ホログラムの誘惑(前編)
ゴゴゴゴゴ……と、心地よい重低音が白銀の床を微かに揺らしている。
時速六十キロ。
『可動式神殿』の主機たる万年床型自走コックピットは、第2結界関門を透過・突破し、西の諸国連合境界線へ向かって快適な爆走を続けていた。
……が、その中央に位置する俺——スエドの自堕落な生活スタイルは、今日も今日とて1ミリも進歩していなかった。
「……ふむ。やっぱり元引きこもりニートが転生して、異世界で魔法なんかに本気で取り組むアニメは名作だな。
だが、何度観ても解せないね。俺から言わせてもらえば、むしろ退化だよ。せっかく異世界に行ってまで『本気出す』なんて方向性自体、正気の沙汰じゃないね。
前世の反省を生かすというのなら『今度こそ一生布団から出ない』ことこそが、正しい人間の進歩じゃないか」
豪華な白磁の大理石の床の中央。
ポツンと取り残されたボロい木の板間と、万年床のボロ布団。
俺はその煎餅布団の中から手だけをヌッと出し、魔法結晶テレビの画面をしみじみと見つめながら、袋から取り出した『不気味な黒い果実』をポリポリと口に放り込んでいた。
「だろ、ピヨちゃん。この不気味な見た目と、ねっとり怪しい甘み……包丁も皿も洗剤も要らず、寝たまま袋から口へ放り込むだけで完結するこの極限のジャンク感こそが、自堕落を極めた人間の至高の正義だよ。
一度死んでまでまた働こうなんて、熱力学的に見てもエネルギーの二重浪費であり、人生に対する冒涜だね」
「ピヨッ!」
肩の上の羽毛生物——ピヨちゃんが、器用な前脚で不気味な黒い果実をひとかけらつまみ、同意するように短く鳴いた。
俺が再び布団を頭までかぶり直し、至福の二度寝に入ろうとした——まさにその瞬間だった。
バターンッ!!!
走行中の重厚な大理石の扉が、外れるほどの勢いで容赦なく叩き開けられた。
「——ス! エ! ド! 時速六十キロで爆走してる部屋の中で、寝転がってボリボリ変なもの食べながら、またおっさんニートのアニメ観てんじゃないわよーーーっ!!
本当にあなたって人は、異世界に行ってまでサボる口実探してんじゃないわよバカ!!」
仁王立ちで怒鳴り込んできたのは、同居人の美少女・スネブだ。
胸元にほつれた天体刺繍が浮かぶ、ヨレヨレのパジャマ姿。だがその両手には、湯気を吹くオーガニックボウルと、ドロリと重い濃緑色の『特製生搾りケール原液』が凶器のように携えられている。
「ピヨッ!? ギニャアアッ!?」
緑色の凶悪な香気とスネブの大声に恐怖したピヨちゃんは、秒で俺のダボついた上着の袖の中へとダイブし、ブルブルと小刻みに震え出した。
「いい加減にしなさーい! 朝の太陽を浴びて、抗酸化作用たっぷりのスーパーフードを摂取するのが人間の正しい朝でしょうが!
食は命の源なのよ! 変なものばっかり食べてたら栄養が偏るでしょ!」
「嫌だね。俺は移動中も布団から一ミリも動かないよ。移動は神殿が勝手にやってくれてるんだ。
移動中に自らの足で立ち上がって動くなんてのは、エネルギーの無駄遣いであり、熱力学第二法則に対する重大な冒涜なのだよ」
「なに、また都合よく熱力学持ち出してんの!! ほら、私が朝の五時から仕込んだ『蒸しキヌアとアボカドのローフードボウル』よ!
それと罰として、朝イチ生搾りの『濃縮ケール酵素エキス・百パーセント原液』を一気飲みしなさーい!」
「なっ……朝の五時!? 君は太陽より早起きしてそんな手間暇をかけているのか!? 狂気の沙汰だ!
……ギ……ギャアアアアッ!? ケール!? ケール原液だけはご容赦をぉぉぉ!!」
俺は顔を絶望に歪め、大根役者も真っ青な棒読み悲鳴をあげながら、差し出されたケール汁のグラスを奪うように受け取った。
そして、ゴクッ、ゴクッ、と一気に喉へと流し込む。
(……うひょーっ!! 無添加・無塩・生搾り百パーセントの超高濃度酵素!! 五臓六腑に生きたビタミンが染み渡るぜ……!)
「くはぁっ……生きたビタミンが効くぅ〜〜……っ!(※お約束の心の声)」
「フフン! 泣くほど嫌がってるわね!
これに懲りたら大人しくローフードボウルを召し上がりなさーい!」
スネブは胸を張り、ドヤ顔で勝利の笑みを浮かべた。
なんやかんや言いながらも、毎朝まるでお母さんのようにスエドの世話を焼くスネブである。
「スエドはケールが大嫌い」という思い込みを利用し、まんまと至福の超高濃度酵素を毎朝タダで補給している俺の完全勝利である。もちろん、彼女がそれに気づく日は永遠に来ない。
俺が空になったグラスを置き、口元を拭っていた——その時だった。
「——ロード・スエド。巡幸航路の経過報告に伺いました」
白衣に銀縁メガネの紳士——ヴァルカンが、手に厚い手帳を携えて優雅に歩み出てきた。
その顔には、隠しきれない興奮と歓喜の笑みが浮かんでいる。
「本神殿『キャンピング・パレス』は、第2結界関門を浮遊城のごとく円滑に通過後、目標である西方諸国連合境界線へ向け、極めて順調に巡航速度を維持しております!
まさに全知全能の御業! 布団から一歩も出ずに関門をすり抜けるお姿、このヴァルカン、感涙にむせび泣く思いでございました!」
「ご苦労さま、ヴァルカン。このまま誰もいない安全な街道をダラダラ走ってくれ。
俺は二度寝に戻るから」
まさに俺がボロ布団に潜り込もうとした、その瞬間だった。
ザザッ……ジジジッ……!
壁に設置された魔法結晶テレビの画面が、突如として激しいノイズに見舞われた。
おっさんニートのアニメ画面が掻き消え、ノイズが収まると——そこに映し出されたのは、透き通るような白銀と蒼の光粒子で構成された、一人の青年の立体映像だった。
緩やかに波打つ金髪に、吸い込まれそうな青い瞳。
完璧な立ち姿と、眩しいほど爽やかで仕立ての良い衣装を纏ったその青年は、完璧なスマイルを浮かべて画面越しにこちらを見つめていた。
『——やあ、久しぶりだね、スエド。
いや、今はその名で呼ばれているのだったね。元気そうで何よりだ』
(後編へつづく)




