可動神殿と深夜の流儀(後編)
「……退去か。いいよ。別にこの場所に執着しているわけじゃない」
俺はボロ布団の中から怠惰に顔を出し、掛けた『偏光グラス』の端を指先でくいっと持ち上げた。色眼鏡の奥の瞳で呆気にとられるバザンを見つめ、フッ……と不敵な笑みを浮かべる。
「ほう! ならばすぐに荷物をまとめて出ていくのだな!」
「だが、俺が『自分の足で歩いて出ていく』とは一言も言っていない」
「……は? 貴様、何を言って——」
バザンが不審そうに顔を歪めた、まさにその瞬間だった。
ガシャアアンッ!!!
部屋の隅、俺が無造作に放り投げて山積みになっていた『炭酸の空き缶』が一斉に激しい金属音を立てて共鳴し始めた。ただのアルミゴミだったはずの空き缶群が、眩いばかりの白銀の光——純度百パーセントのオリハルコンの輝きを放ち、急速に融解・再構築されていく!
「な、なんだ!? その光は……!?」
バザンが叫びながら後ずさる中、溢れ出す銀光の渦の中から、一人の男が静かに足を踏み出してきた。白衣を羽織り、知的で怪しげな銀縁メガネを指先で押し上げる紳士。元・帝国の魔導工学総裁にして、魔人族の智将——ヴァルカンである。
ヴァルカンは空き缶の山から見事に受肉を果たすと、目を見開くバザンなど視界にも入れず、ボロ布団にくるまる俺の前で美しく優雅に片膝をついた。
「おお……おおおっ……! これぞ物質再構築の極致……! ゴミと切り捨てられた器に命を宿す、至高の神託に感謝を……!」
「ヴァルカン。移動するためにわざわざ布団から出るなんて、本末転倒だと思わないか?」
「は……? と、言われますと……至高の主よ?」
「『退去しろ』と言われたからといって、俺が布団から出る必要はない。部屋ごと移動すれば、俺は布団に入ったまま退去できるんじゃないかな。歩くなんてエネルギーの無駄遣いだからね」
「……ッ!? なんという……なんという圧倒的神託……ッ!!」
ヴァルカンが眼鏡をガタガタと震わせ、狂気に満ちた瞳で手帳に激しい勢いで筆を走らせる。
「『退去せよ』という敵の愚かな法理を逆手にとり、主が一ミリも歩むことなく全土を巡幸・制圧されるというのか……!
不平等な要求を完全に逆流させる、これぞ魔導工学の極致……!!」
ヴァルカンは天を仰ぎ、歓喜の声を上げた。
「直ちに! このヴァルカンの全頭脳を懸け、主の安眠を守る『移動式絶対領域』を構築いたしますぞ!!」
「ちょっと待ちなさいヴァルカン! こいつはただ部屋ごとゴロゴロ移動してサボりたいだよ!!」
スネブのキレキレのお説教が響き渡る中、世界を記述する基幹システムは、スエドの「歩きたくない」というただの屁理屈を、空間駆動型の絶対防衛概念として完璧に誤認識した。
『——システムコマンド承認。物理構造変更:【絶対可動神殿】起動』
『——対象圏域の地殻座標を切り離し、【反重力推進機関】の接続を完了しました』
ズズズズ……ッ!!
宮殿全体が激しく微振動し、白銀の床の底面に巨大な重力車輪と魔導推進器が全自動で構築されていく。
「な、なんだこの揺れは!? おい、何が起きている!
ひぃー、退去しろとは言ったが……宮殿ごと移動しろとは言っていないぞぉぉぉーーーっ!?」
絶叫しながら腰を抜かし、逃げ惑う特使バザン。
しかし彼を置き去りにし、白銀の宮殿はゆっくりと、しかし滑らかに、大森林の木々を薙ぎ倒しながら大地を滑り出したのだ。
走る神殿が通り過ぎる街道沿いには、関門の不当な高額通行税が払えず、足止めされたまま路頭に迷う行商人や旅人たちの群れがあった。教団と連合が敷いた理不尽なルールにただ従い、なけなしの財産を奪われながら順番を待ち続ける、思考を奪われた人々だ。
「よし。これで退去完了だ。……ヴァルカン、諸国連合の境界線まで自動運転でおねがい。
俺はヴィーガンプレートを食べてから二度寝に入る」
「御意にございます、ロード! この神殿は、いかなる障害も粉砕し、主の安眠を揺るがすことなく世界を走破いたしましょう!!」
「ちょっとぉぉぉ! どこへ向かって走ってんのよこの部屋ーーーーっ!?」
走り出した豪華な謁見の間で、スネブの悲鳴とスエドが吐き出した紫煙が、どこまでも響き渡っていた。
俺の少しずれた偏光グラスの視界の端で、赤色の文字画面が静かに一秒刻まれた。
『——警告:|将来的な構造崩壊の可能性。世界の残存演算フェーズ、あと76』
* * *
——同刻、宮殿が走り去った後の荒野の物陰。
影に溶け込むような漆黒の毛並みを持つ一匹の黒猫——『メル』が、地面に残された巨大な車輪の轍を冷ややかな黄金の瞳で見つめていた。
『……ククク。標的自ら動いてくれるとは好都合』
『——暗殺部隊の通信回線をジャック。教団の追撃隊に告ぐ。標的は現在、時速六十キロで西へ移動中。指定ポイントへ追撃を開始せよ』
メルは前脚で拾ったナッツをピンと弾き飛ばすと、闇の中へと音もなく溶けていった。




