可動神殿と深夜の流儀(前編)
「……九百九十八、九百九十九、一千。……ふぅ」
深夜二時。
静まり返った白銀の宮殿に、蒼い月光が差し込んでいた。
俺は、万年床のボロ布団が敷かれたすぐ横のスペースで、片手腕立て伏せを交互に終え、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
ダボついたシャツを脱いだその下には、昼間の脱力ニート姿からは想像もつかない、深く刻まれた六枚の腹筋と彫刻のような背筋——細マッチョ体型がバキバキに仕上がっている。
傍らに置いた古びたパイプを引き寄せ、ぷはぁ、と白く立ち上る紫煙を気怠そうに吐き出した。
「今日の体幹トレーニング完了。筋肉の超回復には、質の高い睡眠と無添加の食生活が不可欠だか らな」
「……ちょっと」
背後から、引きつった声が響いた。
振り返ると、喉が渇いて起きてきたらしいスネブが、ガラスのコップを手に目を丸くして立ち尽くしていた。ヨレヨレのパジャマ姿の彼女は、俺の肉体を凝視したままワナワナと震え出す。
「……なによ、その彫刻みたいな筋肉。あんた、昼間『ちょっと動いただけで筋肉が痛む』とか言って布団から一歩も出なかったわよね?
なんで皆が寝静まった夜中に、一人でバキバキに鍛えてんのよーーーっ!?」
「フッ……見られたか。落ち着けスネブ、これは運動ではない。『生体メンテナンス』だ」
俺はパイプを咥え直し、ニヒルな表情を作って語り出した。
「筋肉量を維持することは、基礎代謝を高め、将来の健康寿命を延ばすために必要な最低限の嗜みなのだよ。俺は一生ダラダラ生きるために、今この肉体を限界まで維持しているのだ」
「言ってることとやってることの矛盾がエグいのよ! ただのストイックな筋トレじゃないのよ!
表と裏のギャップが極端すぎるのよこのニートーーーッ!!」
スネブが頭を抱えて叫ぶ。
「だいたい、そんなに体力あるなら明日の朝くらい自分で起きて掃除しなさいよ!」
「断る。夜の俺と昼の俺は、完全に切り離された別の存在だ。昼の俺は、重力に魂を引かれた哀れなスライムだからな。それでは、筋肉が冷える前に良質な睡眠をとらせてもらう」
「ちょっと待ちなさい! まだ説教は終わってないわよ!」
大声でキレる美少女を適当にいなし、俺は素早く上着を羽織ってボロ布団――煎餅敷布団と、ペラペラの掛け布団という貧相な布の塊へと潜り込み、強制的に二度寝の体勢に入った。
* * *
翌昼。
日差しが差し込む宮殿の謁見の間。そこは本来、第2結界と第3結界の間に広がる『最外殻フロンティア』と呼ばれる危険地帯だ。だが今、その豪奢な間に不機嫌そうな顔をして踏ん反り返る一人の男が立っていた。隣国・バルナス王国をはじめとする諸国連合の特使、バザンである。
「スエド殿とお呼びすべきか! 我がバルナス王国の第2結界に隣接するこの最外殻の森において、このような巨大宮殿の無許可建設は断じて認められん!
昨日のヴァルター王子に対する非道な反撃行為も合わせ、直ちにこの土地から撤去し、我々の軍事法廷へ出頭されたい!」
バザンが声高に要求を突きつける視線の先――謁見の間の一番奥、一段高くなった壇上には、透かし彫りの施された豪奢な御簾が垂れ下がっていた。その薄暗いすだれの奥から、ゆらりと紫煙が立ち上る。
……バザンから見れば『姿を見せぬ神秘の主』による圧倒的な威光に見えただろうが、実態は単に、ボロ布団から出たくない俺がすだれを上げる手間すらサボっているだけである。御簾の隙間からは、ボロ布団にくるまる俺の影と、その肩の上で『おからせんべい』をポリポリ齧るピヨちゃんの小さなシルエットがチラチラと見え隠れしていた。
「……出頭? 面倒くさいね。行くわけないだろう」
「な、なんだその横暴な態度は! すだれの奥に隠れたまま姿すら見せんとは、諸国連合を愚弄する気か!?
ならば我が国の法に基づき、即刻この土地から『退去』していただく! 従わねば、今度こそ連合軍の総力を挙げて貴様をこの宮殿ごと焦土と化すぞ!」
バザンが顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていると、部屋の奥からズカズカと足音が響いてきた。
手には湯気を立てる木製プレートと、例によってドロリとした濃い緑色のグラスを持っているスネブだ。
「ちょっとスエド! お客さんが来てるのに布団で寝転がったままなんて失礼でしょ。ほら、起きてこれを食べなさい!」
スネブはプレートを荒々しく置いた。
「『発芽玄米と有機アボカドの完全無塩ヴィーガンプレート』よ! それといつもの『特製濃縮生搾りケール汁』!」
「ギ……ギャアアアアッ!? ケール!? ケール原液だけはご容赦をぉぉぉ!!」
「フフン! 泣くほど嫌がってるわね! 罰として一気飲みしなさい!」
俺は顔を絶望に歪め、大根役者も真っ青な棒読みの悲鳴をあげながらケール汁を受け取り、一気に飲み干した。
(……うひょーっ!! 無農薬ケールのえぐみがたまらん!! 五臓六腑に生きたビタミンが染み渡るぜ……!)
密かに至福の健康エネルギーをチャージしつつ、俺は空になったグラスを置き、口元を拭ってバザンへと視線を戻した。
(後編へつづく)




