第2話:疑い屋の台帳
聖務監査局は、大聖堂の裏手にあった。
正確には、大聖堂の裏の旧写本館の、軋む階段を三階まで上がった突き当たり。扉の聖印は煤け、廊下にはインクと黴と、古い羊皮紙の匂い。
——良い匂いだ。台帳の熟成した匂いである。
「来たか」
昨夜の老人が、書類の山の向こうから顔を上げた。局長・ベネディクト。元異端審問官。現在の部下は、耳の遠い老書記フェリクスがひとり。以上、局員二名。
「本日付で任官。カサンドラ・エルロー、三等監査官。……三等の上は何等まで?」
「一等まである。だが安心しなさい、昇級はない。この部署の予算では、昇級させると私の給金が減る」
「結構です。等級より台帳を頂けますか」
「……ほう」
ベネディクト局長は、嬉しそうでも困ったようでもある皺を深くして、机に一冊の帳簿を放った。
「では教材だ。三年前、東教区で『闇の中で燭台が自ずと灯る』奇跡があった。種明かしをしてみなさい。使ってよいのはこの発注簿一冊」
「拝見します」
ページを繰る。祭具、香油、修繕費——あった。
「蝋燭です。『特注蝋燭・月三百本』。前年までの三倍量なのに、聖堂の蝋燭代の計上は据え置き。つまり特注品の単価が通常品と同じはずがないのに、帳簿上は同じ。差額はどこかに隠れています。……特注の中身は、おそらく芯に細工のある遅燃蝋燭。昼のうちに灯して、蝋で覆い隠しておく類の」
「時間は」
「四分、といったところです」
「……前任の候補者は三日かかった」
合格らしい。私は監査官記章——天秤と羽根ペンの意匠——を受け取った。
「早速だが初仕事だ。フォンス村。王都から馬車で半日。枯れかけていた泉の村に、この春『泉の聖女』が現れた。聖女が水面に触れると、涸れ泉が湧く。寄進が、三月で例年の十六倍集まっている」
「十六倍。……巡礼路から外れた村に、ですか」
「そうだ。管轄はバルナバ司教。教区の実入りが急に良くなると、だいたい上手い話が生えている。検めなさい」
仕度をしていると、局長が付け加えた。
「ああ、それから。護衛が付く」
「護衛? この予算のない部署に、ですか」
「教会のご厚意だよ。……つまり、監視だ。うちが余計なものを検めんように、な」
扉が、叩かれた。
入ってきた青年を見て、老書記フェリクスが椅子から立ち上がりかけた。白を基調にした聖職衣。柔らかな金褐色の髪。年の頃は二十歳ほど。そして、その顔を私は知っていた。王都で知らぬ者のいない顔だ。
「——『白のルカ』様」
治癒の聖人。触れた者の傷病を癒す、現認定で唯一の「本物」とされる御方。教会の広報画で見るのと同じ、完璧な微笑がそこにあった。
「はじめまして、監査官どの。ルカと申します。姓はありません。……ふふ、そんなに検分なさらないでください。減ります」
「失礼しました。職業病です」
「存じています。だから私が志願したんです」
志願。監視役に、聖人が自ら。
ルカ様は微笑んだまま、まっすぐに私を見た。
「ひとつだけ、伺っても? ——あなたは、奇跡を憎んでいますか?」
妙な問いだ。私は少し考えて、正確に答えることにした。
「いいえ。奇跡を名乗る経費を憎んでいます」
「…………よかった」
その時、聖人の微笑が、ほんの一瞬だけ別のものに見えた。安堵、というには昏すぎる何か。まばたきの間に、それは元の完璧な微笑に戻っていた。
「憎んでいる人の目は、もっと優しいんです。あなたの目は——勘定をする目だ。ちょうどいい」
「ちょうどいい、とは」
「いずれ、お願いしたいことがありまして。……ああ、いえ。まずはお仕事を。フォンス村でしたね」
彼は答えをはぐらかし、ひらりと旅装の外套を羽織った。その所作の途中、老書記フェリクスの腰に、すれ違いざま指先で触れる。
「フェリクスさん、腰。長座はほどほどに」
「……お、おお……曲がる、曲がるぞ……三十年ぶりに腰が……!」
私は見た。光も、祈りの文句もなかった。ただ触れただけ。それだけで、老人の曲がった腰が伸びた。
仕入れなし。装置なし。事前の細工の余地——目視の限り、なし。
……初めてだ。原価の見えない奇跡は。
「参りましょう、監査官どの」
聖人は完璧な微笑で振り返る。私は手帳に一行だけ書いて、閉じた。
——要検分。ただし、何を検分すればいいのか、まだ分からない。
監査官の私的控え——本日の収支。職場、一件。教材、一件。原価不明の奇跡、一件。
最後の一件だけ、勘定の立て方が分かりません。次話、フォンス村の泉を検めます。




