第45話:認定課の課長
本庁認定課の南方出張所は、宿場町の一角にあった。
教会の建物ではない。両替商の並びに建つ、三階建ての石造りである。看板はない。扉に、小さな鍮の板が打ってあるだけだった。
金の集まる通りに、記録の役所がある。それ自体が一つの記録である。
課長イレールは、私たちを二階の書斎に通した。
四十くらいの、明るい人だった。声が軽く、話しはじめが早い。書棚には簿冊が隙間なく並び、背に貼られた紙片の高さが、すべて揃っている。
「監査官どの、ようこそ。……いや、こう申し上げるのも妙ですが、お会いできて嬉しく思います」
「嬉しい、とは」
「候補者名簿を、外の方が読まれるのは初めてですので。作った者としては、読まれると嬉しいものです」
私は名簿の写しを卓に置いた。
「サン=ヴレー教区の当該児について、事前届出の控えを閲覧しました」
「はい」
「後見人の欄に、署名があります」
「私の署名でしょう」
あっさりしていた。隠す気配が、まったくない。
「教区からの届出には、認定課の側が後見の署名を入れる決まりですので。……この三年で、四十七件、私が書いております」
「四十七名すべて」
「すべてです。私の仕事ですから」
私は帳面を開いた。
「では、伺います。あなたは四十七名の顔を、ご存じですか」
「存じません」
「一人も」
「一人も」イレールは笑った。「監査官どの、それは私の仕事ではありません。私の仕事は、記録が正しく作られ、正しく保たれることです。顔を見に行く役の者は、別におります」
この人は、嘘をつかない。嘘をつかない人は、扱いが難しい。嘘は矛盾になるが、正直は矛盾にならない。
「もう一枚、並べさせてください」
私は、二枚目の紙を出した。ルカ様の認定書の控えである。当局が受理第二号を扱うために、春のうちに取り寄せたものだ。
十年前の日付。後見人の欄に、署名がある。
二枚を並べた。
傾きの浅い、几帳面な、少し右上がりの字。「ブ」の点の打ち方や、筆の入りが、二枚とも同じだった。ゴティエの偽筆を割ったときと、同じ見方をした。
「これも、あなたですね」
「そうです」
イレールは、二枚を上から覗き込んだ。
「懐かしいですな。……十年前。私はまだ、書記でした」
「この方をご存じですか」
「白のルカ」
男は、紙から目を上げて、戸口の方を見た。ルカ様は、そこに立っていた。
「ええ。あれは私の担当です」
あれ。
その一語を、この人は、まったく躊躇わずに使った。
私は書いた。書いた手の動きが、いつもより硬かったと思う。硬いままでも、字は書ける。
「担当、とは」
「登載から認定までの記録の一切です。手のかからない、良い記録でした」
イレールは、書棚のほうへ歩いた。
「候補者の記録は、たいてい途中で汚れます。教区が届出を出し忘れる。興行の収支が合わない。本人が逃げる。……あれは、一度も汚れませんでした。十年、一行の訂正もない」
「訂正が無いのは、良いことですか」
「記録としては、良いことです」
男は、書棚から一冊を抜いた。背に、十年前の年号が貼ってある。
「ご覧になりますか」
「閲覧を請求します」
「請求は不要です。差し上げると申し上げております」
私は、そこで一度、筆を止めた。
「イレールどの。当局は、閲覧を請求します」
「なぜです」
「請求して閲覧した記録は、記録になります。差し上げられた記録は、贈り物です」
男は、少し目を丸くして、それから笑った。
「なるほど。……では、請求書をどうぞ」
請求書を書いている間に、ジョゼットが書斎の入口から中を覗いた。テッサが手を引いて、書棚の前まで連れてきた。
イレールは、その子を見た。見て、名簿の写しを見て、また子を見た。
「……この方が、サン=ヴレーの」
「ええ」
「ほう。……失礼、名簿では十二歳とありましたが、もう少し小さく見えますな」
ジョゼットは、何も言わなかった。言わないまま、少しだけ、テッサの後ろに下がった。
「イレールどの」
「はい」
「この子は、あなたが後見人の欄に署名なさった四十七名の一人です」
「そうなりますな」
「いま、初めて顔を見られましたね」
「初めてです」
男は、あっさりうなずいた。
「先ほど申し上げたとおりです。顔を見に行く役は、別におります」
「では、その役の方は、この三年で何度この子の顔を見に行かれましたか」
「……記録を当たれば分かります」
彼は書棚から一冊を抜き、頁を繰り、指を止めた。止めたまま、少し長く、そこを見ていた。
「零です」
「零」
「巡察の記録が、ございません」
私は書いた。後見の署名、四十七件。巡察、零件。
「イレールどの。あなたの仕事は、記録が正しく作られ、正しく保たれることでしたね」
「はい」
「巡察が零であることは、正しく記録されております」
「……はい」
「正しく記録されているものは、正しいのですか」
男は、答えなかった。
答えないまま、書棚に簿冊を戻した。戻す位置は、寸分違わなかった。簿冊の中身は、思ったより薄かった。
白のルカ、登載。十年前の春。届出教区は、王都西の孤児院。治癒の実見、三件。認定審査、一回。認定、同年の秋。
以後、巡行の日程と、謁見の回数と、献納の累計が、年ごとに一行ずつ。
十年で、二十二行。
私は、その二十二行を三度読んだ。
行と行の間が、どれも均等に空いている。均等に空いている帳簿は、たいてい後から書かれている。日々書き足した帳簿は、忙しい月の行が詰まり、暇な月の行が空くからだ。
「イレールどの。この綴りは、いつ書かれましたか」
「その年ごとに、と存じますが」
「行の間隔が、十年ぶん揃っております」
「……様式でございます。行間は定めがありますので」
「定めがあるのは、罫の幅です。書く者の手は、罫の中で揺れます」
男は、簿冊を覗き込んだ。覗き込んで、少し長く見た。
「……確かに、揃っておりますな」
「書き写したものではありませんか」
「元があった、ということですか」
「そうです。元の綴りが別にあり、これはその清書である。……もしそうなら、元の綴りには、清書されなかった行があるはずです」
イレールは、書棚を見上げた。
「元の綴りは、当所にはございません」
「では、どこに」
「分かりません。……本庁の書庫か、あるいは」
彼は、そこで言葉を切った。切ったあとで、自分が切ったことに気づいた顔をした。この人は、隠すのが下手なのではない。隠すという動作を、そもそも訓練されていない。
「監査官どの。何かお探しですか」
「登載の前です」
「前」
「この方は、十歳で発見されたと記録されています。では、十歳より前の記録は、どこにありますか」
イレールは、書棚を見渡した。
「ございません」
「孤児院の名簿には」
「名簿は一枚だけ、この綴りに入っております。……それが、この方の最も古い記録です」
私は、その一枚を出した。粗い紙だった。片面に、十四人の名前が書いてある。年齢と、引き取られた日。ルカという名は、上から九番目にあった。
テッサが、横から覗き込んだ。覗き込んで、そのまま止まった。
「カサンドラ様」
「はい」
「……この紙、孤児院の紙じゃないです」
イレールの手が、簿冊の縁に置かれたまま、動かなかった。
監査官の私的控え——本日の決算。筆跡照合、二枚(一致)。閲覧請求、二件。簿冊、十年で二十二行。
課長どのは、一度も嘘をおつきになりませんでした。嘘をつく必要が無い方なのだと思います。……次話、名簿の紙のほうを検めます。




