第22話:祈りは無料、奇跡は有料
商会本館は、大市場の一等地にあった。
石造り三階建て。扉の上に、金箔の巻貝。廊下は認定課より磨かれていて、行き交う手代たちの目礼は、認定課より温かい。商いの温かさである。温かさも、経費のうちなのだ。
会頭マルセランは、樽のような体格の五十男だった。
「これはこれは、聖務監査局。ようこそ、監査官どの。ようこそ、白のルカ様。祈りは無料です、どうぞご自由に」
大声の似合う体格で、声だけを商談の低さに抑えている。抑え方が、身についていた。
「会頭のマルセランでしてな。ご覧の通りの成り上がりで、家紋の代わりが巻貝です。三十年前、裸足の巡礼者に草鞋を売ったのが始まりでしてな。……ご存じですかな、監査官どの。巡礼者が旅で一番先に費えるのは、信心ではない。靴なのですよ」
「含蓄として記録します」
「はっは。お世辞の通じない方だ。結構、結構。商いも監査も、世辞は経費の無駄でしてな」
自慢話の形をした、身上調書の先読みだった。当局が調べれば分かることを、先に、良い声で語ってしまう。隠し事のない男の芝居は、隠し事のある男の基本である。
「大司教区のご依頼による検分です。帳簿の開示を」
「どうぞどうぞ。当会の帳簿は、御光の下、一点の曇りもなし、でしてな」
言葉通り、表帳簿は即日、閲覧室に山と積まれた。
仕入れ、売上、宿駅の請負料、乗合馬車の運賃。付け合わせを始めて半日、数字は綺麗に流れていく。
閲覧室の隅では、商会の書記が一人、黙々と筆を動かしていた。中年の、無口な男である。手代に訊くと、筆頭書記のゴティエだという。
テッサが、その手元をずっと見ていた。帳面の前のあの子は、良い帳場の手を見ると、目が離せなくなる。
「……上手です。あの人の字、きれい」
「きれいは、褒め言葉ですか」
「半分です」テッサは首を傾げた。「きれいすぎる字って、書いた人のことが、なんにも分からないんです」
……綺麗に流れすぎる川は、上流に堰がある。綺麗すぎる字は、手の癖を消す稽古の跡がある。どちらもまだ、口には出さない。
検分の本題は、刷り物の商品だった。
「特別巡礼枠、というものについて伺います」
「人気商品でしてな」マルセランは胸を張った。「巡礼便の一等席、宿の特等室、それに早朝の便宜。締めて金貨十枚」
「早朝の便宜、とは」
「施療院の受付は、夜明けの鐘から先着順ですな。うちの特等室は施療院の向かい。うちの馬車は夜明け前に着く。……つまりお客様は、必ず列の先頭に立てる。それだけのことでしてな」
それだけのこと、である。
施療院の受付を競売にかけた院監は、灰の封緘を受けた。あれは教会の中の話だ。商会は教会の外から、宿と馬車で同じものを作り直した。
規程に触れる行が、一行もない。触れないように、設計されている。
「見事な商品です」と私は言った。「感心しました、という意味ではありません」
「存じております。監査官どのの感心は、高くつくと聞いておりますでな」
閲覧室の窓から、施療院の門前が見えた。
番台の前で、日に灼けた男が頭を下げ続けている。継ぎの当たった上着。足元に、小さな娘。目の上に、白い布が巻いてある。
検分の帰りに、話を聞いた。南村の農夫だという。娘は名をリゼ。冬の熱病から、目が翳んでいく一方なのだと。
「畑を半分売って、九枚こさえました。けんど、枠は十枚で……並びなら、と思うたら、宿も馬車も、みんな売り切れで」
「売り切れ」
「へえ。巻貝の札のねえ客には、売れねえと。……三月通いました。野宿で並んでも、朝には特等室のお客さんが先に立っとります」
娘のリゼは、話の間、父親の袖を握って立っていた。目の布の下から、こちらの声のする方へ、顔だけを向けて。
テッサが屈んで、目の高さを合わせた。
「……あの、あのね。順番、来ますから。ちゃんと来るように、うちのカサンドラ様が、いま、してますから」
「おねえちゃんは、天使さま?」
「ち、違います。書記見習い……でもなくて、助手です」
助手は立ち上がって、私の袖を強く引いた。何も言わなかった。何も言わないのは、あの子なりの請願書である。受理した。
枠を買えない者には、列に並ぶ手段そのものが売り切れる。
売り切れという言葉の検分が、必要だった。
商会に戻ると、マルセランは変わらぬ笑顔で茶を出した。
「先ほどの農夫ですがな、監査官どの。気の毒とは、私も思う。ですが商いに情けを混ぜると、両方腐るのでしてな。祈りは無料。奇跡は有料。……この線引きだけは、動かせません」
それまで黙っていたルカ様が、口を開いた。
「会頭どの。一つ、数字の訂正を」
聖人の声は、静かだった。審問の日と、同じ静けさだった。
「私の治癒は、一日に十五人です。誰が来ても、どう並んでも、十五人。あなたの枠が売っているのは、私の奇跡ではありません。――他人の順番です」
「聖人様」マルセランは、笑顔のまま一礼した。「良いことを仰る。ですがな、順番こそ、この世で一番古い商品なのですよ。神殿より古い。私が発明したのではない。私は、値札を正直に付けただけでしてな」
「正直な値札」
「ええ。祭壇の献金箱より、よほど正直です。あちらは値札を隠しておられる」
ルカ様は、それ以上言わなかった。言い返せなかったのではない。この男の帳簿が、教会の帳簿と地続きだと、気づいたからである。
私も同じ場所に立っていた。この商会を検めることは、値札を隠している側の祭壇を検めることと、同じ台帳の表と裏なのだ。
「会頭。一点だけ、確認します」と私は言った。「特別巡礼枠の刷り物に、聖人の名と、施療院の名がある。教会の看板を使う商いは――教会法の届く商いです」
マルセランの笑顔が、初めて一分だけ、商談の顔になった。
「……ほう。そこから来ますか、監査官どの」
「提携の覚書を、次の検分で拝見します」
帰りの道で、ルカ様はしばらく黙っていた。口を開いたのは、施療院の門前を過ぎるときだった。並びの列の末尾が、門前から通りの角まで伸びていた。
「監査官どの。あの会頭は、悪人ですか」
「判定前です」
「では、私的な感想を伺っても」
「……悪人の帳簿は、これまで全部、どこかが下手でした」と私は言った。「あの方の帳簿は、上手すぎます。上手すぎる帳簿は、悪事の隠し方まで上手い。判定は、そこを割ってからです」
「割れますか」
「割ります。リゼの目より先に、と言いたいところですが――」
「目の方は、私が担当します」聖人は、静かに言った。「順番の方を、お願いします」
分業が、成立した。奇跡の側と、帳簿の側で。
監査官の私的控え——本日の収支。表帳簿、綺麗(要注意)。商品「他人の順番」、一件。農夫、一名(金貨九枚・目の翳んだ娘)。
看板の又貸しには、貸した側の帳簿が付いてきます。そちらは、当局の庭です。




