第12話:開祖は、疑った
大聖堂の正面階段を、監査官の記章で上る日が来るとは思わなかった。
異端の嫌疑は掛かっているが、当局の職権は三十日目まで有効である。役所というものは、そういうものだ。
「……あの、カサンドラ様。わたし、入っていいんでしょうか」
扉の前で、テッサが足を止めた。祭壇のある大聖堂に入るのは、あの興行の日々以来だという。偽聖女だった子の負い目は、こういう敷居でだけ顔を出す。
「大聖堂の入場に、資格の審査はありません」
「テッサ」ルカ様が屈んで、目の高さを合わせた。「ここはね、来た人を数えない場所です。数えないことにかけては、教会でいちばん正しい場所ですよ」
「……ルカ様、それ、カサンドラ様の前で言います?」
「私は数えますが、資格は数えません」
テッサは少しだけ笑って、敷居をまたいだ。
身廊の献灯の列の前で、あの子は小さく鼻を動かした。
「……ここの蝋燭、ぜんぶ正直なにおいです。仕掛けのにおいが、しません」
敬虔というものは、案外、在庫の正直さに宿るのかもしれない。
大書庫は、聖堂の北翼の地下にあった。
鍵を開けたのは、書庫の主である。アンセルム翁。齢は分からない。目は、ほとんど見えていないという。
「監査局の。……ベネディクトの遣いか」
「三等監査官、カサンドラ・エルローです。閲覧の許可を頂きたく」
「目的は」
「開祖アルノー様の一次資料の検分。それから——検算録の、実在確認です」
白く濁った目が、こちらを向いた。見えていないはずの目に、検分される感覚があった。
「……近頃の連中は、聖人伝しか読まん。開祖の手で書かれたものではなく、開祖について書かせたものばかりだ。あんたは、どっちを読む」
「筆跡がご本人のものだけを」
「——よろしい。手袋を。頁は、めくるのではない。開くのだ」
閲覧机に案内される前に、翁は棚から同じ装丁の写本を二冊出して、並べた。
「検分屋というなら、当ててみよ。開祖の説教集。片方は、後の世の写しだ」
「……拝見します」
紙の目。綴じ糸の撚り。インクの沈み方。それから、匂い。
「右が写しです。革は古いのに、綴じ糸だけ新しい。それに右は、欄外が綺麗すぎます」
「……ほう。欄外、ときたか」
「本物の開祖様は、余白を勘定に使う方だと伺っています」
「誰に」
「ベネディクト局長に。それと、いま——この左の一冊に」
翁は初めて笑った。歯の欠けた、書庫の乾いた笑いだった。
アンセルム翁は、杖も突かずに書架の谷を歩いた。段数を数え、指先で背表紙の革の傷を読み、匂いで年代を分ける。
「翁。……見えないのに、どうして分かるんですか」
「嬢ちゃん。本はな、目で読む前に、厚みと重みと匂いで、だいたい分かる」
テッサが、私の袖を強く引いた。
「カサンドラ様。この方、台帳のにおいが分かる側の人です」
「ふん。……ほう? 嬢ちゃんもか」
「はい。あの、綴じの厚みで、抜かれた頁も分かりますか」
「分かる。革の乾き方でもな」
職人が二人、通じ合ってしまった。以後、翁の物言いは、テッサにだけ二割ほど柔らかくなった。
検分した一次資料は、三種である。
一つ。開祖の説教の自筆写本。
驚いたのは本文ではない。欄外だった。説教の余白に、細かい走り書きがびっしりと入っている。
「『献灯の蝋、納入は三百、燃えたるは二百四十。差は誰の袖か。問え』……」
「『涙する聖像、検分三日目。涙は目ではなく額の裏より出づ。油の匂いあり。管の在処を検めよ』……」
説教の裏で、開祖は勘定をしていた。信徒の感涙を記した行の隣に、蝋の在庫を書く人だった。
二つ。巡歴の目録。
通説の聖人伝では、開祖は各地を巡って奇跡を広めたことになっている。だが自筆の目録に並ぶのは、土地の名と、日付と、一文字の判定である。
「虚。虚。虚。……実。虚。」
ルカ様が目録を覗き込んで、長く、細く、息を吐いた。
「広めたのではなくて。……検めて回ったんですね。ぜんぶ」
「総数、百十四件。うち『実』は——七件です」
本物が、七件。
聖人は、その七つの文字を、指で触れずになぞっていた。あの方の勘定の、どこかに触れたらしい。検分は、しないでおく。
ついでに、一つ。閲覧机の端で聖人伝の方を検めていたテッサが、手を挙げた。
「カサンドラ様。この本、奇跡の章だけ、綴じ直されてます。糸が新しいです」
「後の世の書き足しよ」アンセルム翁が、事も無げに言った。「開祖が『暴いた』話を、『広めた』話に書き直す。写本のたびに、少しずつな。……何代も写せば、監査官が聖人になる」
通説は、こうして作られたらしい。記録は、書いた日ではなく、写された回数で歪む。
三つ。開祖の手稿。「疑いて後、信ぜよ」の原典である。
教会の壁という壁に彫られたこの句を、私は初めて、前の行ごと読んだ。
『われ、偽りの御業を百と十四、検めたり。七つの、まことに触れたり。ゆえに言う——疑いて後、信ぜよ』
件数が、先に書いてある。
結論より先に、数を置く人だった。感想の欄は、ない。あるのは判定と、次に問うべき事項だけである。
……同類だ。
開祖の時代から今日まで、この教会のいちばん深いところに、ずっと監査官がいたのだ。
私は懐の姉の手帳に、指先で触れた。この句を、教会は長いこと、後ろ半分だけで使ってきた。前の行を彫り直すには、原典がいる。
「検算録は」
「……こっちだ」
書庫の最奥に、鉄格子で囲われた書架が一基あった。中に、革装の大冊が一冊、横たえられている。格子の合わせ目には古い封蝋。意匠は——天秤と、羽根ペン。
私は自分の胸の記章を見下ろした。同じ意匠である。
「開祖の私印だ。あんたらの局の記章は、あれの写しよ」
「実在した……。開けられますか」
「開かん。わしの師も、その師も、開けられなんだ。鍵はない。封を破れば中の仕掛けが頁を焼く、と伝わる。……開く条件は、言い伝えが一つだけ残っておる」
翁は格子の前で、暗誦した。
「『教会自身が検算を恐れた時、開かれる』」
「……意味は」
「知らん。代々の書庫番が、誰も解けなんだ謎かけだ。……解ける日が来るなら、ろくな日ではあるまいよ」
意味の分からないものは、記録するだけである。私は手帳に、一言一句を写した。
帰る頃には、日が落ちていた。
テッサは翁に「また来ます」と約束して、干し無花果を一つもらっていた。ルカ様は、目録の「実」の七件のことを、ずっと考えている横顔だった。
旧写本館に戻ると、階段の下からでも、それは見えた。
監査局の扉に、白い貼り紙が一枚。
公開審問、開廷通告。被審問者、聖務監査局。
『嫌疑重大につき、三十日の猶予を待たず開廷す』
期日——十日後。
テッサが、貼り紙と私の顔を見比べた。ルカ様は、通告の文言を二度読んだ。
「……猶予は、三十日のはずでは」
「『嫌疑重大につき』だそうです。書式の上では、整っています。整い方が、気に入りませんが」
私は通告の前で手帳を開き、書いた。
残り十日。検算録は、実在する。ただし、開かない。
……開祖アルノー様。あなたの後輩が、あなたの帳簿を必要としています。
監査官の私的控え——開祖の実像、一件(同業者でした)。検算録、実在確認(ただし封印)。
帰ってみれば、扉に開廷通告。期日は十日後。……先達の封蝋と審問の火、どちらが先に開くでしょうか。




