第32話:規程では、
随行の記録係は、出立の刻限より四半刻早く来ていた。鼠色の外套に、革の書字板。荷は一つ。中身は規程集の写しと、白紙と、墨壺だけだと本人が申告した。
年は二十八。本庁認定課、記録係。名を、ヴァレリーといった。
「監査官どの。私は、あなたを止める役として同行しております」
挨拶がそれだった。私は好感を持った。
「隠さないのですね」
「隠す規程がございませんので。……止めなければ、私が罰されます。ですから止めます。止めたことは、そのつど本庁へ報告いたします」
「報告の写しを、こちらにもいただけますか」
「規程では、写しの交付は請求があれば拒めません」ヴァレリーは書字板を開いた。「請求は、書面で」
私は書いた。彼女は受け取り、受理の日付を入れて、控えを私に渡した。仕事のできる相手である。困ったことに。
馬車は四人と、御者一人。私とテッサが後ろ向き、ルカ様とヴァレリーが前向きに座った。荷は屋根の上である。
半刻ほど、誰も喋らなかった。沈黙を破ったのはテッサだった。
「あの。ヴァレリー様は、字がお上手ですね」
「規程では、記録係の筆跡は判読できることが要件です。上手であることは要件ではございません」
「……はい」
「褒めていただいたことには、礼を申します。ありがとうございます」
テッサが、ちいさく息を吐いた。この子は、褒められると疑う癖がある。だが、褒めて返されるとどうしていいか分からない癖もあるらしい。
ルカ様が笑いをこらえていた。こらえきれていなかった。
私は膝の上で手帳を開き、七つの符牒に指を置いた。
「ルカ様。今日から検めるのは、大司教区の受納簿です」
「猊下の、お金の帳簿ですね」
「ええ。商会の裏帳簿と突き合わせたときに、三年分は合いました。合ったところは合っています。合わなかったのが七箇所」
「合わない、とは」
「番号が飛んでいます。第百三十六の次が、第百三十八になっている。帳簿の番号は、書き損じでも飛びません。飛ばすには、抜くしかない」
私は指を七つ、順に動かした。
「この七箇所を、当局は判定に載せませんでした。載せれば商会の解散が遅れたからです。局長は、喉元に届く刀は寝かせろ、と」
「……寝かせた刀を、今日から」
「研ぎます。ただし、正直に申しますと、研げるかどうかは分かりません」
ルカ様が、こちらを見た。
「猊下は、帳簿を書いた人ではありません。書かせた人です。書かせた人の名は、帳簿に出てまいりません。……あの方を記録で裁けるのか。私は、それをまだ検算できておりません」
答えは返ってこなかった。前の座席で、書字板の筆が一度だけ止まった。
王都を出て、街道を南へ半日。第一巡礼区の入口に、宿場がある。巡礼路の九つの宿駅のうち、王都に最も近い一つだ。商会の検分で名前だけは通っている。
宿場は混んでいた。
巡礼の季節である。荷を背負った参詣者が列を作り、帳場の前で銅貨を出していた。
列の途中に、老いた夫婦がいた。妻のほうが、包みから硬貨を数えて出す。夫が「もう少し」と言い、妻が首を振る。それを三度繰り返してから、二人は銅貨を六枚置いた。
「お志、六枚。……ありがたく」
帳場の男が記帳する。夫婦は深く頭を下げ、額に手を当てて祈った。私は、その祈りを最後まで見た。
この人たちの銅貨六枚は、本物である。本物でないのは、六枚がこのあとどこへ行くかだけだ。それを取り違えると、監査は信心を検める仕事になってしまう。私の仕事はそうではない。
宿場の帳場には、受納簿があった。参詣者が路銀の一部を「お志」として納め、教区が受け取る。その記帳簿である。私の手帳には、この簿冊に関わる符牒が七つ書いてある。
大司教区受納簿の、欠番・差し替え七箇所。
商会の裏帳簿と照合したとき、判定に載せられなかったものだ。載せれば商会の解散が遅れる、と局長は言った。喉元に届く刀は寝かせる、とも。寝かせた刀を、今日から研ぐ。
「第一巡礼区、三年前の秋分から冬至まで。閲覧を請求します」
帳場の男が奥へ引っ込み、簿冊を抱えて戻ってきた。私が頁を繰るより早く、隣で書字板の音がした。
「規程では、その簿冊は本庁の管轄です」
ヴァレリーだった。
「巡回状の許す閲覧は、教区の帳簿に限られます。受納簿は大司教区の会計に属します。監査官どの、これは越権です」
「越権かどうかを決めるのは、閲覧の後です」
「越権かどうかを決めるのは、閲覧の前でございます。後では、開いた事実が残ります」
正しい。この人は正しいことしか言わない。私は簿冊から手を離した。離した上で、帳場の男に訊いた。
「では、宿場の受取控えは。宿が『納めた』側の控えです。これは宿の帳簿ですね」
「……はあ、ございますが。そんな紙切れでよろしいので」
ヴァレリーの筆が止まった。半拍だけである。
「規程では、」と彼女は言い、そこで言葉を選んだ。「……宿の控えは、宿の帳簿でございます」
「では、閲覧します」
紙切れの束が卓に積まれた。受納簿は本庁が持つ。控えは宿が持つ。同じ金の、二枚の記録である。片方が握られているなら、もう片方を数えればいい。
三年前の秋分から冬至まで。控えの枚数、百十四枚。
私は数え、テッサは束を日付順に並べ替えた。この子は字が読めるようになってもなお、先に形を見る。
「カサンドラ様。……この束、においが違います」
テッサが指したのは、十月の頭の十九枚だった。
「紙が、他と違いますか」
「紙は同じです。でも、これだけ、端の擦れ方が違います。ずっと重ねてあった紙は、真ん中がへこみます。この十九枚は、へこんでません。後から重ねた紙です」
「後から重ねた、とは」
「一度、抜いてあったんだと思います。抜いて、また戻した紙。……戻した人は、順番は合わせました。でも、へこみまでは合わせられません」
私は十九枚を別に取り、写しを作った。金額を合計する。
金貨八十六枚。
手帳を開く。七箇所のうちの一箇所目――第一巡礼区、三年前の十月、欠番。欠けている金額は、金貨八十六枚である。
控えは、欠番の中身を持っていた。
「……ヴァレリーさん」
「はい」
「本庁の受納簿には、この十月の頭の十九件が載っておりません。宿の控えには、あります。どちらが正しいと、規程は言いますか」
「……規程では、」
彼女は書字板を見た。それから、閉じた。
「規程では、受納簿が正本でございます」
「では、この十九枚は何ですか」
「……お答えする立場に、ございません」
嘘はつかない人だ、と私は記録した。答えないが、嘘はつかない。それは、こちらの数え方次第で使える性質である。
宿場を出たのは、日が傾いてからだった。街道は南へ、緩く下っている。荷馬車の轍が乾いて白い。
風向きが変わったのは、次の丘を越えたあたりだった。
「監査官どの」
馬車の窓から、ルカ様が外を見ていた。
「……焦げたにおいがします」
私も嗅いだ。乾いた、紙の焦げるにおいだった。薪でも、藁でもない。あれは、紙が燃えたあとの、雨に打たれたにおいである。
監査官の私的控え——本日の決算。閲覧、二件(うち一件は差し止め)。控え、百十九枚(うち十九枚を別置)。欠番、一箇所目に中身が付きました。
記録係どのは、規程を三度引きました。三度とも正しく、三度目だけ、少し長く考えられました。……次話、焦げたにおいの出どころを検めます。




