第17話:受理番号、第三号
銀の徽章は、一晩、私の机の上で過ごした。
持ち帰らせようとしたのだが、審問官は「預ける」とだけ言って、夜の階段を降りていったのである。
朝いちばんに登庁したテッサは、机の上のそれを見て、棚の陰に半歩隠れた。押収の朝を思い出したのだろう。
「取って食いはせんよ」と局長が言った。「……いや、どうかな。ギヨーム・ファーブルの依頼となると、食われるのはうちかもしれん」
「受理しない、というご判断ですか」
「中身を聞いてからだ。ただな、カサンドラ。ああいう手合いの依頼は、聞けば断れなくなる。聞く前に、断る稽古だけはしておきなさい」
約束の刻限きっかりに、階段の四段が鳴った。
昼の光で見る審問官は、夜より痩せて見えた。
挨拶は互いに省いた。私は受理簿を開き、筆を執る。
「依頼の内容を伺います」
「聖女コレット・ファーブル」
審問官は、一語ずつ置くように言った。
「私の妹だ」
筆が、一拍止まった。止まったことを、私は記録しておく。
「二十、年が離れている。両親は早くに亡くなり、私が育てた。十一年前、十三の歳に、治癒の聖女として認定された。認定申請書の後見人欄には――私が署名した」
「当時のあなたの職は」
「審問庁の書記官だ。妹が聖女に選ばれることは、家門の誉れだと信じていた。……信じていた、というのは正確ではないな。信じることに、決めていた」
「昇天の報せは」
「六年前。享年十八。遺体は還らず、墓所は非公開。記録は閲覧不可」
「閲覧請求の回数は」
「九度」審問官は、私を見た。「九度、却下された。異端審問官の職権をもってしてもだ」
請求三度、却下三度。私の手帳の古い頁と、同じ様式の帳簿だった。ただし、頁数が三倍ある。
審問官は、懐から油紙の包みを出した。中身は、手紙の束だった。数えるほどしかない。
「認定された年、妹は月に三度、手紙を寄越した。翌年は月に一度。三年目からは、季節に一度になった。……文面も変わった。初めは字が躍っていた。しまいには、教会の定型文になった。『息災です。御光の恵みに感謝を』。同じ文が、四通続いた」
「最後の手紙は」
「昇天の半年前だ。定型文の末尾に、一行だけ、妹の字が戻っていた」
審問官は、その一通を抜いて、私に向けた。
『兄さん、わたしの祈りは、まだ、わたしのものですか』
問いの意味を考えずに済む方法を、この方は六年、探し続けてきたのだという。
「ギヨーム」
それまで黙っていた局長が、口を開いた。
「お前さん、わしが審問庁を出た年を覚えているかね」
「……十二年前。聖女セラフィナの認定に、立会人のあなた一人が判を押さず、左遷された年だ」
「あの時、廊下でわしを笑った書記官の中に、お前さんもいた」
「いた」審問官は、目を逸らさなかった。「その翌年、妹の認定書に署名した。あなたを笑った手で、だ」
局長は、それ以上責めなかった。責める代わりに、一番痛い問いを置いた。
「で。いまは、どっちだ。妹の死を検めてほしいのか、死んでいないと言ってほしいのか」
「……分からん」
「結構」局長は頷いた。「分かっている奴の依頼は、受けん方がいい。答えを買いに来るからな」
ルカ様が、窓辺から静かに言った。
「審問官どの。妹君は、治癒の聖女でしたね。……治癒は、削れます。祈るたび、感謝されるたび、自分の輪郭が薄くなる。私は認定から十年で、これです」
聖人は、完璧な微笑をつくってみせた。作り物だと分かる作り方で。
「十三で認定された子の、五年。……手紙が定型文になるには、十分な年月です」
審問官は、何も言わなかった。何も言わないことが、答えだった。
私は筆を持ち直した。確認すべきことが、一つ残っている。
「一つ、確認をさせてください。検分の結果、あなたの信じたくないものが出ます。おそらく、確実に。当局は、出たものを曲げません。それでも依頼なさいますか」
「あなたは審問の場で言ったな。『記録の値は、読まれる日に決まる』と」審問官は、机の徽章を見た。「妹の記録は六年間、誰にも読まれていない。値の付かないまま、封鎖の奥で埃を被っている。……読んでくれ。値が幾らでも構わない」
「もう一つ。当局の検分は、依頼人にも及びます。あなたが六年前に何を見て、何を見なかったか。署名の経緯。審問庁での扱い。すべて検分の対象になります」
「望むところだ。……私はこの六年、誰かに検められたくて仕方がなかったのかもしれん」
受理簿に、日付を入れた。
受理――本年度第三号。検分事項、『聖女コレット・ファーブルの昇天』の真贋。依頼人、実兄ギヨーム・ファーブル。
預かり品、一点。銀の聖女徽章(縁の摩耗、著しい)。
書き終えて、懐の手帳に指で触れた。姉の名の隣に、知らない少女の名が並ぶ。台帳の上では、死者は隣人になる。
「預かり品に、一つ約束を付けます」と私は言った。「検分の間、これは当局の金庫で保管します。お返しする日には――検分の済んだ持ち物として、お返しします」
「意味が、違うのか」
「違います。いまのそれは、あなたを責める道具です。検分が済めば、ただの、妹君の形見になります」
審問官は、初めて目を伏せた。
棚の陰から、テッサが一歩だけ出てきた。
「……あの。押収のとき、わたしの帳面、乱暴にされてませんでした。紐の結び目、そのままでした」
「押収は手続きだ。手続きに、乱暴は要らない」
審問官は少し黙り、それから硬い声のままで付け足した。
「だが、あれは詫びる。職務は、子供の帳面を取り上げてよい理由には、ならなかった」
テッサはこくりと頷いて、もう半歩、棚から出た。
窓辺で聞いていたルカ様が、誰にともなく言った。
「疑ってほしい人が、また一人。……監査官どの、この局は流行りますよ」
「流行りは要りません。予約台帳が埋まりますので」
「埋めましょうよ」とテッサが小声で言った。「予約、まだ二件目ですし。……その、わたし」
言いよどんで、それでも言った。
「偽聖女だったわたしが言うのも、変ですけど。本物の聖女さんがどうなっちゃったのかは……ちゃんと、調べてほしいです」
テッサの帳簿では、もう受理が済んでいるらしかった。
検分の設計は、二本立てにした。
正面――本庁認定課への、記録の閲覧請求。
裏口――コレットが務めたクレシー教区の、周辺帳簿の取り寄せ。教区の会計は、当局の職掌の内である。
「正面は塞がれています。九度の実績付きで」
「塞がれ方を検分するんだよ」と局長。「壁の厚みで、隠し物の値段が割れる」
閲覧請求は、午のうちに出した。教区台帳の取り寄せ状も、同じ便で出した。
認定課からの返答は――日暮れ前に来た。
却下。理由、故人の尊厳の保護。
「……三刻です」私は砂時計を見た。「文書が本庁へ渡り、審査され、返答が起案されて、三刻」
「審査しとらんな」
「はい。この却下は、扉のすぐ内側に、あらかじめ積んであったものです」
却下の速さは、それ自体が記録である。
誰かが、この請求が来ることを、待ち構えていた。
監査官の私的控え——本日の記帳。受理、一件(本年度第三号)。預かり品、一点。却下、一件(所要三刻・当局計測史上最速)。
壁の内側で待ち構えている方に、明日、お会いしに行きます。




