第47話:血の帳簿
受理の書式は、朝のうちに整えた。
受理番号、本年度第九号。検分事項、本庁認定課による治癒名簿の閲覧封鎖の適法性。
封鎖の紙が貼られたのは、五年前である。ルカ様の治癒の記録、三百人分。そのうち十二名分にだけ、「閲覧封鎖。本庁認定課の許可なく開封を禁ず」の紙が貼られている。
見つけてから、私はこれを開けられずにいた。開ける根拠が無かったからである。今日は、ある。
「イレールどの。封鎖の権者は、本庁認定課ですね」
「そうです」
「封鎖の理由は、記録されておりますか」
「……理由の欄は、ございません」
「様式に、無いのですか」
「ございません。封鎖は、課長の判で足ります」
私は書いた。理由欄なし。判のみ。
「では、当時の課長はどなたですか」
「前任です。六年前に退任しております」
「その方の後任は」
「私です」
「では、五年前の封鎖は」
イレールは、そこで初めて、少し遅れた。
「……私の判です」
書斎の光が、朝から昼へ動いていた。
「理由をご記憶ですか」
「記憶しております」
「伺います」
「上から、そうせよと」
私は筆を止めなかった。止めると、この人が言い直す隙ができる。
「書面で来ましたか」
「いいえ」
「口頭ですね」
「口頭です」
三度目である。
第一巡礼区の焼却も、札の割り込みも、この封鎖も、書面で来ていない。
「イレールどの。封鎖の中身を、あなたはご覧になりましたか」
「見ました。封をする前に、一度」
「では、開けます。当局の請求に基づき、開封を」
「……承知しました」
男は、書棚の一番下から、鍵のかかる箱を出した。鍵は、彼の腰に下がっていた。ずっと下がっていた。
十二枚の紙が出てきた。
治癒名簿の抜きである。名前、村、年齢、治癒の日付、症状。三百人の記録と、書式は同じである。同じなのに、一つだけ列が多かった。
右端に、細い列が引いてある。列の頭に、二文字。
『徴候』
「イレールどの。この列は」
「……治癒の後に、当人に現れた変化を記す欄です」
「変化」
「治癒を受けた者のうち、ごく稀に、微弱な力が出ることがあります。他人の痛みの場所が分かる、というような。……力とも呼べないほどのものです」
私は十二枚を並べた。
十二名の徴候欄には、それぞれ短い記載があった。「痛所の指摘、三度」「熱の予見、一度」「不明」「なし」「なし」――記載のある者が六名、無い者が六名。
「なしの者も、封鎖されておりますね」
「はい」
「なぜです」
「照合するためです」
私は顔を上げた。
「照合、とは」
「徴候が出る者と、出ない者の違いを見るためです。……封鎖は、隠すためではなく、揃えておくために行います。散らばると、比べられませんので」
この人は、いま、恐ろしいことを事務語で言った。言った本人が、それを恐ろしいと思っていない。
「イレールどの。何と何を、比べておられたのですか」
男は、答えなかった。答えの代わりに、十二枚を裏返した。紙の裏に、欄外の書き込みがあった。十二枚とも、同じ位置に、同じ様式で。
――『母』。
その下に、名前の書ける空白が引いてある。十二枚のうち、埋まっているのは四枚だった。
私は四枚を読んだ。
一枚目、母の名なし。「不明。孤」。二枚目、「マルグリット」。三枚目、「アニェス」。四枚目、「アニェス」。
二枚に、同じ名前が入っていた。
私は、手帳を開いた。公開審問の日に書き取った四つの名前が、そこにある。消えた聖女たち。アニェス。マルグリット。セラフィナ。コレット。
殉教者台帳の、最も古い側の名前である。
「テッサ」
「……はい」
「三枚目と四枚目の、村と年を読んでください」
「三枚目、南街道の先、十一年前。四枚目、同じ村、十一年前」
「同じ村の、同じ年」
「はい。……兄妹かもしれません」
私は書いた。書いてから、書いた行の上下を見た。これは治癒の名簿ではない。治した者の記録ではなく、治した者と血の繋がった者を探す記録である。
教会は、力を持つ者を認定していたのではない。力の出る血筋を、探していた。
「イレールどの」
「はい」
「この十二名は、白のルカに治された者ですね」
「そうです」
「ですが、封鎖の目的は、治癒の追跡ではありません」
「……はい」
「血縁の照合ですね」
男は、しばらく黙っていた。
「――そう聞いております」
「誰から」
「上から」
「口頭で」
「口頭で」
私は封鎖の紙を、十二枚とも剥がした。剥がした紙は捨てず、日付を入れて綴じた。剥がした紙も記録である。
私は十二名の所在を、順に確かめた。
村名と年から、生死と居所を割り出す。名簿にはそこまで書かれていないので、教区の人別の綴りと突き合わせる作業になる。イレールは、嫌な顔をせずに綴りを出してきた。この人は、頼まれた仕事は必ずする。
半日かかって、十二名のうち八名までが埋まった。二名、物故。四名、居所そのまま。二名、転出。転出の二名は、いずれも「療養」名目で南へ移されていた。織工モーリスと、同じ書き方である。
「イレールどの。療養の移送先は」
「記載がございません」
「移送を決めたのは」
「……上です」
「書面は」
「ございません」
四度目である。私はもう驚かなくなっていた。驚かなくなるのは、危ない徴なので、帳面の端に印を付けておいた。
残る四名の所在は、その日のうちには埋まらなかった。埋まらないまま、私は空欄に印を付けた。空欄は、埋まらないことそれ自体が記録になる。
戸口に、ルカ様が立っていた。いつから立っていたのかは、訊かなかった。
「監査官どの」
「はい」
「その紙の、三枚目と四枚目を、見せていただけますか」
私は渡した。
聖人は、二枚を並べて、長く見ていた。
「……南街道の先の村です」
「ご存じですか」
「いいえ」
彼は紙を返した。
「知りません。知りませんが、私の名簿の紙と、同じ透かしがあります」
私は二枚を光に当てた。二重の輪。輪の中に、線が三本。治癒名簿の抜きは、本庁の様式で書かれている。書かれた紙だけが、本庁の紙ではない。
「イレールどの。この十二枚の用紙は、どこから支給されますか」
「当課の消耗品は、本庁の用度で一括して」
「ですが、この紙は本庁の透かしではありません」
「……はい」
「あなたは、五年前にこの十二枚を封じるとき、紙をご覧になりましたか」
「見ました。中身は、と申し上げましたが」
男は、そこで初めて、自分の指先を見た。
「紙は、見ておりませんでした」
私は書いた。
この人は、十年、記録を正しく保ってきた。字の正しさだけを見て、紙を見ずに。
「イレールどの。記録が正しく保たれる、というのは」
「……字が、でございましょうか」
「私は、紙も含むと考えます。誰が漉いた紙に、誰が書いたか。それも記録です」
男は答えなかった。答えなかったが、書棚の紙束を一つ抜いて、光に透かした。透かして、しばらく見ていた。
自分の役所の紙の簀の目を、この人はたぶん、その日初めて数えた。
監査官の私的控え——本日の決算。受理、第九号。開封、十二件。封鎖の紙、十二枚(保存)。徴候欄、記載六件。
名簿の裏に、母の名を書く列がございました。十二枚のうち四枚が埋まり、うち二枚が同じ名でした。……次話、その名を、台帳の側から引きます。




