第20話:妹の帳尻
ギヨーム・ファーブルは、翌朝、旅装で来た。
黒の外套に、旅嚢一つ。抱えてきたのは、革張りの古い文書箱である。角が擦れ、留め具には審問庁の封蝋が、六年前のまま残っていた。
「沙汰の猶予は、七日では」
「王都に、もう用が無くなる。今日で」
審問官は、箱を机に置いた。
「六年前。南部の司教区で、老司祭の家を押収した。『教会の暗部を記した帳簿を隠し持つ』という、異端の嫌疑だった」
「嫌疑の申立人は」
「秘匿された。……今なら分かる。帳簿の存在を知る者にしか、あの嫌疑は立てられない。私は、隠したい者の手として使われたのだ」
「老司祭は」
「審問の沙汰を待たずに死んだ。……病死と、記録にはある」
記録には。この方も、その言い回しを覚えてしまったらしい。
「押収の目録を作るため、私は一度だけ蓋を開けた。一番上の紙の、表題だけを読んだ」
審問官は、そこで初めて言葉を探した。
「――読んで、閉じた。開けたままにすれば、私は教会を疑わねばならなかった。疑えば、妹の認定書に署名した私の手が、何に署名をしたのかを、勘定せねばならなかった。だから報告書には『帳簿類。異端性、認められず』とだけ書き、箱ごと審問庁の底に沈めた」
「六年間」
「六年間。私は信仰に仕えていたのではない。この箱の、錠前番をしていただけだ」
私は封蝋を検めた。開封の痕、なし。六年前の封のままである。
「開封します。総員、立ち会いを」
局長が頷き、フェリクス翁が記録の筆を執る。ルカ様とテッサが机を挟んで立った。
封を、割った。
中身は、帳簿の写しだった。それも断簡である。綴じ紐は切れ、頁は飛び、全体の三割もない。写した手は急いでいて、ところどころ線が跳ねている。
命がけの写本というものを、私は初めて見た。
最初の頁に、表題が写し取られている。
『殉教者台帳』
「……その名前を」
ベネディクト局長が、低い声で言った。
「わしは一度だけ、聞いたことがある。十二年前、セラフィナの認定に判を押さなかった夜だ。当時の上役が、酔って口を滑らせた。――『判を押せ。どうせ最後は、殉教者台帳に載るだけの娘だ』と」
局長はそれきり黙った。十二年ものの沈黙の蓋が、少しだけ開いた音がした。
頁を繰る。名前と、日付と、金額の列。
アニェス。認定の日付。興行地の列。献納の累計。最後の行に日付と、短い符号。
マルグリット。同じ書式。符号の形は、写しからは読めない。原本の判か印を線で写し取ろうとして、掠れている。
コレット・ファーブル。
その頁は、あった。
認定、十一年前。興行地、クレシー教区。献納の累計、金貨二千枚余。最後の行――昇天の前日の日付と、あの符号。
そして写した者が余白に走り書いた、二文字。
『南へ』
セラフィナの頁は、なかった。断簡は、その手前で飛んでいる。
切れた綴じ紐の先を、私はしばらく見ていた。懐の手帳に、指で触れる。
……姉さん。あなたの頁は、まだ検分中です。
昼、一件目の判定を出した。
フェリクス翁の清書を、私が読み上げる。演説はしない。読むだけである。
「受理番号、本年度第三号。検分事項、聖女コレット・ファーブルの昇天の真贋。
検分の結果。一、昇天の月、当該教区に葬送の経費、一切なし。二、遺族への供養料の受領署名は、偽筆。三、認定台帳の当該頁は、事後に差し替え。四、昇天前日夜半、行先不記載の荷駄一件が、貨物として南方へ中継。五、押収文書の写しに、当該聖女の名と、同日付の記載。
――判定。聖女コレットの昇天は、立証されない。当該の昇天記録は、不実」
判定書に、封蝋を落とした。赤。重大な不正の色である。
「扉には、まだ貼れません。認定課の扉にも、大司教区の扉にも。……ですが、記録には貼れます。記録は、消えませんので」
ギヨーム・ファーブルは、判定書を長いこと見ていた。
「……妹は、死んでいないかもしれない、と」
「そうは申し上げていません。『死の証明が存在しない』と申し上げています。六年前の夜、何かが南へ運ばれた。その先の帳簿を、当局はまだ検めていません。あなたの妹の生死は、検めるまで――保留です」
「保留」
「保留は、いい言葉です」窓辺で、ルカ様が静かに言った。「まだ、嘘だと決まっていない」
審問官は目を閉じた。開いたとき、六年ぶんの何かが、目の縁から消えていた。
泣かなかった。ただ一言、言った。
「……検めてくれて、感謝する」
夕刻、大司教区から速報が回ってきた。
本庁認定課監理官セヴラン、記録管理の不備の責により罷免。後任は追って沙汰。猊下の談話――『教会の自浄は、痛みを伴うものです』。
自浄である。
「早いな」と局長。
「はい。こちらが封緘を打つ前に、扉ごと替えられました」
罷免は、処罰の顔をしている。だが監査の目には、証人の回収に見えた。セヴランは今後、どの記録の前からも消える。残るのは、あの綺麗な机だけだ。
日暮れ前に、二件目の判定を出した。
「受理番号、本年度第二号。検分事項、『白のルカ』の真贋。判定の更新。
一、治癒行為の実在――承認。名簿三百人、施療院の記録、当局の立ち会い検分、いずれも相違なし。『治った』という事実は、本物です。
二、聖性の真贋――保留を継続。実在の説明が、当局の検算では、まだ付きません」
「今日の私は、何点でしたか」
「点は差し上げていません。判定書です」
ルカ様は判定書を受け取り、二度読んだ。それから、余白で目を止めた。
余白には、所見を一行だけ書いてある。判定ではない。監査官の、私的な控えである。
『付記――被監査人の陳述は、受理以来、一貫して誠実であった』
「……監査官どの。この一行は」
「余白です。判定ではありません」
「では、私の物にします」聖人は判定書を丁寧に畳み、胸に仕舞った。「十年間で、いちばん本物らしい認定を頂きました」
審問官が発ったのは、その日の暮れである。
辺境巡回審問。左遷である。だが本人は、沙汰の写しを畳みながら、初めて薄く笑った。
「巡回審問官は、地方のあらゆる記録を検められる。……私を辺境へ捨てた者は、私に何を持たせたか、分かっていない」
「巡回の順路は」
「南から、だ」
箱の走り書きと、同じ方角だった。
私は預かり品の徽章を、布に包んで差し出した。
「お預かりした物の検分は、済みました。銀、聖女の意匠。縁の摩耗は――祈った回数ではなく、確かめようとして触れた回数と、当局は判定します」
審問官は徽章を受け取り、まっすぐ胸に留めた。
「今までは、疑わないために付けていた。これからは、検めるために付ける」
それから彼は、棚の前のテッサを見た。
「台帳の子。達者でな。お前の写す癖が、妹の帳尻を半分、合わせた」
テッサは返事の代わりに、深く、長く、お辞儀をした。
その夜、当局宛の書状が一通届いた。上等な紙。整った、軋まない足取りのような筆跡だった。
『聖務検分の依頼――サンクタ巡礼商会の聖務関与につき、貴局の検分を要請する。 王都大司教区 ロタール』
本丸が、監査を発注してきた。
「餌だな」と局長が言った。
「はい」私は受理簿を開いた。「ですが、餌にも帳簿は付いています」
受理――本年度第四号。
巻貝の印の帳簿へ。南へ運ばれた「便」の、行先へ。
監査官の私的控え——本日の決算。判定二件(不実一・限定承認一)、転出一名、写し一冊(表題は、控えにも書きたくありません)。
次の依頼人は、大司教猊下です。……依頼の動機から、検分を始めます。




