第38話:裁治権の壁
宿の卓に、規程集を積んだ。私の持ってきた写しが二冊。ヴァレリーの持っている本庁の写しが三冊。合わせて五冊。
教区裁治権の条項は、第四編にある。読んだ。二度読んだ。三度目で、私は自分が壁の内側を撫でているだけだと分かった。
「監査官どの」
ヴァレリーが、向かいに座っていた。
「規程では、教区裁治権は教区の内部行為に及びます。当該教区の行事は、内部行為です」
「存じております」
「ですから、閲覧は――」
「一つ伺います」私は顔を上げた。「あなたの持っている三冊のうち、一冊は薄い。あれは何ですか」
彼女は、少し黙った。
「……本庁認定課の内規です」
「規程集ではないのですか」
「規程集の下位にあたります。認定課の職員が、認定の実務で従う手引きです」
「内規は、閲覧できますか」
「規程では、内規は職員に限り閲覧できます。……私は職員です」
私は待った。
「監査官どのは、職員ではございません」
「ええ」
「ですから、お見せできません。……読み上げることについては、規程に定めがございません」
私は筆を取った。
「では、読み上げてください」
「何の条を」
「認定申請前の候補者について、認定課がどう扱うかを定めた条があるはずです。無ければ、無いとおっしゃってください」
ヴァレリーは、薄い冊子を開いた。指が、目次を三度往復した。それから、止まった。
「……第二編、第九条」
彼女は読み上げた。
「『認定の申請に先立ち、候補者について教区より事前の届出があった場合、認定課はこれを候補者名簿に登載する。登載された候補者は、認定の手続きに準じた保護および管理の対象とする』」
私は書き取った。書き取ってから、二度読み返した。
「ヴァレリーさん。この条の意味を、確認させてください」
「はい」
「教区が事前に届け出た候補者は、認定課の名簿に載る」
「はい」
「名簿に載ったということは、その候補者に関する記録は、教区の内部行為ではなく、本庁の記録になる」
「……はい」
「本庁の記録は、大司教区会計の照合対象です。そして当局は、大司教区受納簿の検分を受理第五号の一部として継続しております」
私は立ち上がった。
「ですから、あの子が候補者名簿に載っているなら、あの子の記録は教区の壁の内側にありません」
ヴァレリーは、書字板を膝の上に置いたまま、動かなかった。
「……監査官どの。私は、あなたを止める役でございます」
「ええ」
「いま私が読み上げたことは、あなたを止めておりません」
「止めていません」
「規程では、記録係は照会に対して虚偽を述べてはなりません。無いものを無いと申し上げ、あるものをあると申し上げました。……それだけでございます」
彼女は、そこで一度だけ、目を伏せた。
「それだけでございますが。……本庁への報告に、私が第九条を読み上げた旨を書きます」
「書いてください」
「叱責されると思います」
「その叱責も、記録になります」
照会は、その日のうちに出した。本庁認定課へ、候補者名簿の登載の有無を問う一枚。回答期限は規程どおり、七日。
だが七日を待つ必要はなかった。届出をした側――つまり教区に、控えがあるはずだからである。
翌朝、私は司教館へ戻った。
「候補者の事前届出の控えを、閲覧します」
ドナシアンの微笑が、はじめて半拍遅れた。
「……何のことですかな」
「認定課の内規、第二編第九条。教区より事前の届出があった候補者は、認定課の候補者名簿に登載されます。届出をなさっていないのなら、していないとお答えください」
「答える義務は」
「ございません。ですが、していないというお答えは、二日後に本庁の回答で確かめられます。お答えと回答が食い違った場合、食い違ったこと自体が記録になります」
葡萄棚の葉が、窓の外で鳴っていた。
「……監査官どの」
ドナシアンは、組んだ手をほどいた。
「あなたは、あの子を守りに来たのですか。それとも、あの子を潰しに来たのですか」
「検めに来ました」
「同じことです。検めれば、あの子の奇跡は割れる。割れれば信徒は離れる。離れれば、あの子は」
彼はそこで言葉を切った。切ったところが、この人の本音の場所である。
「……あの子は、行き場がなくなる」
「行き場のことは、判定とは別の科目です」
「別にできると思っておられるのが、王都の様式なのですよ」
その言い方には、芝居がなかった。
この人は、本気で自分が保護者だと思っている。搾取している人間が、搾取していると思っていないのは、王都でも何度か見た。だが「守っている」と思い込んでいる相手は、初めてだった。
ドナシアンは、しばらく窓を見ていた。それから、笑みを戻した。
「では、こういたしましょう」
「と、おっしゃいますと」
「本物どうしで、較べましょう。あなたがたの聖人と、うちの生き神と」
私は聞き返さなかった。聞き返すと、乗ったことになる。
「信徒の前で、同じ日、同じ場所で。どちらがどれだけ治すか。……信徒が決めます。それが一番、公平でしょう」
「教会の認定は、信徒の多数決ではありません」
「認定の話はしておりません。行事の話です」
ドナシアンは立ち上がり、扉を開けた。
「お受けにならぬのなら、それも結構。ただ、その場合は谷じゅうに触れが回りますな。――王都の監査官は、較べから逃げた、と」
私は司教館を出た。
門を出たところで、テッサが待っていた。石段に座って、膝の上で写しを整えている。
「カサンドラ様。……あの人、あの子のこと、守ってるつもりなんですね」
「ええ」
「わたしのときの座元は、そんなこと言いませんでした。飯を食わせてやってる、って言ってました」
「どちらが質が悪いと思いますか」
「……守ってるつもりのほうです」
テッサは、写しの端を揃えた。
「飯を食わせてやってる人は、こっちが逃げたら追いかけてきません。損だからです。守ってるつもりの人は、追いかけてきます。……いいことだと思ってるので」
私は、その一行も書いた。この子の証言は、いつも判定に載る形をしている。載る形をしているのに、この子はそれを証言だと思っていない。
坂の途中で、ルカ様が待っていた。
「監査官どの。お顔が、いつもより一分ほど硬いです」
「較べを持ちかけられました」
「治癒比べ(こうぎょう)ですね」
「ご存じでしたか」
「三度、やらされました。認定されて、最初の年に」
聖人は、坂の下の広場を見た。列は、今日も二周していた。
「――受けましょう」
監査官の私的控え——本日の決算。内規、第二編第九条(読み上げにより取得)。照会、一件(回答期限七日)。挑戦、一件(受諾は次話にて)。
記録係どのは、私を止めるお役目のまま、壁の抜け穴を読み上げてくださいました。規程を守るとは、こういうことなのだそうです。……次話、較べの条件を詰めます。




