第16話:敗者の検分
審問の棄却から、三日が経った。
朝いちばんに、旧写本館の前へ荷車が三台着いた。異端審問庁からの、押収物の返却である。台帳、四十七冊。
「五冊ずつ運びます。テッサ、受領簿を。フェリクスさんは冊数の読み上げを」
「はい、カサンドラ様」
「ほっほ。出ていった時と同じ道を、帰ってくるもんですなあ」
返ってくるとは限らなかったのだ、とは言わずにおいた。審問が棄却されていなければ、この紙の束は火刑台の焚き付けになっていた。
荷車には返却状が添えてあった。文面は一行きり。『審問の結果に基づき、押収物を返却する』。謝罪の語は、探すだけ無駄である。審問庁は謝らない。謝る様式を、そもそも持っていないのだ。
照合には半日かけた。
冊数、四十七。欠け、なし。破れ、なし。書き込み、なし。頁の抜き取り、なし。
審問庁の仕事は綺麗だった。テッサが首を捻る。
「……触ってません、これ。ほとんど」
「読まなかったのでしょう」
「押収したのに、ですか」
「押収は、読むためではありません。黙らせるためです」
これは局長の受け売りである。連中は埃より先に台帳を押収する。そして、押収した台帳を読まない。武器を取り上げることが目的で、武器の中身には興味がないからだ。
フェリクス翁が受領簿に、冊の題を一つずつ読み上げては書き付けていく。フォンス村の興行元帳。東教区の発注簿の写し。ルカ様の治癒名簿。三年分の検分記録。
読み上げの声に合わせて、テッサが棚の定位置へ戻していく。背表紙の順は、押収の前と寸分違わなかった。あの子の頭の中の棚は、押収できないのである。
ただ一冊、フォンス村の興行元帳にだけ、検分の痕があった。
頁の隅の、細い折り目。
場所は――『王都大司教区へ 献納 金貨四百枚』の行がある頁。
「局長。審問庁には、押収物を検分する手続きがありますか」
「ないね」登庁してきたベネディクト局長は、折り目を一瞥して言った。「読むとすれば、それは職務じゃない。私用だよ」
「私用で、上納の行だけを読む審問官」
「心当たりが、一人いるな」
局長は椅子に沈んで、続けた。
「敗者の検分、というやつだよ。勝った側は祝杯で忙しい。負けた側だけが、負けた理由を検分する。……敗者の検分は、たいてい正確だ。次に会うときのあの男は、審問の日より厄介だと思っておきなさい」
布告の朝、あの審問官の胸元には私物の徽章があった。押収の夜には、私用の折り目。
帳尻の合わない持ち物と、帳尻の合わない読書。二つ揃えば、偶然の欄には書けない。
午後は、日常が少しずつ帳尻を合わせに来た。
大書庫からは、開祖の検算録の写本が始まったという報せ。アンセルム翁の監督で、写字生が十人がかりだそうだ。「わしも五十年若ければのう」とフェリクス翁が悔しがった。
開祖の実務が、二百年ぶりに読者を得ようとしている。良いことである。実務は、読まれるために書かれる。
グラン村からは手紙が一通。バルナバの興行網から保護した子らのうち、ミアの就学先が決まったという。テッサが返事を書きたがったので、口述を私が筆記した。署名だけは、本人が練習中の字で書いた。
夕刻には、ルカ様が施療院から戻った。七日ぶりの謁見日である。治癒のあとの掌を見る癖も、七日ぶりだった。
「今日の私は、何点でしたか」
「採点は継続中です。本日の治癒、十四名。名簿との相違、零」
「綺麗すぎて緊張する、とまた仰るのでしょう」
「学習なさっていますね」
「ええ。監査され甲斐のある聖人になるのが、目下の目標です」
謁見の帰りに、街の様子も聞いた。
審問の翌日から、大聖堂前の広場では写字生が小銭を稼いでいるという。売り物は、開祖の題辞の写し。『疑いは、信仰の作法である』の一行が、パン一つの値で飛ぶように売れる。
「三日前まで、皆さん、私たちを火刑台の薪の値で見ていたのに」
「相場とは、そういうものです」
「監査官どのは、動じませんね」
「上がった相場は、下がります。……下がった日の検分が、本番です」
「それと、これを」
聖人は袂から、折り畳んだ紙を出した。施療院の子供の落書きである。天秤を持った女の人の絵に、拙い字で『かんさかん さま』。
「診療の順番を、正しくしていただいたお礼だそうです」
受け取って、処理に困った。帳簿なら綴じる場所があるが、これは科目が立たない。
……結局、姉の手帳の隣に仕舞った。科目は、追って検討する。
その聖人の目が、ふと窓の外へ動いた。
「……お客様ですよ。甘いにおいがします」
来客は、本庁認定課の使者だった。若い司祭が、菓子折りと書状を恭しく置いていった。
書状の題――『聖務監査局の検分権限の適正化に関する意見聴取について』。
お見舞い(ていさつ)である。菓子の甘さで、書状の苦さを量る型だ。
「局長。認定課が、当局の権限の『適正化』を言ってきました」
「早いな」局長は書状を一瞥して、鼻を鳴らした。「審問で勝った相手を、もう一度審問では殴れん。次は、法の側を作り替えに来る。勝った翌日からやることは一つだよ、監査官。――次の負け筋の検分だ」
「負け筋、ですか」
「権限をな、法で少しずつ削るんだ。閲覧に許可を要らせる。検分に立会人を義務づける。一つ一つは合理に見える。全部足すと、手足が動かんようになっとる。……役所の絞め方というのは、静かだよ」
私は書状を受理簿に付けた。菓子折りは、テッサが毒見を志願した。
「カサンドラ様、これ、蜂蜜と……杏です。高いやつです」
「認定課の予算は潤沢のようですね」
「あと、包み紙の折り方が、すごく丁寧です。……丁寧すぎて、こわいです」
贈り物の丁寧さは、請求書の予告である。毒は入っていなかったが、テッサが三つ食べたので夕食に響いた。
夜。帰り支度の刻限に、階段が鳴った。
十三段のうち、軋むのは四段。その四段を、拍の揃った革靴が正確に踏んで上ってくる。
一人分だった。
扉は、今度は叩かれた。三度。
「夜分に失礼する。……異端審問官、ギヨーム・ファーブルだ」
黒の法服。随員はいない。布告の朝に廊下を埋めたあの黒は、一人きりで立つと、ただの喪服のように見えた。
審問官は机の前まで進み、しばらく黙っていた。
「一つ、伺います」と私は言った。「フォンス村の興行元帳。献納の行の頁に、折り目がありました」
「……押収の夜に、読んだ」審問官は、否定しなかった。「監査局を潰す証拠を探すつもりだった。だが、見つけたのは別のものだ。――六年前から、私が見ないと決めてきたものと、同じ型の行だった」
それから審問官は、胸元の銀の徽章を外した。
聖女を象った意匠。縁が擦れて、顔立ちはもう読めない。
それを、私の机の上に、音を立てずに置いた。
「これの検分を、頼みに来た」
窓辺でルカ様が息を呑み、棚の陰でテッサが固まった。
私は徽章に触れる前に、懐の姉の手帳に、一度だけ指で触れた。
……受理の可否は、明朝の議題である。だが検分は、もう始まっていた。
監査官の私的控え——本日の収支。台帳、四十七冊(全冊回収)。折り目、一箇所。菓子折り、一箱(在庫は残り七割)。夜の来客、一名。
夜に持ち込まれる依頼は、たいてい、昼の帳簿より重いのです。




