第15話:疑いは、信仰の作法です
広場は、人で埋まっていた。
大聖堂の階の上に、裁定席。司教が三名。貴賓席には、大司教ロタール猊下が穏やかに座している。そして広場の中央、群衆の目の高さに——火刑台の柱。
判決の前から立っている刑具は、脅しの在庫である。……そう勘定してみても、指先は冷えた。
被告席の隣で、テッサが私の袖を、ぎゅっと掴んでいる。振り払わずにおいた。調書をめくる方の手は、空けてある。
「開廷する」
異端審問官ギヨーム・ファーブルの論告は、静かに始まり、静かに苛烈だった。
「被告、聖務監査局。訴因、異端。彼らは御光の御業を、帳簿と物差しで測ってきた。疑いとは、病だ。信じる心を内から食い、祈りを勘定に変える。この病を、教会の内に飼うことはできない」
群衆は静かだった。三日のあいだ、柱を見上げて育った静けさである。
「病巣の名を挙げる。三等監査官、カサンドラ・エルロー」
視線が集まった。私は立つ。
「あなたの姉は、聖女セラフィナ。八年前に昇天された。あなたはその記録の閲覧を、これまでに三度請求し、三度却下されている。……あなたの検算は、監査ではない。姉の死に納得のいかぬ女の、教会への私怨だ」
どよめき。的の中心を射る矢だった。この男は詭弁を使わない。一番痛い事実だけを、正確に射る。
「請求三度、却下三度。いずれも手続きに則っています」
と、私は答えた。
「私怨かどうかは、本日の検分事項ではありません。当局の監査記録に誤りがあるなら、受理番号でご指摘ください」
「……記録に誤りはない。誤っているのは、記録で神を測れるという、その思想だ」
審問官は一拍置き、随員席へ顎を引いた。
「では、人となりの記録を出そう。——証人」
進み出た顔には、見覚えがあった。勘定するまでもない。元婚約者、オーレル・ドゥ・モルガン。
彼は随員席から進み出て、羊皮紙を高々と掲げた。
「婚約解消の祝別記録です! 破棄事由の欄をお聞きください。『当家の後援する聖女の奇跡に対する、検算行為ゆえ』! この女は、己の婚約披露の場ですら、奇跡を帳簿で疑った女なのです!」
嘲りの笑いが、広場に走った。
私は動じない。事実だからである。それに——。
——この証文の本当の値打ちは、まだ誰も知らない。
「事実です。一言一句、記録の通りです」と私は言った。「良い記録です。大切に保管なさってください。記録の値は、読まれる日に決まりますので」
オーレル様は勝ち誇った顔で席へ戻った。相変わらず、値札の読めない人である。
論告が締めに入りかけたとき、白い影が立った。
「証言を求めます」
広場が、一拍で静まった。白のルカ。王都で、その顔を知らぬ者はいない。
ギヨームは短い沈黙のあと、言った。
「……聖人の証言は、却下できない。壇へ」
ルカ様は証言台に立ち、群衆を見渡した。完璧な聖人の微笑は、今日は、なかった。
「白のルカ。治癒の聖人。認定から十年。治した方は、記録にあるだけで三百人」
声は、静かだった。
「その十年、私は一度も、検められていません」
「皆さんは、私を信じてくださいました。けれど誰も、確かめてはくださらなかった。……信じることと、確かめないことは、同じではありません。確かめられない聖人は、自分が偽物かもしれないという恐怖ごと、祭壇に飾られ続けます」
群衆のざわめきが、質を変え始めた。
人垣のどこかで、女の声がした。膝を治していただいた、あの方は本物だ、と。別の声が続く。うちの子も。わたしの母も。……三百人は、この広場にもいるのだ。
「私を疑ってくれたのは、彼女が初めてです」
聖人は、まっすぐに私を見た。
「疑われて、私は初めて、自分が本物かもしれないと思えた。監査は、信仰の敵ではありません。あれは——信仰の、検品です」
ざわめきの中、ベネディクト局長が裁定席へ向かって立った。
「裁定の御席に、開封の儀を一件、請求します。教会法の定めによる、封印文書の公開開封。文書名——『開祖の検算録』」
参事会の人足が、樫の封印架を壇上へ運び込む。傍らには、書庫の老管理者アンセルム。
ギヨームの眉が、初めて動いた。
「……その錠は、開かないはずだ」
「開く資格が、成立しました」
私は進み出て、羊皮紙を掲げた。
「審問庁発行、本審問の開廷通告。訴因は、当局の検算行為そのもの。すなわちこの一枚は、教会が教会の検算を公式に恐れたことの、証明書です」
アンセルムが錠の銘を指でなぞり、諳んじる。
「『教会おのれを検むるを恐れし日、その恐れの印をもって、これを開け』」
通告の封蝋を、錠の窪みに合わせる。乾いた音がして、仕掛けが回った。
ギヨームは、制止しなかった。裁定席を見て、一言だけ言った。
「……手続きに、瑕疵はない。開けよ」
最後まで、手続きの男である。敵ながら、記録しておく。
封印架の中には、古い羊皮紙の束が眠っていた。
燭台の図解。香油の仕入れの写し。泉の暗渠の見取り図。筆跡は、すべて同じ手だった。
第一頁を、私は衆目に掲げ、読み上げた。開祖アルノー聖人、自筆の題辞。
「『疑いは、信仰の作法である。検めよ。しかる後に、信ぜよ』」
広場が、静止した。
「これは、開祖アルノーご自身の手による、偽の奇跡の監査記録です。開祖は、偽の燭台を検め、偽の泉を検め、偽の預言を検めた。『疑いて後、信ぜよ』は、教義の飾りではありません。……開祖の、実務でした」
裁定席の老司教が、震える手で頁を検める。書記が筆跡と花押を照合する。——真正。
私は、裁定席に向き直った。
「訴因は、『奇跡を帳簿で測ることは異端である』。この訴因を維持なさるなら、御席は本日、開祖アルノーを異端と裁くことになります」
長い、長い沈黙があった。
やがて、老司教が立ち、宣した。
「本審問の訴因は——成立しない。棄却する」
どよめきが、波になって広場を渡った。誰かが開祖の御名を唱え、祈りが伝染し、火刑台の柱の下で、群衆が祈った。
柱は一度も使われないまま、ただの木材に戻った。
「監査官。最後に、申し述べることは」
老司教が私を見下ろした。演説はしない。それは私の職掌ではない。一言だけ、置いた。
「疑いは、信仰の作法です。——検めましたので、これから信じるところです」
視界の端で、ルカ様が口の形だけで訊いてきた。今日の私は、何点でしたか。
……採点は後日。ただし保留の判は、近く更新の要がある。
貴賓席では、ロタール猊下が穏やかに微笑んだまま、細く拍手をしていた。勝者を讃える目でも、敗者を憐れむ目でもない。……決算の報告を聞き終えた、出資者の目だった。
散会の壇の上で、私は調書の束をまとめていた。
影が差した。ギヨーム・ファーブルである。敗訴の口上かと思ったが、審問官は何も言わなかった。
その目が、一点で止まっている。
束の一番上。審問記録の欠番から、消えた聖女たちの名を試しに並べた、私の覚え書きだった。
アニェス。マルグリット。セラフィナ。……コレット。
審問官の指が、無意識のように、胸元の小さな聖女の徽章に触れた。
「……その紙は、何だ」
「閲覧できない記録の、目録です。欠番は、それ自体が記録ですので」
ギヨームは長いこと覚え書きを見つめ、何も言わずに、踵を返した。
その背を、私は観察した。敗者の歩き方では、なかった。あれは——検分を始めた者の、歩き方だ。
私は調書の端に、一行だけ書き足した。
審問官ギヨーム・ファーブル。胸元の徽章、聖女の意匠。……要検分。
監査官の私的控え——本日の決算。審問一件、棄却。監査局、存続。開祖の遺訓、一件開封。
……審問官の目は、敗者の目ではありませんでした。あの徽章の検分を、次話から始めます。




