第29話:出資者の目
会頭室の聴取は、取引にならなかった。当局が取引を扱わないからである。
「保険の一冊を渡す相手は、選ばせてもらう。……そう申しましたがな、監査官どの。あなた、値を訊きもしませんな」
「当局の帳簿に、保険という科目がありませんので。あるのは、証拠品という科目だけです」
「つれないことでしてな」マルセランは笑い、それから笑いを仕舞った。「では、値の要らん話を一つだけ。――猊下はな、儲けを愛しちゃおられません」
商人は、指で机を三度叩いた。
「三十年、あの筋と商いをして、分かったことです。あの人が愛しとるのは『管理』でしてな。金は、管理の道具にすぎん。……儲けを愛する男は、私のように太って、私のように沈む。管理を愛する男は、太らんのですよ。だから、沈まん」
「ご高説として記録します」
「そうなさい。……ああ、それと監査官どの。黒い一冊をお探しなら、急ぎなされ。あれは商いの帳簿ではない。――管理の帳簿でしてな」
「会頭。その一冊を、なぜあなたが預かることになったのですか」
「預かった、とは言うておりませんぞ」商人は、初めて言葉を選ぶ間を取った。「……ただ、こうは言えますな。荷を運ぶ者は、荷札を書く者より、荷の中身に詳しくなる。詳しくなりすぎた運び屋は、口止めに、帳簿を一冊持たされる。持たされた帳簿は、鎖でしてな。逃げれば追われ、持てば沈む。……三十年商いをして、最後に手元に残ったのが鎖一本とは、笑える決算ですよ」
笑える、と言った顔は、笑っていなかった。
値の要らない話ほど、高くつく。この日の聴取の、それが総額だった。
照合は、翌日に行った。
相手は、大司教区の受納簿である。依頼状の付帯条項――『当区の受納記録の閲覧を認める』。あの餌の、身の部分だ。
大司教区の書記官立ち会いのもと、裏帳簿の「献納」の列と、受納簿の入金の列を突き合わせる。
一致した。
日付、金額、三年分。宿駅の献金、施療院の志納、興行の上がり。巻貝の蔵から出た金は、行ごとに、大司教区の受納簿に着地していた。三年の合計、金貨一万一千枚余。
フォンス村の四百枚に始まった検分が、河口の実測を終えた瞬間である。
「……綺麗に、開示なさるものですのう」フェリクス翁が、突合の筆を置いた。「こっちが恐ろしいですわい」
「ええ。この開示は、白状ではありません。……切り捨ての、儀式です」
商会に繋がる行だけが、綺麗に読める。それ以外の頁は――若い。
差し替えの手際は、クレシーの認定台帳より丁寧だった。だが、テッサの指はもう誤魔化せない。受納簿の欠番と差し替え、合わせて七箇所。私はそれを、判定には載せず、手帳に載せた。載せる台帳を選ぶのも、監査のうちである。
判定は、三日後の朝、商会本館の大扉の前で読み上げた。
群衆が集まっていた。寄進者の集いの噂と、立入検分の噂が、王都の耳を育てていた。
「受理番号、本年度第四号。検分事項、サンクタ巡礼商会の聖務関与。
検分の結果。一、御光の紋を用いた献金の徴収において、受納記録を偽装。二、施療院との提携において、規程外の資金移動。三、聖人の名の無断商用。四、裏帳簿により、実収の隠匿と教会への献納の還流を確認。
――判定。当該商会の聖務関与は、全面的に不実。教会法に基づき、教会に関わる一切の営業権を剥奪。商会は、清算に入る」
封蝋は、赤。
扉の高さに、封緘紙を貼る。バルナバの教会の扉から始まった様式が、王国最大の商会の大扉で、同じ手順で終わる。群衆のどよめきが、あの日の村より三回り大きかった。それだけである。手順は、変わらない。
人垣の前の方に、腰の曲がった老婆がいた。第三の訴え人である。封緘紙を長いこと見上げて、それから、深々と頭を下げた。誰に、というのでもなく。……あるいは、四十年の道に。
テッサが、私の横で小さく息を吐いた。
「御堂の錠、外れるでしょうか」
「判定書に、原状回復を明記しました。井戸の札も、です」
「……よかった。あのおばあさん、来年、行けますね」
来年、という言葉を、私は少しだけ検分した。巡礼路の来年を疑わずに口にできる者が、この判定の、いちばん正確な決算書である。
午後、大司教区に呼ばれた。
執務室で、ロタール猊下と差し向かいになるのは、初めてだった。
「見事な検分でした、監査官どの」
猊下は、自ら茶を注いだ。給仕を置かない部屋だった。
「商会は解散。マルセランは追放。巡礼路の宿駅は、教会の直営に戻します。献金は規程通りに、記録は正しく。……巡礼者は、もう法外な『お志』を求められません。あなたの検算の、成果ですよ」
「直営、ですか」
「ええ。管理は、教会の本務ですので」
管理。商人の言った通りの単語が、商人の言った通りの温度で出てきた。
私は理解した。この方は集金装置を失っていない。装置の、古くなった部品を外しただけだ。外す作業に、当局の判定を使った。
……つまり本件の判定書は、正しく、そして、この方の掃除の道具でもあった。両方が同時に真であることを、私は初めて、帳簿の外で覚えた。
「浮かない顔ですね、監査官どの」
「職掌通りの顔です」
「ふふ。……あなたの検算は、実に採算が合う」
茶碗を持つ指が、止まった。
採算。姉に使われた言葉である。この方は、それを知っていて使う。値付けの言葉を、褒め言葉の器に入れて。
「時に、監査官どの」猊下は、茶碗を静かに置いた。「商会の蔵から、興味深いものが出たそうですね。古い運送の記録ですとか」
「保全の目録は、規程に従い本庁へ提出します」
「ええ、ええ。手続きはご立派に。……ただ、老婆心を一つ。古い荷の記録には、時に、故人の名誉に関わるものが混ざります。あなたの姉上のような、惜しい方々の。――取り扱いには、お気をつけなさい」
取扱注意。
その言葉の並びを、私はどこかで見ることになる予感がした。予感は勘定に入れない。だが、記録には入れる。
「ご忠告、記帳しました」と私は言った。「猊下。一点、当方からも報告漏れがございました。ご開示くださった受納簿に、欠番と差し替えが七箇所。当局の次の検分事項として、記帳済みです」
猊下は、微笑んだまま茶を一口含んだ。
微笑の角度が、一度だけ、変わった気がした。気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。どちらでも、記録は同じである。
「……勤勉なことです。ではその検分の日まで、息災で」
息災で。
祝福の形をした言葉が、これほど冷える日のことを、私はこの部屋で覚えた。
監査官の私的控え——本日の決算。判定、一件(赤・扉付き)。照合、一致(金貨一万一千枚余・三年分)。欠番、七箇所(手帳へ)。
商会の財産は、明日から保全検分に入ります。……黒い一冊は、まだ出てきません。




