第39話:治癒比べ
条件の交渉は、司教館の応接室で行われた。向こうはドナシアンと助祭が二人。こちらは私とヴァレリー。ルカ様は同席させなかった。
被監査人を交渉の卓に着かせない。それは着任以来、動かしていない線である。
「日取りは三日後。場所は広場。信徒の立ち会いのもとで」
ドナシアンは、はじめから機嫌がよかった。
「治した人数を数えます。数えるのは、双方から二名ずつ」
「治った、の定義は」
「……定義、ですかな」
「起き上がれたか。痛みが引いたか。三日後も引いたままか。どれを『治った』とするかで、数は三通り出ます」
助祭の一人が、筆を止めた。
「その日のうちに、目に見えて変わればよろしいでしょう」
「では、それを条文にします。『施術の当日、当人が自ら立ち、五歩を歩けた場合を治癒とする』。……五歩は、私が決めました。異論があれば数を変えてください」
「……いや、結構です」
私は書いた。定義が先に決まれば、あとから数えられる。数えられれば、興行は数字になる。数字になったものは、私の職掌である。
「次に、こちらの条件を申し上げます」
「ほう」
「較べに出るのは、当局の被監査人です。被監査人を人前に出す以上、当局は監査の様式を守ります。すなわち、施術の前後に帳簿を開きます」
「帳簿」
「較べに要した費用の一切。会場の設営、幟、蝋燭、香油、薬。それから、施術を受ける者の選び方――札の配布の記録」
ドナシアンの微笑が、動かなくなった。動かないというのは、笑っていない顔を笑いの形で止めているということである。
「それは、行事の帳簿ですな」
「ええ。行事の帳簿です」
「教区裁治権の内にあると、申し上げたはずですが」
「ですから、閲覧を請求しているのではありません。較べの条件として、開示していただきたいと申しております。開示されない場合は、較べに出せません。被監査人の安全と、記録の完全性を担保できませんので」
助祭が何か言いかけ、ドナシアンが手で止めた。
「――出さぬと」
「出せません。逃げたとお触れを回されても、それは構いません。当局は、触れで判定を変えません」
沈黙が長かった。
葡萄棚の葉が、また鳴っていた。
「……蝋燭と、香油と、札の記録だけならば」
私は、そこで初めて茶を受け取った。
宿に戻ると、ルカ様が卓で写しを整えていた。
「監査官どの。条件は」
「三日後、広場。治癒の定義は五歩。先方は蝋燭・香油・札の記録を開示します」
「……蝋燭」
「ええ」
「では、勝ちますね」
私は手を止めた。
「ルカ様」
「はい」
「いま、勝つとおっしゃいましたか」
「申しました」
聖人は、写しの端を揃え終えて、こちらを見た。柔らかい顔をしていた。柔らかいのに、目の底が動いていない。
「三度、やらされました。認定されて最初の年に、三度」
「伺いました」
「三度とも、勝ちました。……勝つと、負けたほうの村が困るのです。困った村へ、翌月から巡行の日程が組まれます。困っている村ほど、献納が出ますので」
私は帳面を閉じた。
「私は、勝つために連れて行かれておりました。今度は、勝ちたい」
「理由を伺っても」
「あの子を、勝たせたくないからです」
言葉の順番が、逆さまだった。逆さまのまま、意味は通っていた。
「あの子が勝てば、あの子の値が上がります。値が上がれば、あの子は次の谷へ運ばれます。……私が十三の年に、そうなりました」
「ルカ様」
「私が勝てば、あの子は『負けた生き神』になります。負けた生き神は、興行になりません。……それが、あの子を降ろす一番早い方法です」
私は、しばらく何も書かなかった。書くべきことは分かっていた。被監査人が判定に感情を持つのは、監査の様式としては望ましくない。望ましくないので、記録しておく必要がある。
それでも筆が動かなかったのは、この人が十年ぶんの理屈を、たった今、自分で組み立てて見せたからである。
「――記録します」
私は書いた。
「『被監査人は較べに応じる意思を示した。動機は、対象児の商品価値の引き下げにある』」
「ずいぶん、冷たい書き方ですね」
「冷たく書かないと、判定に載りません。載らないものは、誰も守ってくれません」
ルカ様は、少し笑った。今度は、目の底も動いていた。
「今日の私は、何点でしたか」
「まだ較べておりません」
「では、較べの前の私は」
「……初めて、ご自分の意思で何かをすると宣言なさいました。項目を一つ、新設します」
ヴァレリーは、その夜も報告を書いていた。
「監査官どの。一つ、規程の確認をさせてください」
「どうぞ」
「較べに勝った場合、当局は何を得るのですか」
「何も得ません」
「……では、なぜ」
「較べに出ることで、蝋燭と香油と札の記録が開きます。得るものは、それだけです」
彼女は筆を置いた。
「勝敗は、要らないのですか」
「勝敗は、信徒のものです。当局のものは記録です。……ヴァレリーさん、監査は勝負に見えることがありますが、勝負ではありません。勝負なら、負けたときに何も残りません。検分なら、負けても記録が残ります」
「規程には、そのようなことは書かれておりません」
「ええ。書かれていないので、私が書いています」
ヴァレリーは、その一行を写した。写してから、小さく息を吐いた。
「……写しは、本庁へ送ります」
「どうぞ」
「本庁は、たぶん、意味が分からないと思います」
較べの前日、私は広場を見に行った。設営が始まっていた。台が二つ、向かい合わせに組まれている。台の高さが違った。生き神の側が、一尺高い。
「テッサ。あれは」
「見上げさせる高さです。……興行では、高いほうが本物に見えます」
「では、こちらの台を下げましょう」
「下げるんですか」
「ええ。二尺」
テッサが目を丸くした。
「もっと下がります。見上げる相手が二人いると、信徒は迷います。迷わせないほうがいい。……こちらは、見上げさせないほうが得です」
私は大工に頼み、当局の台を地面と同じ高さに直させた。高さを競うと、高さの話になる。高さの話になれば、治った人数の話が消える。
その夜、囲いの隙間から、白い衣の袖が見えた。子供は、小屋の戸口に座って、外を見ていた。
目が合った。
私は会釈をした。子供は、会釈を返さなかった。返さないまま、少しだけ、首を傾げた。
喋ってはいけないと教えられている子が、首を傾げるのは、たぶん、質問である。
監査官の私的控え——本日の決算。取り決め、一件(治癒の定義=五歩)。開示、三点(蝋燭・香油・札)。台、二尺下げ。
被監査人が、初めて「勝ちたい」と申しました。理由は、勝つためではありませんでした。……次話、較べの当日です。




