第31話:巡回状
受理簿に番号が入ったのは、殉教者台帳を保全してから四日後だった。
受理番号、本年度第五号。検分事項、消えた聖女六十三名の行方。手掛かり、南倉。期限、なし。
番号が付けば、案件は事務になる。事務になれば、様式で動かせる。この職に就いて最初に覚えたことである。
様式で動かせるということは、様式で止められるということでもある。それを覚えたのは、この十九日だった。
「三度目ですのう」
フェリクス翁が、差し戻された書面を窓の光にかざした。
「ほっほ。判の位置が、二分ずれておりますわい」
「二分」
「二分でございます。前回は日付の書き方が『本年度』ではなく『本年』であると。その前は、随行者の欄に馬の頭数がないと」
「馬は随行者ですか」
「先方の様式では、そうなのでしょうなあ」
巡回状――聖務に携わる者が教区の境を越えるための、一枚の紙である。要するに通行許可証だ。
教区には教区の裁治権があり、王都の様式は境の外まで届かない。監査官が紙なしで境を越えれば、それは監査ではなく越権になる。そして紙を出すのは、本庁認定課である。
私は差し戻しの三通を卓に並べ、受理の日と返却の日、そして理由を書き写した。
「カサンドラ様。それ、何になさるんですか」
「記録です。三度断られた事実は、断った側の記録になります」
「……断った人の、記録?」
「ええ。稼いだ日数と、理由の変わり方が残ります。理由が毎回変わるのは、理由が本当ではない徴です。同じ理由で三度断る役所は、ただ厳しいだけですが、違う理由で三度断る役所は、断ること自体が目的です」
テッサが写しの二枚目を引き受けた。書記見習いの俸給は、こういう日のために払われている。
字はまだ滲む。滲むが、日付だけは正確に写す。この子の目は、いつも数字から先に落ちる。
紙を待つ十九日を、遊ばせておく理由もなかった。
ルカ様の治癒名簿には、閲覧を封鎖された十二名分がある。ひと月以上、私は手を付けていない。名は伏せられていたが、封鎖の紙の下に、書き損じの一行が透けていた。
――王都近郊、織工、モーリス。
翌朝、私は西の織工町へ行った。ルカ様とテッサを連れて、である。
工房は動いていた。機の音が四台分。だが親方の顔は、名を出したとたんに曇った。
「モーリスなら、去年の秋に。……療養に、と」
「どちらへ」
「南だと聞いております。教会の方が三人来られて、馬車が一台。荷は、本人と、寝台がひとつ」
「寝台」私は繰り返した。「病人を、寝台ごと運んだのですか」
「はあ。……ですが監査官様、あいつは治ったんですよ。白のルカ様に治していただいて、それから三年、うちで機を織っておりました。療養も何も、あれほど達者な男は町に――」
言葉が、途中で止まった。親方は、自分の言ったことの形に気づいたのだ。治った人間が、寝台ごと南へ運ばれた。
私は帳面を開いた。
「工房の記録に、その日の日付はありますか」
「賃金の帳面になら。……ああ、ございました。給金の締めを、その日だけ半端で切っております」
「見せてください。写します」
「あの、監査官様。あいつは、無事なんでしょうか」
「分かりません」私は言った。「分からないので、検めに行きます」
半端で切られた締めの日付は、私の手帳の別の頁に並ぶ日付と、ひと月と違わなかった。
殉教者台帳の「便」の行――十四、十一、九、八、六年前。そこに、去年の秋が加わる。
工房を出ると、機の音が背中で続いていた。
「……止まっていませんね」
ルカ様が、静かに言った。
「六十年前から去年まで、途切れていない。監査官どの。これは、終わった帳簿ではありません」
「ええ。過去の検分だと思っておりました。訂正します。これは、進行中の帳簿です」
聖人は自分の掌を見た。三年前、その手がモーリスという男を治した。治したことが、その男を荷にした。
言うべき言葉を探して、私は探すのをやめた。慰めは私の職掌ではない。
「ルカ様。あなたの名簿の十二名は、私が数えます」
「はい」
「一名ずつ、名前で数えます。十二名分、とは数えません」
「……お願いします」
その夜、私は姉の頁の備考を、また思い返していた。
――『本物。取扱注意』。
取扱注意。取り扱う、という語は、物にも使う。だが荷札に書く語である以上、書いた者は中身を運ぶつもりでいた。
そしてあの台帳は、最後の行に日付と朱の判を押しはするが、どこにも「死」とは書いていない。回収済、としか書いていない。
私は監査官である。書いていないものを読まない。書いていないものを、勝手に埋めない。だから、埋めなかった。埋めずに、南へ持って行くことにした。
十九日目は、荷造りに使った。
巡回の荷は、思うほど多くない。監査の道具は、机の上に載る分で足りる。監査手帳。携行天秤。封蝋刀と、白・灰・赤の蝋。目録用の白紙を三束。写しを取るための炭筆。
黒の蝋は、局の錠のかかる棚に置いていくことにした。あれは局長の判と一緒でなければ打てない色である。二百年で一度しか使われていない色を、馬車に積んで揺らして回るものではない。
「カサンドラ様、灰は要りますか。南って、悪いことしか無さそうですけど」
「灰こそ要ります」私は蝋を並べ直した。「赤しか持たない監査官は、赤しか打たなくなります。軽い過ちに重い判を打てば、次から誰も帳面を見せてくれません」
「……はい」
「それに、灰を打つ相手は、たいてい怖がっているだけの人です。怖がっている人からしか出てこない話が、いちばん多い」
テッサは天秤を布で二重に包み、包んだ上から自分の名を書いた。滲んだ。滲んだまま、置いた。
フェリクス翁は、留守番である。写本の監督がある。
「ほっほ。土産は要りませんぞ。……そのかわり監査官どの、宿場ごとに一枚、日付だけ書いて送ってくださらんか」
「日付だけ、ですか」
「日付だけで結構。届かなくなった日が、何かがあった日でございます」
老書記は、五十年ぶん写してきた手で、私の荷の紐を結び直した。
巡回状が下りたのは、二十日目の朝だった。
紙は正しかった。判の位置も、日付の書き方も、馬の頭数も正しかった。ただ、末尾に一行、私の書いた覚えのない条項が足されていた。
『本巡回には、本庁認定課より記録係一名を随行させるものとする』
局長は、その一行を三度読んでから、老眼鏡を外した。
「監査官。お前さんの荷に、目が一つ増えたな」
「監視でしょうか」
「監視だ。名目は記録の正確を期すため、実際は、お前さんがどこを開けたかを本庁が知るためだ」
「断れますか」
「断れば、紙がまた二十日戻る。……それに、悪い報せばかりでもない」
局長は覚書に判を押し、こちらへ滑らせた。
「連中は、見張る者にも紙を持たせる。持たせた紙は、こちらからも読める。目が一つ増えるということは、帳面が一冊増えるということだ」
「……局長。それは、慰めですか」
「実務だ」老人は肩をすくめた。「行きなさい。焼ける前に」
監査官の私的控え——本日の決算。受理、第五号(番号付与)。差し戻し、三通(保存)。巡回状、一通(条項一行つき)。
織工が一人、寝台ごと南へ運ばれておりました。去年の秋のことです。……次話、その荷の通った道を、宿場から順に検めます。




