第37話:生き神様
サン=ヴレーの司教館は、谷を見下ろす高台にあった。石造りの三階。手入れの行き届いた葡萄棚。玄関の敷石は新しく、目地の漆喰も白い。
教区の会計は、少なくとも建物の外側には十分な金を回している。
司教代理のドナシアンは、私たちを応接室で迎えた。五十がらみの、恰幅のいい人だった。手を組み、微笑む。声は低く、ゆっくりしている。
「王都から、遠いところを。……巡回状、拝見いたしました」
「恐れ入ります」
「第一巡礼区のこと、聞き及んでおります。徴収の判定、見事なものでしたな。ああいう小役人は、どこの教区にもおる。掃除してくださって助かります」
褒めから入る相手は、たいてい線を引きに来ている。私は待った。
「して、当教区で検めたいものは」
「聖女認定に関わる記録の一切です。認定の申請、審査、興行の収支、献納の記帳」
「認定の申請は、まだ出しておりません」
「まだ、とおっしゃいますと」
「あの子は、認定されておらんのですよ」
ドナシアンは、窓のほうへ手を向けた。谷が見える。祭りの幟が、まだ片付けられていない。
「認定されておらん者は、聖女ではない。聖女でない者の記録は、聖女認定の記録ではない。……監査官どの、あなたの巡回状が許すのは、聖務に関わる記録の閲覧です。あの子は聖務ではありません。教区の、行事です」
筋は通っている。腹の立つほど通っている。
「では、行事の収支は」
「教区会計に含まれます。教区会計は、教区裁治権のうちです」
「大司教区の受納簿と照合する必要があります」
「照合は、大司教区がなさればよろしい」
ドナシアンは、茶を勧めた。私は受け取らなかった。受け取ると滞在が長くなる。
「王都の様式は、王都でお使いなさい」
彼は、はじめて笑わずに言った。
「ここでは、あの子が神です。信徒がそう決めた。……私は、あの子を保護しているのですよ」
教区の様式が違うということを、私は頭では知っていた。知っていることと、扉が閉まる音を聞くことは、別である。
司教館を出て、私たちは谷へ下りた。祭りの翌日の村は、静かだった。花の残骸が道に散り、幟の竿だけが立っている。
広場に、白木の小屋が建っていた。囲いがあり、番人が二人。囲いの外に、人が並んでいた。列は、広場を二周している。
「……ずいぶん、待っておられますね」
ルカ様が言った。列の中に、担架が三つ見えた。
「札を配ってます」
テッサが指した。番人が、並んだ者に木札を渡している。
「あれ、興行のやり方です。札を先に配って、その日の人数を決めるんです。……札には数が書いてあります。数の若い札は、朝いちばんに並んだ人。だから、みんな夜から並ぶんです」
「札に、値は」
「見えません。……でも、あの、たぶん」
テッサは、少し迷ってから言った。
「札を配る人が、途中で二回、列を飛ばしました。飛ばされたところに、いい服の人がいました」
私は書いた。実見、札の配布、飛ばし二件。
小屋の戸が開いたのは、昼過ぎだった。中から、白い衣の子供が出てきた。昨日、神輿の上にいた子である。
近くで見ると、痩せているのが分かった。十二か、十三。髪は短く切られ、額に金の輪をつけている。輪は、頭の大きさに合っていない。あれは大人の寸法だ。
子供は、囲いの内側に置かれた台の上に座った。番人が、札の一番を呼ぶ。担架が運ばれてくる。
子供は、その人の額に手を当てた。目を閉じ、数を数えるように口を動かす。それから手を離す。運ばれてきた人は、起き上がらなかった。
だが、周りの家族が泣いた。泣いて、礼を言って、抱えて帰っていった。
「……治っていませんね」
私は言った。
「はい」ルカ様の声は静かだった。「治っていません。……ですが監査官どの、あの子は、何もしていないわけでもありません」
「と、いいますと」
「手の置き方が、教わったものではありません。あれは、自分で覚えた置き方です。……痛いところの、少し外に置いている。痛いところに触れると、痛いので」
私は聖人を見た。
「ルカ様。それは、どういう意味ですか」
「分かりません」
聖人は、自分の掌を見た。
「ただ、あの置き方を、私も十歳の頃にしておりました。誰にも教わらずに」
子供は、七人に手を当てて、小屋へ戻った。戸が閉まった。列は解散しなかった。明日の札を待つ列に、そのまま組み替わった。
帰っていく担架の一つに、私は追いついた。運んでいたのは、四十くらいの男と、その息子らしい若者だった。荷台に寝ているのは、痩せた老女である。
「失礼します。当局の者です。今日のことを、少し伺えますか」
「……治らなかったのを、調べに来なすったんで」
「治ったかどうかを、まず伺いたい」
「治っておりません」
男は、まっすぐそう言った。
「三度目です。三度とも、治っておりません」
「では、なぜ」
「母が、行きたがるので」
男は荷台のほうを見た。
「あの子に手を当ててもらった日は、母がよく眠るんです。……効いてるんじゃない。そう思っとります。ただ、待っとる列で、皆が同じ話をするでしょう。誰それの膝が、誰それの咳が、と。あれを聞いて帰る日は、母が笑うんですよ」
私は書かなかった。書く前に、聞き終えるべきだと思った。
「監査官様。あの子を、悪く言わんでやってください」
「言いません」
「あの子だって、たぶん、」男は言葉を探した。「……たぶん、帰りたいでしょうから」
荷車は、坂を下りていった。私は帳面を開き、実見の欄に一行だけ足した。信徒は、治らないことを知っている。知ったうえで来ている。
この案件で剥がすべきものは、信徒の心ではない。心に値札を付けた者のほうである。
広場を出る前に、私は教区の外側を数えた。新しい敷石。白い漆喰。三年ものの葡萄棚が、谷の斜面に六段。祭りの幟は絹で、竿は削り出しの新品だった。
「テッサ。この教区の身代は、どのくらいに見えますか」
「……お祭りの幟だけで、金貨十枚は超えてます。絹なので」
「ええ。私も同じ見立てです」
「でも、あの子の小屋、板です」
それが、この教区の決算だった。
私は囲いの前まで行き、番人に名乗った。
「監査官の任にあります。中の方に、一つだけ伺いたい」
「生き神様は、お話しになりません」
「話せないのですか」
「話さないのです。……喋ると、御利益が減りますので」
番人は、悪びれずにそう言った。教わったことを、そのまま言っている顔だった。
その晩、村の宿で、私は帳面に三行だけ書いた。
一、認定されていない。ゆえに聖女ではない。ゆえに記録がない。
二、記録がないので、検分の入口がない。
三、だが、七人の額に手を当てた事実は、今日、私が見た。
見たものは、記録にできる。入口がないなら、入口を作るところから始めるしかない。
監査官の私的控え——本日の決算。閲覧請求、全面拒否(教区裁治権)。実見、札の配布と施術七件。治癒、確認できず。
生き神様は、お話しにならないそうです。話すと御利益が減るとのことでした。……次話、規程の抜け穴を探します。教区の壁は、規程でできております。




