない。載らないので、私はそれを記録の外に置いておく。外に置いたものは、いつでも取り出せる。
私は手帳を懐に戻し、判定文の清書に入った。
夜半、ヴァレリーが階下から上がってきた。
「監査官どの。明朝の判定に、私も立ち会います」
「規程では」
「立ち会わなくてよいことになっております。……ですが、立ち会ってはならないとも、書かれておりません」
私は筆を止めずに答えた。
「ヴァレリーさん。あなたは最近、規程の使い方が私に似てきました」
「……不本意でございます」
「私もです」
監査官の私的控え——本日の決算。実見、一件(被監査人が治癒を行使しない選択をした事例)。起草、四回目。破棄、三回。
検分事項を一つ追加しました。「治さないことを、自分で選べるか」。……次話、判定を読み上げます。二件です。




