EP 2
頭の中に石を積むな!『全タスクの吐き出し(ブレインダンプ)』
「うわああああっ――!!」
絶叫とともに跳ね起き、ジリリリリと耳を劈く目覚まし時計のストップボタンを叩き止めた。
激しい動悸。背中にはびっしょりと寝汗をかいている。
額を手で拭いながら、荒い息を整えた。
「……ゆ、夢か……?」
そうだ、夢に決まっている。
川でお地蔵様のマフラーを拾って、小春ちゃんに介抱されて、夜中に作務衣を着た筋骨隆々の頑固オヤジの幽霊が現れて額を殴られるなんて、連日の残業とストレスが生み出した荒唐無稽な悪夢に決まっている。
「はは……僕もいよいよ精神的にキテるな。お祓いでも行こうかな……」
陸が自嘲気味に呟き、よろよろと布団から出ようとした――その瞬間だった。
『誰が夢じゃと? 寝ぼけとる暇があったら、とっとと顔を洗ってこんか、大バカたれが!』
「ひゃああああっ!?」
心臓が喉から飛び出るかと思った。
六畳間の片隅、安物のちゃぶ台の前に、藍色の作務衣を着た丸坊主の巨漢――石頭岩造が、腕組みをしてどっかりと鎮座していたのである。
畳には影が落ちていない。やはり透けている。だが、その頑固そうなへの字口と、らんらんと金色に輝く眼光は、悪夢どころか朝の現実そのものだった。
「で、出たァァッ! 本物のお地蔵様……!? な、なんで朝になっても消えてないんですか!?」
『やかましい! 昨晩も言ったはずじゃ。わしに恩を売った貴様が無能のまま潰れるのは、わしのプライドが許さん! 今日から貴様の頭を土台から叩き直すと言ったであろうが!』
岩造が一喝すると、アパートの薄い壁がビリリと震えた。
時計を見れば、針は朝の六時五分を指している。家を出るまで、まだ一時間以上の余裕がある。
『おい陸、押し入れから使っとらん大学ノートと、油性の黒ペンを一本持ってこい』
「えっ……ノートとペン?」
『早くせんか! 一刻を争う戦の前じゃぞ!』
雷のような怒声に急かされ、陸は慌てて押し入れを漁り、就活時代に余らせていた分厚いA4の大学ノートと黒のボールペンを引っ張り出した。
ちゃぶ台の前に正座させられ、ノートを広げる。岩造は太い腕を組み、上から陸を見下ろした。
『よし。今から貴様が抱えておる「気にかかっとること」を、残らずその紙の上に吐き出せ』
「吐き出す……って、仕事の予定ですか?」
『予定だけではない。仕事のタスク、今日やらねばならんこと、気になっとる懸念、不安、果ては「トイレットペーパーを買い忘れた」という私生活の瑣事まで、頭の中のモヤモヤを一切合切、すべて文字にして外へ引っ張り出すんじゃ!』
陸は眉をひそめた。
「で、でも岩造さん。そんなことしてる時間があったら、昨日の伝票の段取りを頭の中で復習した方が……」
ゴツン!
「痛っ!?」
岩造の拳骨が、情け容赦なく陸の脳天に落ちた。
『また頭の中でこねくり回そうとしおって! 昨夜の話をもう忘れたか!』
岩造は太い指で陸のこめかみをトントンと叩いた。
『貴様の脳みそは、何かを「覚えておく倉庫」ではない! 石を加工し、判断を下すための「作業場」じゃ!』
「さ、作業場……」
『そうじゃ。作業台の上に「あれもやらなきゃ」「これも忘れたら怒られる」というガラクタの石が散らばっておるから、肝心の手元が狂うんじゃよ。人間の脳はな、頭の中に未完了の用事がある限り、無意識にそいつを握りしめ続け、莫大なエネルギーを浪費する生き物なんじゃ!』
――無意識に握りしめ続ける。
その言葉に、陸はハッとした。
確かにそうだ。
デスクに向かっていても、「あ、午後に静岡工場に電話しなきゃ」「そういえば課長に頼まれた備品の納期は?」「峰岸の見積書、いつまでに戻せばいいんだっけ」「家賃の引き落とし、残高足りてたっけ」――次から次へと無関係な雑念が湧き上がり、そのたびに集中が途切れていた。
『紙の上に吐き出して、「ここに書いてあるから忘れても大丈夫だ」と脳に確信させる。そうやって脳の作業台を完全に空っぽにする作業――これを世の賢者は「ブレインダンプ(脳の全排出)」と呼ぶ! 一滴も残さず、頭の膿を絞り出せ!』
岩造の気迫に押され、陸はペンを握りしめた。
カリカリ、とペン先が白い紙を削る音が、静かな六畳間に響き始める。
・静岡工場への資材納期変更伝票(至急・課長に提出)
・峰岸から頼まれた特注仕様書の見積もり確認
・カラーボックスの予備ネジの在庫伝票探し
・大手量販店向けの修正発注書の処理
・今日の朝礼の司会当番
・白石主任に聞きたい経費精算の締め日
・郵便物の仕分けと配布(午前中必着分あり)
・同期のLINEへの返信
・クリーニング屋にスーツを出す
・鬼頭課長に怒鳴られた時の胃のキリキリする痛み
・小春ちゃんにお礼のLINEを送るべきかどうか……
最初は仕事のタスクばかりだったが、書けば書くほど、心の底に沈んでいた細かい用事や、言い知れぬ不安までが数珠つなぎになって溢れ出てきた。
陸の手は止まらなかった。
殴り書きで、ページが黒く埋まっていく。
五分、十分……気がつけば、ノートまるまる二ページ分、五十項目近くの「石」が紙の上に転がっていた。
「……ふぅっ……」
書き終えてペンを置いた瞬間、陸は奇妙な感覚に襲われた。
(あれ……?)
頭が、驚くほど軽い。
いつもなら、朝起きた瞬間から頭の奥に鉛を詰め込まれたような重苦しい圧迫感があった。胸のあたりが常にソワソワとざわつき、「何か重大なことを忘れているのではないか」という漠然とした恐怖に怯えていた。
それが、綺麗さっぱり消え去っている。
自分の抱えている問題の「全容」が、目の前の紙の上にすべて可視化されたからだ。見えないお化けに怯えていたのが、ただの石の山だと分かった瞬間、恐怖は消え失せていた。
『……ふん。ようやく人間の顔色に戻ったな』
岩造がちゃぶ台の上のノートを満足そうに覗き込んだ。
『どうじゃ。頭の中にとどめておった時は底なし沼のようだった不安も、こうして外に出してみれば、たかが紙切れ二枚分の小石にすぎんじゃろ?』
「す、すごいです、岩造さん……! 本当に、頭の中の霧が晴れたみたいにスーッとしてます……!」
『当たり前じゃ! 脳を信頼するな、紙を信頼せよ! これこそが、散らかった現場を収める第一歩――「収集」の極意よ!』
岩造はニヤリと不敵に笑うと、すっと立ち上がった。
『さあ、メシを食って出陣じゃ! そのノートを肌身離さず持っていけ。今日の貴様は、昨日までのノロマとは一味違うぞ!』
午前八時十五分。
陸はアパートを出て、いつもの通勤路である川沿いの土手を歩いていた。
昨日の雨上がりの濁流はすっかり引いて、穏やかな水面が初夏の朝日にきらめいている。
土手の中腹に佇む小さなお地蔵様の前に差し掛かると、陸は足を止めた。
そこには、昨日泥水から救い出したあの赤いマフラーが、綺麗に泥を洗い流され、ふんわりと優しく巻き直されていた。
そして、お地蔵様の足元には、瑞々しい小ぶりなみかんが二つ、ちょこんとお供えしてある。
「……おはようございます、お地蔵様」
陸が思わず手を合わせた、その時だった。
「おはようございます、真壁くん!」
後ろから、鈴を転がすような明るい声が響いた。
振り返ると、淡いグリーンのブラウスに身を包んだ橘小春が、小走りで駆け寄ってくるところだった。
胸元の社章が朝の光を浴びてキラリと輝く。
「あ、橘さん! おはようございます!」
「昨日は本当にありがとうございました。風邪、引いてないですか? すごく心配で……」
「全然平気です! 橘さんがすぐに温かいタオルとお茶をくれたおかげです。本当に助かりました」
陸が頭を下げると、小春はほっと胸を撫で下ろし、それから嬉しそうにお地蔵様を見つめた。
「見てください、マフラー。昨夜、お家で丁寧に手洗いして乾かしたんです。今朝、出社前にお地蔵様に巻き直してあげたら、なんだかいつもより嬉しそうな顔をしてる気がして」
「あ、はは……そ、そうですね。すごく喜んでると思いますよ」
(昨晩、枕元で『極上の逸品じゃ!』って大はしゃぎしてましたからね……)
心の中で冷や汗をかきながら相槌を打つ。
すると小春は、陸の顔を覗き込み、ぱっと表情を明るくした。
「あれ? 真壁くん、なんだか今朝はすごくスッキリしたお顔をしてますね。昨日あんなに大変だったのに」
「えっ、分かりますか?」
「うん! いつも眉間にギュッと力が入ってたのに、今日は目がキラキラしてます。……ふふ、今日も一日、お互い頑張りましょうね!」
小春の屈託のない満面の笑顔に、陸の胸がトクンと跳ねた。
昨日までの自分なら、上司への恐怖で胃を痛めながら歩いていたはずの通勤路が、まるで別世界のように鮮やかに映る。
「はい! 頑張ります!」
大和リビング本社ビル、四階の業務管理課フロア。
始業のチャイムが鳴ると同時に、オフィスはいつものように戦場と化した。
カタカタカタと激しく鳴り響くキーボードの打鍵音。あちこちで鳴る電話のコール音。
隣の席では、指導係の白石主任が目の下に隈を張り付かせ、書類の山に埋もれながら受話器を肩に挟んで猛烈な勢いでマウスを動かしている。
陸はデスクに着くと、ポケットから今朝の大学ノートを取り出し、キーボードの手前に広げた。
いつもなら、席に着いた瞬間に「何から手を付ければいいんだっけ!?」とパニックに陥り、視界に入った書類から無作為に手をつけては他人の依頼に振り回されていた。
だが、今の陸の手元には、今朝ブレインダンプによって吐き出された五十項目の「全タスクリスト」がある。
(まずは、一番上に書いてあるこれだ……!)
陸はペンを握り、リストの最優先事項――『静岡工場への資材納期変更伝票』に赤丸をつけた。
集中した。
頭の中に「あれもやらなきゃ」という雑音は一切ない。すべての懸念はノートが覚えてくれている。今の自分の脳は、目の前の一枚の伝票を処理するためだけに100%の処理能力を使えていた。
キーボードを叩く指が、昨日とは比べ物にならないほど滑らかに動く。
静岡工場のFAXを確認し、システムに品番を入力し、確認印を押す。
わずか十五分。
昨日あんなに手こずっていた伝票が、完璧な形で仕上がった。
陸はノートの該当タスクに、サッと赤線で取消線を引いた。
(消えた……! タスクが一個、確実に消えたぞ!)
その瞬間、胸の奥からじわじわと湧き上がる強烈な達成感。
いつもは「何が終わって、何が終わっていないのか」すら分からずに一日を終えていたのだ。自分の手で仕事をコントロールできているという実感が、これほど心地よいものだとは知らなかった。
そこへ――。
ドカドカと重い足音を響かせ、総務部の暴君・鬼頭課長が出社してきた。
デスクに着くや否や、腕まくりをしてフロアを見渡し、いつものように苛立たしげに怒鳴り声をあげる。
「おい真壁! 昨日の静岡工場の納期伝票、どうなってんだ! 朝イチで出せって言ったよな!?」
フロアの空気がピキリと凍りつく。
周囲の社員たちが「また新卒が詰められている」と哀れみの視線を向けてくる。
だが、今日の陸は、縮こまりもしなければ、真っ白になってフリーズもしなかった。
陸はすっと立ち上がると、クリアファイルに収めた書類を両手で持ち、迷いのない足取りで課長のデスクへ歩み寄った。
「鬼頭課長、静岡工場向けの納期変更伝票、こちらに起票完了しております。工場の承認FAXの控えも添付してありますので、ご確認をお願いします」
「……あ?」
鬼頭課長が目を丸くし、突き出されたファイルをひったくるように受け取った。
老眼鏡をクイと押し上げ、書類の隅々までチェックする。
「……品番のミスはねえだろうな」
「はい。昨日のうちに静岡工場の担当者・佐藤様と電話で突き合わせを済ませておりますので、数量・納期ともに相違ありません」
「…………」
鬼頭課長は何か文句をつけてやろうと粗を探すように眉根を寄せていたが、完璧に整えられた伝票を前に、やがてフンと短く鼻を鳴らした。
「……おう。わかればいいんだよ、わかれば」
課長はそれ以上一言も怒鳴ることなく、伝票にドンと承認印を押した。
(勝った……!!)
陸は心の中で、小さくガッツポーズを握りしめた。
いつもなら朝から二十分は怒鳴り散らされ、精神を削られていたはずの時間が、わずか三十秒で片付いてしまったのだ。
デスクに戻ると、隣でカタカタとPCを叩いていた白石主任が、信じられないものを見るような目で陸を凝視していた。
「……真壁くん、どうしたの?」
「えっ、何がですか?」
「いや……いつもなら課長に話しかけられただけでパニックになってたのに、今日はすごく落ち着いてるし……っていうか、あの伝票、昨日の夕方に頼まれたやつでしょ? もう終わってたの?」
「あ、はい! 今朝、頭の中のやること全部ノートに書き出してみたら、意外とすぐ片付きそうだなと思って」
白石は陸のデスクの上に広げられた、赤線の引かれたノートをちらりと見た。
それから、深く刻まれた目の下の隈の奥で、少しだけ目を見張り、ポツリと呟いた。
「……ふーん。やるじゃない」
入社して三ヶ月。
「無能」「給料泥棒」と罵られ、誰からも評価されなかった陸の背中に、初めて指導係からの肯定的な言葉がかけられた瞬間だった。
その日、陸は一度も「忘れ物」や「手戻り」を起こさなかった。
内線電話が入ればリストに書き加え、終われば赤線で消す。
ただそれだけの「仕組み」が、自分をこれほどまでに守り、強くしてくれるとは思いもしなかった。
(岩造さん……僕、やれましたよ)
窓の外を見上げれば、初夏の澄み切った青空が広がっている。
昨日までの泥沼から、自分の足で一歩、確実に抜け出した確信がそこにあった。
【岩造の石頭メモ】
・脳は「考えるための作業場」であって「覚えるための倉庫」ではない。未完了のタスクはすべて紙の上に吐き出せ(ブレインダンプ)。
・頭の中にある不安や仕事の全容を可視化することで、脳のメモリ(作業台)が100%解放され、目の前の作業速度が劇的に跳ね上がる。
・自分の記憶力というあやふやな泥を信じるな。書き出された「紙の石垣」だけを信頼せよ。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




