元刺客と元五将の道中記(前編)
「——ん……あ……?」
爽やかな朝の光が、荒涼とした最外殻地区の地平線から差し込んでいた。
可動式神殿の前庭。神殿内部の『万年床』から溢れ出た絶対平和領域の中で、男はゆっくりと目を開けた。
魔法国が誇る最高幹部にして、絶対の殺傷能力を誇る『夢たぐりの暗殺者』——その部隊長である男は、ゆっくりと体を起こし、自身の両手をまじまじと見つめた。
……頭が軽い。
幼少期から苛烈な洗脳呪印を脳に刻み込まれ、ひたすらに暗殺の任務だけを強いられてきた頭蓋の中に、かつてない爽快な静寂が広がっている。
「……っ!? 私の……脳内の洗脳コードが……消えている……!? 傷一つない……それどころか、体が信じられないほど軽い……! これはいったい……!?」
思わず叫び声を上げた男の頭上で、パタンと神殿の小窓が開いた。
「あ? うるせぇな。朝っぱらから大声出すんじゃねぇよ」
ひょっこりと神殿の小窓から顔を出したのは、ボサボサ頭の男だ。その背後、万年床の端っこでは、昨夜スエドの夜更かしに付き合わされたガウとピヨが、仲良く団子になってスヤスヤと爆睡している。
スエドは眠たげな目を擦りながら、温かいハッカ茶の入ったマグカップを手に持っていた。
鼻腔をくすぐるハッカの清涼感に、暗殺部隊長はビクッと肩を震わせる。
「ス、スエド……!? 貴様、私にどんな恐ろしい術を掛けた! どんな拷問で私の強固な洗脳を上書きしたんだ!!」
「あ? だれだお前」
「な……!? 刺客である私を知らんというのか!?」
「あ、夢に出てきた暑苦しいピンクTシャツのおっさんか? 俺はただ普通に二度寝しただけだ。朝っぱらから大声出すんじゃねぇ」
「馬鹿な……! 二度寝しただけで、魔法国の至高の呪印が浄化されたというのか!?
戯言を言うな! そんなふざけた魔法がこの世にあって堪るか!」
「嘘じゃねぇよ。お前が勝手に脳みそカリカリに煮詰めてたから、俺の万年床の『絶対休息空間』と同調して自滅しただけだろ。
要するに、お前はただの睡眠不足だったんだよ。とっとと顔洗ってこい」
スエドはふぁぁあ、と大きなあくびを噛み殺し、ハッカ茶を一口すすった。
暗殺部隊長は、その無防備極まる出立に絶句した。
殺気がない。隙がないどころの話ではない。存在そのものが『戦い』という概念を根底から拒絶している。
「な、なんという男だ……。私のような暗殺者を目の前にして、一ミリの警戒すら払っていない……!
これが、真の絶対者の余裕か……!」
ガラババババッ!!
神殿の重厚な玄関扉が、激しい音を立てて蹴破るように開いた。
「ちょっとスエドーーーーッ!! 昨日の夜、刺客が来てるのに寝ながら適当にあしらって、そのあと夜更かししてマンガ読んでたでしょーーーっ!!
おかげでガウとピヨまで巻き添えで全然起きてこないじゃないのよ!!」
エプロン姿の美少女・スネブが、三角巾を頭に巻き、手に緑色の怪しい液体がなみなみと注がれた大グラスを引っ提げて怒号を響かせた。
「げぇっ……出たな、緑色の健康悪魔……」
「悪魔とは失礼ね! あなたの乱れた生活リズムを正すための『特製・生搾り青汁ハッカ生姜ジュース』よ!
ほら、一気に飲み干しなさい! 寝起きの胃腸にガツンと効くわよ!」
「断る。俺の体は現在、極めて繊細な二度寝移行モードに入っている。
そこにそんな刺激物を流し込んだら、胃腸が不当労働行為でストライキを起こす」
「何を言ってるのよ! 夜更かししておいて二度寝なんて、ただの怠惰でしょ!
朝は6時に起きて、朝日を浴びて、ラジオ体操をするのが人間の基本よ!」
「甘いな、スネブ。俺の昨日の夜更かしは『夜更かし』ではない。
『明日の朝の時間を前借り』しているだけだ」
「前借りって何よ! 時間は前借りできないの!」
「できる。今日起きていた時間を明日に繰り越すことで、明日の睡眠効率を相対的に向上させる高度な時間投資術だ。
つまり俺は怠けているのではない。未来の健康のために資産運用をしているんだ」
「意味不明な屁理屈こねないで!! 屁理屈で健康にはなれないの!!」
ギャーギャーと繰り広げられる、夫婦喧嘩のようで、しかしレベルの低すぎる口論。
それを横で見ていた暗殺部隊長は、ガタガタと全身を震わせた。
(な、なんという高度な問答だ……!!)
刺客の脳内で、凄まじい誤解の嵐が吹き荒れる。
(一見するとただの不摂生な男と説教する少女の会話……だが違う!
あの男は『時間という概念の固定化』を否定し、人間の生理機能を多次元的に再定義しようとしている……!
そしてあの少女が持っている緑色の液体……漂う凄まじい波動からして、魔力を一気に活性化させる伝説の霊薬『万能秘薬』の類に違いない……!!)
「おい、そこでお口ポカーンと開けてる元刺客! あなたもよ!」
「私、だと……!?」
前庭に立つ暗殺部隊長を、スネブがバッと指差した。
「さっきから大声で『刺客』だなんだってうるさいのよ! それに目の下に酷いクマを作って……規則正しい生活をしてない証拠よ! ほら、あなたもこの青汁ハッカ生姜ジュースを飲みなさい!」
「くっ……殺す気か! だが、毒殺ならば望むところ——」
差し出されたグラスを受け取り、覚悟を決めて一気に煽る暗殺部隊長。
直後。
「ッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
激痛のような苦味と、鼻を突き抜ける凄まじいハッカの清涼感、そして生姜の熱が全身の血流を激流のように駆け巡った。
「がはっ……!? こ、これは……っ!
体中の滞っていた魔力が、一気に循環し始めて……!? 毒どころか、全身の細胞が活性化している……!?」
「でしょう! 自家製の有機栽培野菜とハッカのブレンドよ!
毎朝飲むと血行が良くなって、目覚めが最高になるんだから!」
ふふん、と誇らしげに胸を張るスネブ。
暗殺部隊長は膝から崩れ落ち、ボロボロと涙を流した。
「ああ……なんということだ……。私はいままで、暗殺の道具として泥のような泥水をすすり、毒に耐える訓練ばかりさせられてきた……。
こんな、体に良い温かなものを与えられたことなど、一度も……っ!」
「あ? 別に与えたわけじゃねぇよ。スネブが無理やり飲ませただけだ」
スエドが呆れたように鼻を鳴らす。
暗殺部隊長は、勢いよく地面に額を擦り付けた。
「スエド様! そしてスネブ様! 私を……私をこの神殿の雑用係として雇ってください!!」
「は?」
「私は今まで、多くの命を奪ってきた罪深き男です!
ですが、あなた様の『絶対の安眠』と、この温かな食卓を見て悟りました! 私の本当の生きる道はここにあるのだと!
カップ洗いでも、万年床の天日干しでも、何でもいたします! どうか、私に償いの機会を……!」
「めんどくせぇ。勝手にしろ。ただし、俺の二度寝の邪魔だけはするなよ」
「ははっ!! 命に代えましても、スエド様の二度寝の静寂をお守りいたします!!」
魔法国が誇る最強の刺客は、あっさりと神殿の『掃除之者』へと転属した。
(後編へつづく)




