ナイトメア·ブレイカー(前編)
「——はぁぁぁあ、生き返る……」
可動式神殿のドッキング衝撃が収まり、万年床を包む区画が母艦の奥深くへと接続された瞬間、俺の口から魂の抜けたような溜息が漏れ出た。
最外殻第4地区への短距離遠征。万年床ごと分離した主機で路地裏を駆け抜けて戻ってきた体には、やはり帰還した神殿の静寂と、一切揺れない万年床の吸い付くような柔らかさが何よりの治療薬だった。
「やっぱり神殿モードの無振動に限るな……。コア移動中のエンジンの微振動と小回りの揺れは、いかんせん二度寝の腰に響く。
あのサスペンション、もっとふわふわの綿を三倍くらい詰め込んで揺れを最小限にできねぇのか?」
バンッ! と威勢のいい音を立てて扉をこじ開けたのは、同居人の美少女スネブだ。
「詰め込むわけないでしょ、おバカ! コア・コックピットは狭い路地を駆け抜けるための緊急機動形態なの!
衝撃吸収を極限までふわふわにしたら、移動中にあんたが完全二度寝して壁に激突するわよ!」
無駄なエネルギーを撒き散らしながら仁王立ちする彼女の姿に、俺は思わず重い溜息をついた。
しかも、彼女が両手に掲げているグラスからは、ツンと鼻を刺す強烈な発酵臭が漂ってきている。琥珀色に濁ったその液体は、表面でプツプツと微小な泡を弾けさせており、どう見ても普通の飲み物には見えなかった。
「ほらスエド! 外から帰ったら手洗い・うがい・そしてこの『無添加オーガニック・自家製コンブチャ』よ!
コアの移動で疲れた胃腸の粘膜を、生きた善玉菌でシャキッと整えるの! 一滴残さず飲み干しなさい!」
「……なぁスネブ。俺は今、心身ともに極限の疲労と戦ってるんだ。
その酸っぱい発酵茶を鼻先に突きつけられるだけで、精神が異世界へ旅立ちそうなんだが」
「発酵茶の偉大さを舐めないで! ほら、一口飲めば目が覚めるわよ!」
「目が覚めたら負けなんだよ。俺が今、全集中すべき目的は『二度寝』なんだからな」
俺は掛け布団を頭からスッポリとかぶり、ミノムシのように丸まった。
布団の端には、昨日読んだまま伏せて置かれた大衆向けの娯楽雑誌が落ちており、そこはかとない生活感と安堵感を醸し出している。
だが、その平和な時間を遮るように、壁掛け水晶——神殿主制御盤から、執事ヴァルカンの警告を含んだ声が響き渡った。
『——ロード・スエド。お寛ぎのところたいへん恐縮ですが、少々厄介なお報せがございます』
水晶の光が明滅し、ヴァルカンが銀縁メガネをキラリと光らせる。
『スエド様が第4地区よりご帰還された直後……当神殿の周囲に、極めて密度の高い精神干渉の波動が展開されました。
魔法国国王直轄の暗殺部隊長——通称『夢たぐりの刺客』が、防御機構の隙を突いて潜伏していた模様です。現在、敵の術者は自らの肉体を不可視化し、スエド様の『精神領域』へと直接潜入を試みております』
「精神潜入……!?」
スネブが身構えた。
「敵の脳波に直接干渉して、精神を内側から破壊するっていう、あの禁忌術式ね!
スエド、危ないわ! 夢の中に潜り込まれたら、いくらあんたでも——」
「いや」
俺は『せんべい』を一枚口に放り込み、ボリボリと噛み砕きながら大きなあくびを一つ噛み殺した。
素朴な米の甘みが口の中に広がる。
「ちょうどいいじゃねぇか。俺はこれから本気で夢の中に入るんだ。
わざわざ向こうから挨拶に来てくれるんなら、手間が省けて好都合だろ」
「好都合なわけないでしょ! 敵はあんたの脳を狂わせに来てるのよ!?」
「大丈夫だろ。俺の夢の中は、いま世界で一番安全な場所だからな……ふぁぁ……おやすみ……」
「ちょっとスエド!? 寝るなーっ!」
* * *
漆黒の背景に浮かび上がる人の姿と絶対の静寂。
『……ククク、愚かな。まんまと我の術式にハマりおったわ』
魔法国直轄の暗殺部隊長は、なぜかピチピチの蛍光ピンクの半袖に短パンという奇抜な精神アバター姿で、スエドの夢の中でほくそ笑んだ。
彼の固有魔術『夢幻侵食』は、対象の無防備な精神へと侵入し、肉体を極限まで酷使する「強制スクワット」や「理不尽な筋トレ」の幻影を見せ続け、疲労で精神を内側から崩壊させる絶対殺術である。
『どれほど恐ろしい神聖魔術の使い手であろうと、所詮は人間!
過去二夜にわたり徐々に精神疲労を蓄積させてやったが、今夜が本番!
この男の脳内に強制ペアスクワット千回の地獄を展開し、狂気へと叩き落としてくれる——!』
暗殺部隊長は、標的であるスエドの精神世界の深層へと一気に踏み込み、己の支配領域である『無限の鍛錬場空間』を展開した。
むせ返るような汗の匂いと、重たい鉄亜鈴が転がる暑苦しい空間。
『ええい、起きろ! さあ、素晴らしい二度寝の準備運動だ! 今夜もペアスクワット千回行くぞぉおおお!!』
ピンク色の半袖を着た暑苦しい男が、鍛錬場の中心で意気揚々と叫ぶ。
——しかし。三夜連続で繰り返された悪夢の魔法攻撃。ついに、夢の主の堪忍袋の緒が切れた。
『——三夜連続で他人の夢に現れて筋トレを強要するなんて、熱力学的な暴挙にもほどがあるぞ……』
空間全体から、だらしなくも底冷えするほど低い声が響き渡る。
次の瞬間、暗殺部隊長が展開した『無限の鍛錬場空間』の床や壁が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていった。
代わりに空間を激しく侵食してきたのは——地平線の彼方まで見渡す限り続く、フカフカの白い綿布団。巨大な『万年床』であった。
『な、なんだと!? 我が構築した絶対の悪夢空間が、ただの白い布団に上書きされていく!?
バカな、恐怖がない!? 怒りもない!? 欲望すらも存在せんというのか!?』
暗殺部隊長は愕然と目を見開いた。
綿布団の一部がモゾモゾと隆起し、そこからボサボサ頭のスエドが這い出してきた。
『屁理屈をこねてないで起き上がってスクワットを——』
『お前、自分が何をしているか分かってんのか? 睡眠というのは、脳の老廃物を促し、細胞を修復するための神聖な儀式だ。
それを邪魔して筋肉を破壊させようとするのは、環境破壊と同義だぞ』
『黙れ! 筋肉こそが正義! お前のその軟弱な精神を、大胸筋と共に鍛え直してやるのだ!
ほら、まずはプロテインを一気飲みして——』
『断る。俺はさっき、スネブに無理やり酸っぱいコンブチャを飲まされそうになって胃が荒れてるんだ。
そこに人工的なタンパク質の粉末を流し込めば、腸内フローラが全滅するだろ』
『腸内フローラだと!? 貴様、暗殺者の私を前になんという気の抜けたことを——』
『それにだ。夢の中で体を動かしても、現実の筋肉は一ミリも肥大化しない。
ただ脳波を疲労させて精神をすり減らすだけの、コスパ最悪の無駄行動だ。
二度寝の邪魔だけは、この世で絶対にやっちゃいけないことなんだよ。……永久追放だな』
スエドがボロ布団の中で呟いたその寝言は、世界の基幹システムに対する『絶対的な論理改変コマンド』として実行された。
『——言語コマンド【睡眠妨害の完全排除】を受理』
『——対象の精神負荷プロセスを反転。物理フィードバックを術者の脳髄へ直接出力します』
次の瞬間、暗殺部隊長の精神アバターに異変が起きた。
『あ……あだだだだ!? ギャアアアッ! 脳が……!? 筋トレの反動が、筋肉じゃなくて直接脳にぃぃぃぃ!?』
他者に強制しようとしていた「スクワット千回分」の途方もない物理疲労と乳酸の蓄積が、術式を逆流して暗殺部隊長自身の脳細胞へとダイレクトに叩き込まれたのだ。
『助けてくれぇぇぇ! もうスクワットしたくない! 一生布団の中にいたいよおおおかあさぁぁぁあん!!』
過剰な精神逆流を起こした暗殺部隊長の脳は、完全なるオーバーヒートを起こし、一瞬にして自滅した。
(後編へつづく)




