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教会監査人は聖女を信じない 〜婚約破棄された検算令嬢、奇跡の「領収書」を拝見します〜  作者: 小鳥遊ミント
第7章 生き神編

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第39話:治癒比べ

 条件の交渉は、司教館の応接室で行われた。向こうはドナシアンと助祭が二人。こちらは私とヴァレリー。ルカ様は同席させなかった。

 被監査人を交渉の卓に着かせない。それは着任以来、動かしていない線である。


「日取りは三日後。場所は広場。信徒の立ち会いのもとで」


 ドナシアンは、はじめから機嫌がよかった。


「治した人数を数えます。数えるのは、双方から二名ずつ」

「治った、の定義は」

「……定義、ですかな」

「起き上がれたか。痛みが引いたか。三日後も引いたままか。どれを『治った』とするかで、数は三通り出ます」


 助祭の一人が、筆を止めた。


「その日のうちに、目に見えて変わればよろしいでしょう」

「では、それを条文にします。『施術の当日、当人が自ら立ち、五歩を歩けた場合を治癒とする』。……五歩は、私が決めました。異論があれば数を変えてください」

「……いや、結構です」


 私は書いた。定義が先に決まれば、あとから数えられる。数えられれば、興行は数字になる。数字になったものは、私の職掌である。


「次に、こちらの条件を申し上げます」

「ほう」

「較べに出るのは、当局の被監査人です。被監査人を人前に出す以上、当局は監査の様式を守ります。すなわち、施術の前後に帳簿を開きます」

「帳簿」

「較べに要した費用の一切。会場の設営、幟、蝋燭、香油、薬。それから、施術を受ける者の選び方――札の配布の記録」


 ドナシアンの微笑が、動かなくなった。動かないというのは、笑っていない顔を笑いの形で止めているということである。


「それは、行事の帳簿ですな」

「ええ。行事の帳簿です」

「教区裁治権の内にあると、申し上げたはずですが」

「ですから、閲覧を請求しているのではありません。較べの条件として、開示していただきたいと申しております。開示されない場合は、較べに出せません。被監査人の安全と、記録の完全性を担保できませんので」


 助祭が何か言いかけ、ドナシアンが手で止めた。


「――出さぬと」

「出せません。逃げたとお触れを回されても、それは構いません。当局は、触れで判定を変えません」


 沈黙が長かった。

 葡萄棚の葉が、また鳴っていた。


「……蝋燭と、香油と、札の記録だけならば」


 私は、そこで初めて茶を受け取った。


 宿に戻ると、ルカ様が卓で写しを整えていた。


「監査官どの。条件は」

「三日後、広場。治癒の定義は五歩。先方は蝋燭・香油・札の記録を開示します」

「……蝋燭」

「ええ」

「では、勝ちますね」


 私は手を止めた。


「ルカ様」

「はい」

「いま、勝つとおっしゃいましたか」

「申しました」


 聖人は、写しの端を揃え終えて、こちらを見た。柔らかい顔をしていた。柔らかいのに、目の底が動いていない。


「三度、やらされました。認定されて最初の年に、三度」

「伺いました」

「三度とも、勝ちました。……勝つと、負けたほうの村が困るのです。困った村へ、翌月から巡行の日程が組まれます。困っている村ほど、献納が出ますので」


 私は帳面を閉じた。


「私は、勝つために連れて行かれておりました。今度は、勝ちたい」

「理由を伺っても」

「あの子を、勝たせたくないからです」


 言葉の順番が、逆さまだった。逆さまのまま、意味は通っていた。


「あの子が勝てば、あの子の値が上がります。値が上がれば、あの子は次の谷へ運ばれます。……私が十三の年に、そうなりました」

「ルカ様」

「私が勝てば、あの子は『負けた生き神』になります。負けた生き神は、興行になりません。……それが、あの子を降ろす一番早い方法です」


 私は、しばらく何も書かなかった。書くべきことは分かっていた。被監査人が判定に感情を持つのは、監査の様式としては望ましくない。望ましくないので、記録しておく必要がある。

 それでも筆が動かなかったのは、この人が十年ぶんの理屈を、たった今、自分で組み立てて見せたからである。


「――記録します」


 私は書いた。


「『被監査人は較べに応じる意思を示した。動機は、対象児の商品価値の引き下げにある』」

「ずいぶん、冷たい書き方ですね」

「冷たく書かないと、判定に載りません。載らないものは、誰も守ってくれません」


 ルカ様は、少し笑った。今度は、目の底も動いていた。


「今日の私は、何点でしたか」

「まだ較べておりません」

「では、較べの前の私は」

「……初めて、ご自分の意思で何かをすると宣言なさいました。項目を一つ、新設します」


 ヴァレリーは、その夜も報告を書いていた。


「監査官どの。一つ、規程の確認をさせてください」

「どうぞ」

「較べに勝った場合、当局は何を得るのですか」

「何も得ません」

「……では、なぜ」

「較べに出ることで、蝋燭と香油と札の記録が開きます。得るものは、それだけです」


 彼女は筆を置いた。


「勝敗は、要らないのですか」

「勝敗は、信徒のものです。当局のものは記録です。……ヴァレリーさん、監査は勝負に見えることがありますが、勝負ではありません。勝負なら、負けたときに何も残りません。検分なら、負けても記録が残ります」

「規程には、そのようなことは書かれておりません」

「ええ。書かれていないので、私が書いています」


 ヴァレリーは、その一行を写した。写してから、小さく息を吐いた。


「……写しは、本庁へ送ります」

「どうぞ」

「本庁は、たぶん、意味が分からないと思います」


 較べの前日、私は広場を見に行った。設営が始まっていた。台が二つ、向かい合わせに組まれている。台の高さが違った。生き神の側が、一尺高い。


「テッサ。あれは」

「見上げさせる高さです。……興行では、高いほうが本物に見えます」

「では、こちらの台を下げましょう」

「下げるんですか」

「ええ。二尺」


 テッサが目を丸くした。


「もっと下がります。見上げる相手が二人いると、信徒は迷います。迷わせないほうがいい。……こちらは、見上げさせないほうが得です」


 私は大工に頼み、当局の台を地面と同じ高さに直させた。高さを競うと、高さの話になる。高さの話になれば、治った人数の話が消える。


 その夜、囲いの隙間から、白い衣の袖が見えた。子供は、小屋の戸口に座って、外を見ていた。

 目が合った。

 私は会釈をした。子供は、会釈を返さなかった。返さないまま、少しだけ、首を傾げた。


 喋ってはいけないと教えられている子が、首を傾げるのは、たぶん、質問である。

監査官の私的控え——本日の決算。取り決め、一件(治癒の定義=五歩)。開示、三点(蝋燭・香油・札)。台、二尺下げ。

被監査人が、初めて「勝ちたい」と申しました。理由は、勝つためではありませんでした。……次話、較べの当日です。

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