第19話:昇天の経費
王都と南部を結ぶ巡礼路には、宿駅が九つある。
馬を替え、荷を検め、通行の献金を取る。取れば、記帳が残る。夜半にクレシー教区を発った荷馬車も、どこかの帳場は必ず通ったはずだった。
宿駅の台帳の写しは、局長が古い伝手を使って集めた。南寄りの三箇所分が届いたのは、五日後である。
「宿駅の帳場というのは、教会と商人の相場がぶつかる場所でな」と局長。「帳簿は二重、心付けは三重。……読む側からすると、正直で助かる。汚れた帳簿ほど、よく喋る」
「六年前の深夜の記帳が、よく残っていたものです」
「宿駅は十年保存だ。焼けん限りな。……焼けた宿駅も、二つあるがね」
三箇所分が無事だったことは、幸運の側に記帳しておく。
最初の宿駅。昇天前日の深夜の欄に――あった。
『荷馬車一。教会御用。検め、免除』
「検め免除、というのは」
「教会の封印つきの荷は、宿駅では開けられんのだよ」と局長。「聖遺物や献納金を運ぶための定めだ。……荷が何であってもな」
二つ目の宿駅も、同じだった。教会御用。検め、免除。通行献金、支払い済み。
その支払いの記帳の脇に、小さな朱印が捺してあった。天秤でもなく、御光の紋でもない。
巻貝を象った印である。
「サンクタ巡礼商会、です」
テッサが言った。声が少し硬い。
「知っているのですか」
「興行のとき、聖水の瓶、あの印の商会から仕入れてました。巡礼のお宿と、乗合馬車と、お守りの卸と……巡礼路のお金のことは、ぜんぶ、あの巻貝が通ってました」
三つ目の台帳は、その商会の中継所のものだった。正確には、宿駅側に残った控えである。帳場が商会の建物に間借りしているため、写しが宿駅の綴りにも挟まる。
昇天前日、夜半すぎ。
『教会御用、便一件。中継、南へ』
便、である。
台帳の書式には、旅客の欄と貨物の欄がある。この一件は――貨物の欄に、記帳されていた。
六年前の夜、聖女コレットが生きていたか否かを、この紙は教えてくれない。教えてくれるのは二つだけだ。
何かが、貨物として南へ運ばれたこと。
その先の記録は、商会の帳簿の中にしかないこと。
「商会は、教会ではありません」私は言った。「当局の検分権は、及ばない」
「二枚目の壁だな」と局長。「一枚目より厚いぞ。何しろ壁の材質が『民間』だ」
検分に立ち会っていた審問官が、懐から一枚の紙を出した。古い申請書の控えである。
「妹の認定申請書だ。控えを、ずっと持っていた」
後見人の欄に、若い字で署名がある。ギヨーム・ファーブル。いまの定規で引いたような字とは、別人のように伸びやかだった。
「この署名をした日、私は妹に言った。『お前は選ばれた。誇りに思え』と。妹は、笑っていた。……あれが本当に笑っていたのかどうかを、私はもう、確かめられない」
「確かめられないことは、検分できません」と私は言った。「検分できるのは、ここから先の帳簿だけです。……そちらは、当局が担当します」
審問官は控えを、私の机に置いた。証拠品の顔をした、遺品だった。
帰り道、大聖堂の回廊で、足音のしない人に呼び止められた。
「監査官どの。熱心なことです」
大司教ロタール猊下である。夕日の回廊で、供も連れず、穏やかに微笑んでいた。
「クレシー教区の台帳を、木箱で四つも取り寄せたそうですね」
「職掌ですので」
「コレット。……惜しい聖女でした」
勘定より先に、指先が冷えた。
惜しい。姉のときと同じ言葉。同じ抑揚。……在庫の査定と、同じ声。
「猊下。『惜しい』の定義を伺っても」
「言葉のままですよ。早すぎる昇天は、教会の損失です」猊下は少しだけ首を傾げた。「死者の帳簿を検めても、死者は戻りません。生者のために働きなさい、監査官どの。……ああ、貴局の権限の見直しの件でしたら、私から認定課に、悪いようにせぬよう言っておきましょう」
権限。認定課の「適正化」の書状が、この方の袖から出ていることを、いま本人の口から教えられた。
恫喝ではない。値付けである。検分をやめれば、権限は据え置き。続ければ――。
「ご厚意は記帳しておきます」と私は言った。「当局の帳簿は複式ですので、利息も付きます」
「それは楽しみだ」
猊下は声を立てずに笑い、それから去り際に、一度だけ振り向いた。
「監査官どの。一つ、忠告を。帳簿は、過去しか映しません。人は、未来にしか住めない。……過去に住む者から順に、消えていくのですよ。この教会では」
微笑のまま言うので、聞き流せば世間話である。書き留めれば、脅迫だった。
私は、書き留める方を選んだ。
猊下は軋まない足取りで、回廊を去っていった。
局に戻ると、悪い報せが二通、机で待っていた。
一通目。異端審問庁の沙汰である。
審問長ボードワン猊下の名で、ギヨーム・ファーブルに辺境巡回審問への転出命令。事由、公開審問の敗訴の責、ならびに『職分を超えた私的な調査』の咎。出立まで、七日。
「私的な調査、ときたか」局長が鼻で笑った。「うちへの依頼が、もう漏れとる。審問庁の中に、大司教区の耳が生えとるな」
「審問庁と大司教区は、一枚岩ではないのでは」
「一枚岩ではないさ。岩と岩の隙間で、風見鶏が囀っとるだけでな」
「ギヨーム様には」
「本人宛の沙汰だ、もう届いとるさ。……『七日で発て』というのは、七日は泳がせるという意味でもある。監視付きでな」
泳がされているのは、こちらも同じである。認定課の通達が、それを教えてくれた。
二通目。本庁認定課の通達。
クレシー教区の該当年度の台帳一式を、『記録保全』の名目で本庁へ移送する、と。木箱四つは近く回収され、検分の足場は根こそぎ消える。
監理官セヴランの、あの綺麗な机が目に浮かんだ。蓋の上に、また蓋をする型である。
「カサンドラ様」
テッサが、自分の帳面の束を胸に抱えて、おずおずと言った。
「わたし、写して、あります。香油のところと、供養料の署名と、差し替えの頁の写し取りと……全部じゃないですけど、においの変だった行は、全部」
「……いつの間に」
「届いた日の晩です。押収されたことのある帳場の子は、写す癖がつくんです」
テッサの写しは、正確だった。数字の癖、印影の位置、頁の綴じ目の緩みまで、絵のように写し取ってある。
「テッサ。これは当局の正式な検分資料として、受理します」
「……わたしの、が、ですか」
「あなたのが、です。三重保管の型に組み込みます。フェリクスさん、写しの写しを」
テッサは俯いて、耳まで赤くなった。褒めると疑う子が、記録にされると照れるらしい。
押収は、これで二度目である。
だが二度目のこちらには、写しがあり、写す癖のある子がいた。
その晩、ギヨーム・ファーブルから短い書状が届いた。
癖のない、定規で引いたような字だった。
『発つ前に、監査局に預けたい物がある。六年、開けられなかった物だ』
監査官の私的控え——本日の収支。壁、二枚(民間製・官製)。値付け、一件(複式で記帳済み)。転出の沙汰、一名。
六年間開かなかった箱が、明日、うちの机に載ります。




