EP 3
理不尽な詰めを30秒で封じる!『PREP法の鉄則』
「おい陸、紙一枚の伝票が通ったくらいで、鼻の下を伸ばしとるんじゃないぞ」
その日の深夜、築三十年のアパート。
シャワーを浴びて布団に入ろうとした瞬間、部屋の隅の暗がりから、ドス利いた野太い声が響いた。
パチリと部屋の電灯をつけると、ちゃぶ台の前に藍色の作務衣を着た頑固オヤジ――石頭岩造が、仁王立ちで腕を組んでいた。相変わらず影はなく、半透明の巨体からは線香と古寺の土の匂いが立ち込めている。
「うわっ、岩造さん! 今日も出た……!」
『出たとはなんじゃ、出たとは! わしが朝から知恵を授けてやったおかげで、今日は一度も怒鳴られずに済んだのだろうが!』
「それは本当に感謝してます! ブレインダンプ、本当にすごかったです。頭の作業台が空っぽになるって、あんなに仕事が楽になるんですね」
陸が心から頭を下げると、岩造はフンと誇らしげに鼻を鳴らした。
だが、次の瞬間、そのらんらんと金色に光る眼光がぎろりと陸を射抜いた。
『喜ぶのはまだ早い。今日の貴様は、手元の小石を片付けたにすぎん。明日の朝、あの怒鳴り散らす上司が別の難癖をつけてきたらどうするつもりじゃ?』
「えっ……そ、それは……状況をちゃんと説明して……」
ゴツン!
「痛っ!?」
予告なしに飛んできた岩造の拳骨が、陸の額にめり込んだ。
『バカたれ! その「状況を説明する」という甘っちょろい考えが、火に油を注ぐんじゃ!』
岩造は太い指を突きつけ、陸の鼻先に迫った。
『思い出してみろ。貴様が上司に詰められた時、いつもどんな口の利き方をしておる?』
「え……ええと、『すみません、実は静岡工場に確認したんですけど、佐藤さんが席を外してて、それから営業の峰岸くんにも連絡を入れたんですが、仕様書の修正がまだ届いていなくて、それでですね……』みたいな?」
『それじゃ! その言い草じゃ!』
岩造が雷のような怒声をあげ、ちゃぶ台をバンと叩いた。
『聞いとる側からすれば、貴様が何を言い訳しとるのか、結局どうなったのかがサッパリ分からん! 人間、特に忙しくてイライラしとる上司はな、「経過」や「言い訳」を聞かされる時間が一秒伸びるごとに、怒りの炎が三倍燃え上がる生き物なんじゃよ!』
陸は思わず息を呑んだ。
確かにその通りだった。鬼頭課長に何かを訊かれるたび、怒られる恐怖から保身に走り、無意識に「自分が悪くない理由」や「これまでの経緯」からダラダラと喋り始めていた。
その結果、課長はいつも途中で机を叩き、「言い訳はいいから結論を言え!」と怒鳴り散らしていたのだ。
「じゃあ……どうすればいいんですか? 怒ってる相手に、どう話せば……」
『石を投げるなら、まず一番重くて硬い石――「結論」を最初に相手の眉間に叩き込め!』
岩造は空中を太い指で指し示し、四つの文字を宙に描くように並べた。
『戦におけるロジカルな伝達の型――それが【PREPの法】じゃ!』
「プレップ……?」
『そうじゃ。一、P(Point:結論)。まず相手が一番知りたい「結果」を言え。
二、R(Reason:理由)。なぜその結論になったのか、理由を簡潔に添えよ。
三、E(Example:具体例・根拠)。数字や具体的なデータで補強せよ。
四、P(Point:結論・次の行動)。最後にもう一度結論を締め、相手にどうしてほしいかを告げる!』
岩造の教えが、陸の頭の中で鮮やかに組み上がっていく。
『結論から話されると、上司の脳みその「作業台」には、まず結論という土台の石がドンと乗る。土台が固まっとるから、その後に乗せる理由や具体例がすんなり収まるんじゃ。逆に経過から話す奴は、宙に浮いた小石を相手の頭にバラバラ投げつけとるようなもの。イライラして叩き落とされるのは当たり前じゃろうが!』
「結論、理由、具体例、結論……」
『その順序を絶対に崩すな! 言い訳したくなったら唇を噛み、まず「結論から申し上げます」と口火を切れ。三十秒でケリをつけろ! 小春ちゃんのためにも、明日はあの怒鳴りオヤジを完膚なきまでに沈めてこい!』
「……はいっ!!」
翌朝、午前九時五分。
大和リビング本社ビル四階、総務部業務管理課のフロアは、始業直後から不穏な重圧に包まれていた。
ドカドカドカ、と廊下を揺らす足音。
営業フロアから戻ってきた鬼頭課長が、般若のような形相で業務管理課の扉を乱暴に開け放った。
手には、赤ペンで殴り書きされた書類が握りしめられている。
「おい真壁ぇぇぇっ!!」
金属音のような怒号がフロアを切り裂いた。
キーボードを叩いていた社員たちの手がピタリと止まる。隣の白石主任が小さく肩を竦め、目を伏せた。
鬼頭課長は陸のデスクへ大股で詰め寄ると、バンッ!と書類を叩きつけた。
「てめえ、何やってんだ! 昨日頼んでおいた大手量販店向けカラーボックスの予備ネジ、在庫の伝票どこやったんだよ! 今さっき営業の原田課長から『まだ倉庫から出荷指示が出てねえぞ!』って怒鳴り込まれたぞ! お前、また仕事をサボって放置してたんじゃねえだろうな!?」
理不尽な決めつけ。唾が飛んでくるほどの至近距離からの威圧。
いつもなら、この瞬間に陸の心臓は激しく跳ね上がり、頭の中が真っ白になっていたはずだった。
「す、すみません、それは営業の峰岸くんから連絡が遅れて、倉庫のシステムが……」と、聞かれもしない言い訳を口走って火に油を注いでいただろう。
だが――今の陸の胸の奥には、昨夜叩き込まれた「冷徹な石組みの型」があった。
(落ち着け。言い訳をするな。最初に一番重い石を投げるんだ……!)
陸は背筋をピンと伸ばし、怒り狂う鬼頭課長の目をまっすぐに見据えた。
そして、淀みのない、よく通る声で言い放った。
「――結論から申し上げます」
「あ……?」
鬼頭課長の怒声がピタリと止まり、拍子抜けしたように眉が跳ね上がった。
陸は間髪容れずに言葉を続ける。
「大手量販店向けの予備ネジ伝票はすでに処理完了しており、春日部倉庫からの出荷は本日午後十四時に確定しております」
鬼頭の目が丸くなる。
フロア中の耳が、陸の言葉に集中した。
「理由は、今朝一番で春日部倉庫の入出庫ラインの空き枠を押さえ、特急枠としてシステム承認を通したためです」
(PointからReason。次はExample、具体的な事実だ!)
陸はデスクの引き出しから、事前に印刷してあった一枚の控えをすっと差し出した。
「具体的には、昨夕の段階で営業の峰岸から修正依頼を受領後、すぐに春日部倉庫の担当・中村様と連携し、予備ネジ五百セットの現品を確保しました。こちらの伝票番号『KB-8821』にて、すでにピッキング作業に入っております。社内ポータルのステータスも『出荷準備中』に更新済みです」
数字、担当者名、伝票番号。
反論の余地のない「客観的事実」が、流れるようなテンポで鬼頭課長に突きつけられる。
そして陸は、わずか三十秒の報告を、完璧な最後の一言で締めくくった。
「したがいまして、営業の原田課長へは『十四時に予定通り出荷されるため、納期の遅延は一切発生しない』とご報告いただければ問題ございません。課長、こちらが控えの伝票です」
すっと差し出されたA4の紙。
鬼頭課長は、口を半開きにしたまま固まっていた。
「お前がサボっていたんだろう」と怒鳴りつける気満々で振り上げた拳を、完全に宙に浮かせられた格好だ。
「ぐ……ぐぬ……っ」
鬼頭の喉から、押し殺したような呻き声が漏れる。
老眼鏡の奥の目を泳がせ、突き出された伝票の日時と承認印を凝視するが、どこにも突っ込みどころがない。
完璧だった。
言い訳は一言もなく、結論は明快で、証拠は手元にあり、上司が次に取るべきアクションまで綺麗に整えられていた。
「…………っ、あ、あいつ……原田のやつ、確認も取らねえで騒ぎ立てやがって……!」
真っ赤になった顔の行き場を失った鬼頭課長は、伝票をひったくるように掴むと、バツが悪そうに背を向けた。
「……ふ、フン! わかってんなら、最初からそう言え! ……原田に伝えてくる!」
吐き捨てるように言い残し、課長は早足で営業フロアへと引き返していった。
その背中は、先ほどまでの威圧感が嘘のように小さく見えた。
静寂。
しん、と静まり返った業務管理課のフロアに、カチリと時計の針が進む音だけが響く。
やがて――。
「……ぷっ」
隣の席から、堪えきれないような小さな吹き出し声が漏れた。
見れば、指導係の白石主任が、手で口元を押さえながら肩を小刻みに揺らしていた。
目の下に濃い隈を貼り付けた普段の険しい表情は消え失せ、驚きと痛快さが入り混じった顔で陸を見つめている。
「ちょっと、真壁くん……今の、何……?」
「えっ、白石主任?」
「あの鬼頭課長を……あの怒鳴り散らすことしか能がない猛獣を、たった三十秒で完全に黙らせたじゃない! 『ぐぬ』って言ってたわよ、あの人!」
白石の言葉を皮切りに、フロアのあちこちから、ひそひそとしたざわめきが広がった。
『おい、見たかよ今の新卒……』
『課長の怒鳴り込みを、一歩も引かずに数字で跳ね返したぞ……』
『いつもビクビクしてた真壁くんが、別人のようだわ……』
周囲の先輩社員たちから注がれる視線が、昨日までの「無能を見る哀れみの目」から、「畏敬の念を帯びた眼差し」へと明らかに変化していた。
(勝った……! 本当に、三十秒で封じ込めた……!)
陸は机の下で、拳をぎゅっと握りしめた。
全身からじわじわと鳥肌が立ち、熱いものがこみ上げてくる。
理不尽な怒号に怯え、謝ることしかできなかった自分が、言葉の「型」一つで、これほどまでに鮮やかに現実をねじ伏せることができたのだ。
「真壁くん!」
ふいに、フロアの入り口から澄んだ声が響いた。
見ると、資料のファイルを胸に抱えた橘小春が、目を丸くして立っていた。商品企画部からの届け物に来ていたらしい。
「た、橘さん……見てたの?」
「うん! すごかった……! 真壁くん、すごく落ち着いてて、ビシッと説明してて……すっごくかっこよかったです!」
小春は頬をほんのり桜色に染め、両手をきゅっと握って満面の笑顔を向けてくれた。
その笑顔の眩しさに、陸は思わず耳まで真っ赤になってしまう。
「あ、ありがとう……。たまたま、準備してただけだよ」
「ううん、たまたまなんかじゃないよ。……私、すごく勇気もらっちゃいました。私も企画部で、自分のデザインをちゃんと説明できるように頑張らなきゃ!」
小春は嬉しそうに微笑むと、小走りでフロアを出ていった。
その背中を見送りながら、陸は胸の奥が熱く高鳴るのを感じていた。
(岩造さん……伝わりましたよ。あなたの石組みは、本当に最強の武器です)
心の中で呟いたその時、ふと脳裏に、腕組みをして満足そうにニヤリと笑う頑固オヤジの幻影が見えた気がした。
【岩造の石頭メモ】
・怒っている上司に経過や言い訳から話すな。火に油を注ぐだけだ。
・報告はPREP法(結論→理由→具体例→結論)の型を徹底せよ。一番重い石(結論)を最初に置くことで、相手の脳に揺るぎない土台が組まれる。
・数字と固有名詞という「客観的事実」を揃えれば、感情論の怒号は三十秒で完封できる。
読んでいただきありがとうございます。
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