第30話:殉教者台帳
保全の検分は、五日かけて本館を上から下へ降りた。
部屋ごとに目録を作り、封緘紙を貼っていく。地味な作業である。監査の九割は、この地味でできている。
三日目あたりから、ルカ様が目録の読み合わせを覚え、四日目にはフェリクス翁と息が合い始めた。聖人の職歴に「保全検分」の一行が加わっていく。認定から十年、誰も書かなかった行である。
「監査官どの。私は少し、楽しいです」
「保全検分が、ですか」
「数えて、書いて、貼る。……終わりのある仕事というのは、いいものですね。治癒には、終わりがないので」
終わりのない仕事をしている人の言葉として、記録した。
最終日が、地下の聖遺物庫だった。
商会が聖具の卸のために設えた石室で、棚には聖像、燭台、遺物匣が並ぶ。売り物の聖性は、埃を被っても値札が付いたままだった。
目録の筆が最後の棚に届いたとき、テッサが足を止めた。
「カサンドラ様。この棚……奥行きが、変です」
「変、とは」
「外の廊下から測った壁より、この棚の奥、二尺短いです。わたし、興行のとき一度ここに来て、変なにおいって思って。……今日、分かりました。壁のにおいじゃなくて、閉めた紙のにおいです」
棚板を外すと、石壁に切れ目があった。漆喰で色を合わせた、小さな扉。
錠はなかった。錠を付ければ、扉があると白状するからだろう。
中には、油紙の包みが一つ。
包みを解くと――黒革の背の、大判の台帳が出てきた。厚み二寸、高さ一尺二寸。蔵の空隙と、同じ寸法である。
表紙に、箔の剥げた文字。
『殉教者台帳』
ギヨーム・ファーブルの箱の写しが、断簡三割で伝えたものの、原本だった。
石室の卓に置き、総員の立ち会いで開いた。
一枚目は、凡例だった。事務の手による、乾いた箇条書き。その三行目で、私の目は止まった。
『本帳において「昇天」とは、回収の完了を謂う』
……この帳簿の中でだけ、昇天は、昇天と読む。
教会が二百年、祭壇の上で使ってきた言葉の、帳簿側の定義が、そこに書いてあった。
頁を繰る。
名前。認定の日付。興行地の列。献納の累計。そして最後の行に、日付と、朱の判。
『回収済』
写しでは掠れて読めなかった符号の、これが正体だった。
アニェス。回収済。
マルグリット。回収済。
名は、続く。知らない名が、続く。最も古い日付は、六十年前。
コレット・ファーブル。回収済。六年前。備考の欄に、小さく『南倉経由』。
頁を、繰る。
セラフィナ。
姉の名は、そこにあった。
認定、十二年前。興行地の列は、王都から始まって七行。献納の累計、金貨一万四千枚。教会史上、聖女一人の献納額として、おそらく最大である。
最後の行。八年前の日付。朱の判。
『回収済』
そして備考の欄に、一行。
『本物。取扱注意』
手が、頁の上で止まっていた。
帳簿の前で手が止まったのは、監査官になって、初めてだった。
昇天ではなかった。病でも、事故でもなかった。姉は――回収された。金貨一万四千枚を献納し終えた本物の聖女は、この台帳の一行に、取扱注意の備考つきで、綴じられていた。
取扱注意。大司教区の執務室で、猊下が口にした言葉である。あの方は、この備考を読んだことがある。……あるいは、書かせたことが。
懐から、姉の手帳を出した。台帳の隣に、置いてみる。
教会の帳簿の中の姉は、認定と、興行と、献納の数字でできていた。手帳の中の姉は、旅先の花の名と、妹への言付けと、だんだん細くなっていく字でできていた。
同じ人が、二冊に分かれて綴じられている。どちらが本物かは、検分するまでもない。……だが、どちらも記録である。記録は、両方読む。それが私の職掌である。
テッサが、袖をぎゅっと掴んだ。振り払わなかった。ルカ様が隣に立った。何も言わなかった。何も言わないでいてくれる人の値打ちを、私はこの石室で覚えた。
懐の手帳に、指で触れる。
……姉さん。見つけました。あなたの頁を。ここからは、私の検分です。
沈黙を破ったのは、局長だった。
「カサンドラ。規程集の、封蝋の頁を開きなさい」
私は開いた。白、灰、赤。そして最後に、用途の記載のない色が一つ。
「黒はな」と、老局長は言った。「開祖が定めて、二百年、一度も使われなかった色だ。規程の原文は、開祖の検算録の側に書いてある。写本の折に、わしも初めて読んだ。――『黒は、教会おのれの罪に、これを用う』」
教会自身の罪に打つ色。
使う日が来ないことを願って定められ、二百年、来なかった日が、来た。
私は封蝋を火で溶かした。黒が、燭台の光を吸って、艶のない色で落ちる。
殉教者台帳の表紙に、当局の印で封を打った。
「聖務監査局、保全。……受理します。この帳簿の検算を。名の一つずつ、行の一つずつ。判定が出るまで、何年かかっても」
名は、その晩のうちに数えた。数えられるものは、数えてしまう主義である。
六十三名。
六十三人の聖女が、二百年ではなく、この六十年の間に、回収されていた。
局に戻った翌日、部の後始末を三件、片付けた。
一件目。テッサ。
局長が、俸給の帳面を開いた。
「テッサ。助手改め、書記見習いとする。俸給、月に銀貨十枚。……検分人の初仕事の分は、別途だ」
「……ふぇ」
「返事は『はい』です」
「は、はいっ……」
泣き出したので、俸給の受領欄がしばらく書けなかった。
「泣かないでください。署名が滲みます」
「だ、だって……わたし、偽聖女で、それで、それで……」
「過去の科目は締めました。あなたはいま、王都でただ一人の、筆跡検分のできる書記見習いです」
練習中の字で書かれた署名は、それでも滲んだ。……修正は、しないでおく。
二件目。南からの便り。
ギヨーム・ファーブルの、定規のような字だった。
『巡回は順調だ。南部の教区は、記録がよく燃える。倉も、よく燃えると聞く。――急げ』
南倉。台帳の備考と、同じ方角である。回収された聖女たちの「その先」は、南にある。そして、燃やされ始めている。
三件目。ルカ様の監査綴りの、整理。
第四号の決着で綴りを繰り直していて、私は一つの空白に気づいた。
「ルカ様。あなたの認定前の記録は、孤児院の名簿一枚だけですね」
「ええ。私は拾い子ですので」
「名簿の前が、白紙です。十歳より前のあなたが、どの帳簿にもいない」
聖人は、自分の掌を見た。それから、いつもの調子で訊いた。
「今日の私は、何点でしたか」
「保留。……ですが、検分事項が一つ増えました。あなたの、十歳より前です」
「――楽しみにしています」聖人は、静かに笑った。「私も、知らないので」
知らない、と言うときの聖人の目は、空っぽではなかった。空っぽの目は、この数月で、検分待ちの目に変わっていた。それがこの受理番号第二号の、現時点での最大の進展である。判定書には書かない。
夜、私は受理簿の新しい頁に、次の検分事項を登記した。
受理――検分事項、消えた聖女六十三名の行方。手掛かり、南倉。
期限、なし。判定まで、何年でも。
登記の下に、もう一行だけ書き足した。
――本件、南方巡回を要す。教区の境を越えるには、本庁認定課の紙が要る。
窓の外で、大聖堂の鐘が鳴った。
疑いは、信仰の作法である。検めよ。しかる後に、信ぜよ。
……検めに行きます、姉さん。南へ。
監査官の私的控え——本日の決算。台帳、一冊(黒・保全済)。名、六十三。姉の頁、発見。書記見習い、一名(署名は滲み)。
監査局は、巡回の荷を作ります。行先は、南。……回収されたものは、取り返しに行くのが帳尻です。
ただし荷より先に、紙が要るそうです。




