第28話:裏帳簿
立入は、夜明けの鐘と同時に始めた。
監査局の総員に、本庁の執行吏が四名。商会本館の大扉の前で、私は礼状を読み上げた。様式は、声に出して読むところまでが様式である。
読み上げの間、通りに人垣ができた。寄進者の集いの顛末は、一晩で王都を一周していた。人垣の中に、昨日まで商会の帯を締めていた案内人が何人か、他人の顔で混ざっていた。沈む船からは、鼠より先に、帯が降りる。
「フェリクスさんは目録の記帳を。テッサは私と蔵へ。ルカ様は――」
「重しですね。心得ています」聖人は微笑んだ。「立っているだけの仕事が、こんなに続く聖人も珍しい」
「立ち方が上手いので、指名しています」
マルセランは、自ら蔵の鍵を開けた。
「抵抗はしません。商人は、法の値段を知っておりますでな」
「ご協力に感謝します」
「なに、見物ですよ。……あなたの検分が、どこまで届くのか」
帳簿庫は、本館の地下にあった。石壁に、樫の棚。表帳簿の列は、先日の閲覧で見た顔ぶれである。
検分の要点は、表ではない。
「テッサ。あなたなら、この蔵のどこに『本物』を置きますか」
「……帳場の子は、燃やせるところと、逃がせるところに置きます。竈の近くか、荷の出る口の近く」
荷の出る口――地下の搬出路の脇に、小さな写字室があった。
ゴティエの仕事場である。
机、筆、絵具のような色数のインク壺。棚には年代ごとに漉きの違う白紙の束。紙を古く見せる薬液の甕。書き上げた頁に「季節」を付けるための、火鉢と氷室の桶まであった。
「偽装の工房、ですのう」フェリクス翁が甕の匂いを嗅いだ。「紙を煮て、日に晒して、六年前の紙を今週作る。……五十年写字生をやっとりますが、ここまでの設えは初めて見ますわい」
棚の目録を取りながら、翁は職人の顔で唸った。
「インクが十四色。膠の濃さ違いが、六種。……ゴティエさんや。あんた、元は写本の職人じゃな。それも、大聖堂の工房の」
「……なぜ、そう思う」
「膠の並べ方ですわい。うちの工房の親方と、同じ癖の並べ方をしとる」
ゴティエは、答えなかった。答えないことが、半分の答えだった。
教会の写本工房で腕を磨いた手が、いま、教会の記録を偽る側にいる。腕の来歴まで、この事件は教会の中で完結している。
工房の主は、机の前に座っていた。逃げていなかった。
ゴティエは、私たちを一瞥し、机の抽斗から道具箱を出して、蓋を開けたまま差し出した。
「……道具に、罪はない」
「同意見です。罪は、注文書に付きます」私は受け取った。「注文の元を、伺えますか」
「職人は、注文の中身しか見ない主義だ。……だが」
男はテッサを見た。
「嬢ちゃんには、負けた。負けた相手に、嘘は書かん主義でもある。――蔵の一番奥だ。会頭の他は、俺しか知らん棚がある」
「……よろしいのですか。それを、あなたが言って」
「嬢ちゃんが割った時点で、俺の仕事は終わっとる」男は、道具のない手を膝に置いた。「職人はな、監査官どの。負けた後の嘘を、恥と呼ぶんだ」
蔵の最奥、表帳簿の棚の裏に、壁と同じ色に塗られた小さな棚があった。
そこに――本物の手で書かれた、裏帳簿の綴りが並んでいた。
検分は昼を越えた。中身は、想定の通りで、想定の上だった。
一。献金の実収支。宿駅の献金箱の実収は、提出帳簿の三倍。「維持費」は一割。残りの行き先は、二筋。商会の蓄えと――『王都大司教区 献納』。
裏帳簿の字は、テッサが一目で請け合った。「ゴティエさんの、素の字です。きれいで、正直な字」。偽装の職人は、自分の蔵の帳簿にだけは、嘘を書いていなかった。
二。志納の実態。施療院経由の「特別志納」も、同じ筋で大司教区へ。フォンス村の四百枚も、経路の中継が三つ挟まって、この蔵を通っていた。クレシーの興行の上がりも、同じである。金の川の、河口である。
河口の岸で、フェリクス翁が突合の筆を走らせながら、ぽつりと言った。
「……この川、支流が九本ありますのう。わしらが検分した村と教区は、まだ二本ですわい」
残り七本。偽聖女の興行は、王国のあちこちで、いまも水を流している。部の後始末が、また増えた。
三。そして、運送の記録。
『教会御用 便 一件』
同じ書式の行が、六年前だけではなかった。八年前。九年前。十一年前……最も古い行は、十四年前。
行き先の欄は、どの行も同じ符丁で埋まっている。『南倉』。
六年前の行には、括弧書きが一つ添えてあった。(クレシー発)。
「南倉、というのは」とルカ様。
「商会の帳簿に、その名の倉は登記されていません」私は目録を繰った。「宿駅の綴りにも、船着きの記録にもない。……帳簿の外の倉です」
「帳簿の外」
「はい。この商会が帳簿の外に物を置いた例は、本日、二つ目が見つかります」
一つ目は、いま目の前で、棚の空隙になろうとしていた。
コレット・ファーブル。
それから――八年前の行を、私は長いこと見ていた。八年前。姉の「昇天」の年である。発地の欄は、掠れて読めない。読めないことまで、記録した。
指が、行の上で止まりかけた。止めなかった。検分の途中で止まる指は、検分を曇らせる。懐の手帳には、触れなかった。触れる代わりに、行の写しを取った。写しは、感情より長持ちする。
隣で、ルカ様が黙って燭台を寄せてくれた。手元が、少し明るくなった。それだけのことを、私はたぶん、長く覚えている。
「カサンドラ様」
テッサが、綴りの列の中ほどを指した。
「ここ、一冊ぶん、空いてます」
綴りと綴りの間に、指二本ぶんの空隙。棚板の埃が、そこだけ長方形に拭われている。背の厚い一冊が、ごく最近まで、そこにあった。
埃の縁を測る。厚み、二寸。高さ、一尺二寸。……大判の、台帳の寸法である。
蔵の入口で、見物の声がした。
「おや。お気づきになりましたか」
マルセランは、石段の上から穏やかに言った。商談の顔ですらなかった。強いて言えば、質草を検分する質屋の顔だった。
「会頭。ここにあった一冊の提出を求めます」
「それはできません、監査官どの。あれは商いの品ではございませんでな。――保険、なのですよ」
「保険」
「ええ。船が沈むときに、船主だけが掴む板でしてな。……ときに監査官どの、猊下はお元気ですかな。近頃、私への文が、とんと冷たい」
切られる側は、切られる前に気づく。商人ならなおさらである。
この男は、大司教区に切り捨てられることを勘定に入れて、板を一枚、胸に抱えた。
「一つだけ、いま伺います」と私は言った。「南倉。あの符丁の荷の、受け手は商会ですか」
「……運びは、うち」商人は、短く答えた。「受けは、うちではない。これ以上は、上で。――蔵というものは、壁より耳が良いのでしてな」
「会頭室で、話しましょうかな」と、マルセランは言った。「取引の時間でしてな」
監査官の私的控え——本日の収支。工房、一室(季節の製造装置つき)。裏帳簿、一棚(河口の実測完了)。空白、一冊ぶん(二寸、一尺二寸)。
取引は職掌外です。ですが、聴取は職掌の内。……明日、質屋の板の値段を聞きます。




