第18話:故人の尊厳
本庁認定課は、大聖堂の南翼にある。
磨かれた廊下。日当たりの良い執務室。書架は紙で埋まっているのに、部屋は綺麗だった。使い込まれた帳場に必ずある、あの饐えた紙のにおいがしない。
廊下ですれ違う司祭たちは、皆、目礼が綺麗だった。綺麗な目礼は、こちらの顔を覚えないための作法でもある。
監理官セヴランは、五十がらみの、感じの良い事務屋だった。
「これはこれは、監査官どの。先日の審問では、ご立派なことで。開祖の検算録とは、恐れ入りました」
「本日は閲覧請求の件で参りました。聖女コレット・ファーブルの認定記録、ならびに昇天の記録」
「昨日、却下のご返答を差し上げたはずですが」
「却下の理由を、伺いに来ました」
「書面の通りですよ。故人の尊厳のためです」
監理官は、慈悲深い顔を作った。作り慣れた顔だった。
「昇天された聖女様の記録には、ご闘病の様子など、痛ましい記載も含まれます。興味本位の目からお守りするのが、当課の務めでして」
「実兄の閲覧請求も、九度却下されています」
「ご遺族だからこそ、です。お辛いでしょうから」
「では、死亡の記録はどちらに」
「昇天の認定書がございます」
「死亡の診断書は」
「監査官どの」監理官は、聞き分けのない子供を見る目をした。「昇天に、診断は要りません」
「では最後に一つ。閲覧の可否を判断なさったのは、どなたですか」
「当課の職掌において、私が」
「昨日の却下は、請求から三刻で返ってきました。本庁の受付から当課まで、文書の往復だけで二刻かかります」
「当課は、仕事が早いのです」
監理官は、微笑んだまま瞬き一つしなかった。嘘の巧い人は、瞬きで嘘をつかない。
辞去の間際、監理官は世間話の声で言った。
「監査官どの。熱心なのは結構ですが、あまり旧い記録を掘り返しますと、埃で肺を悪くしますよ」
「ご心配なく。埃の検分は、当局の本業ですので」
問答は二十四分で切り上げた。得られた回答、零件。
ただし、収穫が一つ。この方は問答の間、一度も背後の書架を振り返らなかった。守るべき物の在処を、目線で教えない訓練ができている。
……つまり、守っているのである。
帰りの廊下で、テッサが小声で言った。
「あのお部屋、台帳のにおいが、しませんでした。紙はいっぱいあるのに。……使ってない紙のにおいです」
「使っていないのではなく、使わせない紙でしょう」
「それって、帳簿って言うんでしょうか」
「言いません。ああいうのは、蓋と言います」
クレシー教区の台帳は、請求から六日で届いた。木箱が四つ。六年前を挟んだ、前後三年分の会計記録である。
クレシーは王都から南へ馬車で二日。コレットが「治癒の聖女」として務めた教区だ。教区の会計は当局の職掌の内である。認定課の壁の、裏へ回る道だった。
検分は、夜までかかった。ルカ様が謁見明けで写しの読み上げを買って出て、フェリクス翁が突合を取り、テッサが頁をめくった。
ルカ様は数字の読み上げが、存外に上手い。孤児院の帳簿係は伊達ではないらしく、桁を間違えず、声が疲れない。
「意外ですか」
「適材です」
「……褒められました。テッサ、いま私は褒められましたよ」
「ルカ様、手が止まってます」
一つ目。香油と蝋燭。
「昇天の月の、香油の発注……」ルカ様が頁を繰り、繰り直した。「――零本、です」
「葬送には香油が要ります。聖女の葬儀ともなれば、樽で」
「発注どころか、在庫の払い出しもないですのう」とフェリクス翁。
葬いの経費が、どこにもない。
帳簿の上では、あの教区で葬儀は行われていない。
二つ目。献納。
コレットの謁見――治癒の興行の収益は、月ごとに一行、同じ宛先へ流れていた。
『王都大司教区へ 献納』。
フォンス村と同じ書式である。聖女が変わり、教区が変わっても、金の流れの型だけは変わらない。
三つ目。供養料。
昇天の翌月、教区の支出簿に一行。
『ご遺族へ 供養料 金貨三十枚。受領済』。
受領欄の署名――ギヨーム・ファーブル。
「受け取っていない」
立ち会っていた審問官は、写しを一目見て言った。声が一段、硬くなっていた。
「一枚も、だ。それに――これは私の署名ではない」
「テッサ」
「はい」
テッサは署名の写しと、審問官が手帳に書いた署名とを並べて、顔を近づけた。
「……別の人です。癖は真似てますけど、『ブ』の点を、逆の側から打ってます。あと、この人、書き慣れてます。真似なのに線に迷いがないの、逆に変です」
筆跡の偽造。それも、慣れた手による。
三十枚の金貨は、遺族に渡らず、記録の上でだけ「渡った」ことになっている。
「慣れた手、というのが引っかかりますな」とフェリクス翁。「一度きりの偽筆に、慣れは要らんですぞ。……つまりこの手は、余所でも書いとる」
余所でも。他の遺族の、他の受領欄でも。
覚え書きの四つの名が、頭の中で列を作った。
四つ目は、テッサが見つけた。
認定台帳の教区控え。コレットの頁の前で、指が止まる。
「カサンドラ様。この頁、若いです」
「若い、とは」
「紙の厚みと硬さが、前後の頁と違います。この帳面、ぜんぶ同じ年の漉きの紙なのに……この頁だけ、二年か三年、あとの紙です」
頁の差し替え。六年前の記録が、六年前より後に、書き直されている。
何が書き直されたのかは、差し替えた者しか知らない。だが、差し替えたという事実そのものは、紙の厚みが証言する。
検分の合間に、テッサがもう一つ、判定の要らない行を見つけた。
教区の日用の支出簿である。認定の年から、月に一度、同じ行が立っている。
『聖女様御用 蜂蜜菓子 銀貨一枚』
「……買ってもらってたんですね」テッサの声が、少しだけ柔らかくなった。「わたしのところは、興行の日だけ、飴でした」
行は、五年間続いていた。昇天の十月前に、途切れるまで。
菓子の行が消えた月から、香油も、葬儀も、何もないまま、帳簿は昇天へ進んでいく。
十三で認定された少女が十八で消えるまでの五年間は、経費の行間に、それだけしか残っていなかった。
ギヨーム・ファーブルは、その一行を長いこと見ていた。指は、頁に触れなかった。
「……妹の記録は」審問官が、静かに訊いた。「痛ましいから、封鎖されているのだったな」
「認定課の説明では」
「痛ましいのは、記録か。それとも、記録の扱いか」
ここまでを、私は検算の型に置いた。
葬儀の経費、なし。死亡の診断、なし。遺族への支払い、偽装。記録の頁、差し替え。
……「死」の側に、経費が一つも立っていない。
帳簿というものは、起きたことに正直で、起きなかったことには、もっと正直である。
答えは検分で出す。私は最後の木箱を開けた。
移送記録。教区に出入りした荷駄の控えである。
昇天の記録の前日の行で、テッサの指が、また止まった。
『夜半。荷馬車一台、発。積荷――便、一件。行先――』
行先の欄は、空白だった。
監査官の私的控え——本日の決算。認定課、回答零件(想定内)。教区台帳、不実三件(香油零本・偽署名・頁差し替え)。
行先のない夜半の荷馬車が、一台。……空白は、埋めるためにあります。




