第41話:十二歳の帳場
小屋の中に入る許しは、較べの翌朝に下りた。二十二対四という数が、谷を一晩で回ったせいである。番人は、私が名乗る前に囲いの戸を開けた。
中は、思ったより狭かった。板張りの一間。窓は高いところに一つ。寝床は藁を布で包んだもの。壁に、白い衣が二枚掛かっている。卓はない。桶が一つ。
私は数えた。数えるものが少なかった。
「テッサ。この部屋の身代は」
「……銀貨で、二十枚くらいです。衣を入れて」
子供は、寝床の端に座っていた。衣を着ていない。麻の粗い服である。金の輪も外してあった。額に、輪の跡が薄く残っていた。
「はじめまして。監査官の任にあります、カサンドラ・エルローと申します」
子供は、答えなかった。
「お名前を、伺ってもよろしいですか」
答えは、しばらく来なかった。それから、小さな声がした。
「……喋ると、御利益が減るって言われました。だから、ずっと、黙ってます」
「では、伺い方を変えます。声を出さなくて構いません。名前を、ここに書けますか」
私は白紙と炭筆を置いた。子供は、じっとそれを見た。それから首を横に振った。
「テッサ。あなたが書いてください」
「え、わたしですか」
「あなたの名前を書いて、それから、この方に見せてください」
テッサは、少し戸惑ってから、自分の名前を書いた。滲んだ。紙を渡すと、子供はそれを長く見ていた。
「……にじんでます」
「はい。わたし、まだ下手なので」
「じょうずな人が、書くんじゃないんですか」
「じょうずな人が書くと、その人の名前になっちゃいます」
テッサは、炭筆を子供の手に握らせた。
「わたしのは、わたしが書いたので、わたしのです」
子供は、紙の端に、四つの文字を書いた。
――ジョゼット。
字は、テッサより整っていた。
「字は、どちらで」
「……前の司教様が、教えてくれました。死にました」
「では、いまは誰も」
「いりません。書くものが、ないので」
私は書いた。読み書き可。筆記具の支給なし。
生活の検分は、半日かかった。食事は日に二度。番人が運ぶ。中身は粥と、塩漬けの菜。較べの前日だけ、卵が付いたという。外へ出るのは、施術のときと、祭りのとき。
湯は、月に二度。
診てもらったことは、一度もない。
最後の一つを聞いたとき、私は筆を止めた。
「治す方が、診てもらったことがないのですか」
「わたしが、治すので」
「ご自分が、痛いときは」
「……我慢します」
ルカ様が、戸口に立っていた。入ってこなかった。入ると、監査ではなくなるからだと思う。
「ジョゼットさん」
聖人が、外から声をかけた。
「手を当てるとき、痛いところの少し外に置いておられますね」
「……はい」
「どうして、そうなさるのですか」
「痛いところに触ると、痛いので」
「誰かに教わりましたか」
「いいえ」
ジョゼットは、自分の手を見た。ルカ様と同じ癖だった。
「はじめのころ、まん中に置いてたら、おばあさんが痛いって言ったので。……それから、外にしました」
ルカ様は、しばらく何も言わなかった。
「――私も、同じことをしております」
「そうなんですか」
「はい。十歳のときに、同じように直しました。誰にも教わらずに」
ジョゼットは、はじめて顔を上げた。
「あの。……あなたも、こわいですか」
「何がですか」
「治らなかった人が、帰るとき」
板壁の向こうで、番人が足を動かす音がした。
「こわいです」ルカ様は言った。「十年、こわいままです」
「……そうですか」
ジョゼットは、藁の寝床の端を掴んだ。
「よかった」
私は書かなかった。書けなかった。筆を持ったまま、私はこの部屋の中で、自分の職掌の境目を見ていた。
小屋を出たあと、私は番人の二人にも聴取した。
「札の番号は、どなたが決めますか」
「並んだ順です」
「昨日、前日の夕方に六枚まとめて出ておりました。並んだ順ではありませんね」
「……あれは、代理の方から言われまして」
「司教代理どのから、直接」
「いえ。助祭様から。助祭様は、代理様から、と」
私は書いた。口頭。二段。
「もう一つ。あの子が病んだときは、どうしておられますか」
「病みませんよ」
「一度も」
「一度も、と申しますか」番人は、そこで少し声を落とした。「……去年の冬に、三日ばかり。熱が出まして」
「医者は」
「呼びませんでした。呼ぶと、生き神様が病んだと知れますので」
「では、三日間どうなさった」
「小屋を閉めて、祭りは延期しました。……延期した分は、翌週に二日でやりました」
二日ぶんを一週にまとめる。それは興行の帳尻の合わせ方である。人の体の帳尻ではない。
ヴァレリーは、小屋の検分の間、一度も規程を口にしなかった。
宿の土間で、彼女は書きかけの報告を見ていた。私が通ると、いつもどおり伏せなかった。だが、いつもと違って、まだ半分しか埋まっていなかった。
「監査官どの。……この検分は、規程のどの条に拠りますか」
「拠っておりません」
「拠らずに、なさったのですか」
「巡回状は、聖務に関わる記録の閲覧を許しております。生活の検分を許す条は、ありません。ですから、これは記録の閲覧ではなく、実見です。実見を禁じる条も、ありません」
ヴァレリーは、筆の先を見ていた。
「……無い条に拠るのは、無い条に拠って徴収した者と、どこが違うのですか」
いい問いだった。私は、その問いをこの人から受け取れたことを、少し嬉しく思った。
「取ったか、書いたかの違いです」
「取ったか、書いたか」
「あの徴収官は、無い条に拠って人から金を取りました。私は、無い条に拠って紙に数を書いております。書いたものは、あとで誰でも検められます。取ったものは、返させるまで戻りません」
「……もし、あなたの書いたものが間違っていたら」
「間違っていたと、あなたが書いてください。それで釣り合います」
彼女は、しばらく筆を動かさなかった。それから、報告の残り半分を書いた。書き終わるのに、いつもの倍の時間がかかっていた。
夕方、宿へ戻る道で、テッサが遅れて歩いていた。
私は歩調を落とした。落としたことに、この子は気づかないふりをした。
「カサンドラ様」
「はい」
「わたし、あの子に、何て言えばいいですか」
私は、しばらく考えた。
「分かりません」
「……カサンドラ様でも」
「私は、あなたのときも分かりませんでした」
テッサが顔を上げた。
「この春、あなたを引き取ると決めたとき、私は何と言えばいいか分からなかったので、俸給の話をしました。月に銀貨三枚、と」
「……覚えてます」
「あれは、逃げです。かける言葉が見つからないので、数字にしました」
「でも」
テッサは、袖の端を握った。
「わたし、あれで、生きていけるって分かりました」
この子は、いつもこうやって、私の逃げを勘定に付け替えてくれる。
「では、テッサ。あなたも数字で言ってごらんなさい」
「数字で」
「ええ。慰めは私たちの職掌ではありません。ですが、数えることならできます。数えたものは、あの子の手元に残ります」
テッサは、少し歩いてから、言った。
「……わたし、あの子の部屋の身代を、もう一回数えます」
「二十枚では足りませんか」
「足りません。だって、あの子が三月で稼いだお金、金貨で四百枚を超えてます」
この子は、もう数え終わっていた。
監査官の私的控え——本日の決算。生活検分、一件。部屋の身代、銀貨二十枚。三月の稼ぎ、金貨四百枚余。読み書き可。筆記具、支給なし。医者、なし。
名前を、伺いました。書いていただきました。……次話、その名前が、どこの帳簿に載っているかを検めます。




