第一章 己の泥沼脱出と最速の逆転【超速セルフマネジメント編】
ずぶ濡れの新卒と、赤いマフラーのお地蔵様
「おい真壁! さっき頼んだ静岡工場への伝票、まだ上がってねえのかよ!」
夕方五時過ぎ、終業時刻が近づきざわめき立つフロアに、金属を擦り合わせたような怒号が響き渡った。
机の島からぬっと顔を突き出したのは、総務部業務管理課の課長・鬼頭義人だ。腕まくりした白シャツの袖から伸びる太い腕が、苛立たしげにデスクを叩く。
「す、すみません! いま、営業の峰岸から急ぎの見積書確認を頼まれていて……!」
「言い訳すんな! どっちも急ぎに決まってんだろ! 気合が足りねえんだよ、気合が! お前、入社してもう三ヶ月だぞ? いつまで学生気分でノロマやってんだ!」
――気合、と言われても。
真壁陸は、縮こまりながら手元の書類に視線を落とした。
机の上は、まさに戦場だった。
左側には営業から回ってきた未処理の特注仕様書が雪崩を起こしかけ、中央には静岡工場からFAXで届いた資材納期変更の山。右側では社内ポータルの承認依頼が赤い未読通知を点滅させ、そこへ追い打ちをかけるように、プルルルとけたたましく内線電話が鳴り響く。
『真壁くん、さっきのカラーボックスの予備ネジ、在庫の伝票どこやったの?』
『陸、悪い! 大手量販店向けの修正発注、五分で回してくれ!』
頭の中で、ブツンと音がした。
思考が完全に真っ白になる。
何をどこから手をつければいいのか分からない。あれもやらなきゃ、これも返事しなきゃ、課長の伝票も作らなきゃ――同時並行で押し寄せるタスクの波に溺れ、指先がキーボードの上で宙に浮いたまま凍りついてしまう。
「……ったく、使えねえな。給料泥棒が」
鬼頭課長が吐き捨てた低い舌打ちが、耳の奥に突き刺さった。
隣の席の指導係、白石主任は目の下に濃い隈を張り付かせ、自分の画面を鬼気迫る形相で叩き続けていて、こちらを見る余裕すらない。
結局、その日も怒鳴られ、平謝りし、他人の尻拭いに追われ、気がつけば外はすっかり藍色の夜に沈んでいた。
「はぁ……っ」
大和リビングの本社ビルを出た瞬間、肺の底に溜まっていた重苦しい泥のような息が漏れ出た。
梅雨上がりの湿った夜風が、火照った頬を撫でる。
駅へと向かう道すがら、陸はとぼとぼと俯いて歩いた。
真面目にやろうとしている。手も抜いていない。誰かの役に立ちたくて、頼まれた仕事は全部引き受けてきた。それなのに、やればやるほどミスが増え、空回りし、最後は怒鳴られて終わる。
(僕って……本当に無能なのかな)
自嘲気味に呟いたその時だった。
突風が吹き抜け、川沿いの暗がりからパサリと何かが舞い上がった。
「わっ……!?」
思わず顔を覆った陸の視界を、鮮やかな「赤」が横切る。
それは、通勤路の土手沿いにひっそりと佇む、小さなお地蔵様の首元に巻かれていた手編みの赤いマフラーだった。
雨風に打たれ、少し色褪せてはいるものの、誰かが心を込めて編んだことがひと目でわかる温かいマフラー。それが風に煽られ、黒々とうねる川面へとひらひらと落下していく。
「あっ、危ない――!」
考えるより先に、足が動いていた。
要領が悪く、仕事の段取りはからきしダメな陸だったが、目の前で失われようとしているものを見過ごせないお人好しな性分だけは、生まれつきのものだった。
土手の急斜面を、革靴の踵で強引に滑り降りる。
前日までの雨で緩んだ泥に足を取られ、ズボンの膝から派手に滑落した。
「うわっ、冷たっ……!」
水深は腰ほどだったが、濁流の冷気と川底のヘドロが、安物のスーツを容赦なく呑み込んでいく。
足を取られ、流されそうになりながらも、陸は必死に腕を伸ばした。
水面を漂い、沈みかけていた赤い布の端を、泥だらけの指先でぎゅっと掴み取る。
「と、取れた……!」
息を切らしながら、陸はずぶ濡れの土手へ這い上がった。
仕立てたばかりのリクルートスーツは泥水で茶色に染まり、革靴はぐちゅぐちゅと音を立てている。スマホは無事だったが、惨めな姿だった。
何をやってるんだろう、僕は。明日も早いのに、こんな川に飛び込んで、マフラー一枚のために……。
情けなさと寒さで奥歯がガチガチと鳴りかけた、その時だった。
「――大丈夫ですかっ!?」
土手の上から、澄んだ声が降ってきた。
街灯の逆光を背負って、小走りに駆け寄ってくる人影があった。
ふんわりとしたオフホワイトのカーディガンを羽織り、胸元に社章を光らせた女性――同期で、商品企画部デザイン課に配属された橘小春だった。
「た、橘さん……?」
「真壁くん!? どうしてそんな……全身ずぶ濡れじゃないですか!」
小春は目を丸くし、慌てて自分のバッグから取り出した清潔なタオルを陸の肩にふわりとかけた。石鹸のような柔らかい香りが、泥臭い川の匂いをふっと打ち消す。
「これ、使ってください! あ、温かいお茶もありますから!」
自販機で買ったばかりとおぼしきホットのほうじ茶を手渡され、陸の冷え切った指先にじんわりと熱が戻ってきた。
「あ、ありがとう……。ごめん、見苦しいところを。その……お地蔵様のマフラーが川に落ちそうだったから、つい」
陸が申し訳なさそうに、泥を払った赤いマフラーを差し出すと、小春は息を呑み、それから泣きそうに眉を下げて微笑んだ。
「……それ、私が編んだんです」
「えっ?」
「昨日、寒そうだったから巻いてあげたんです。毎朝、お参りしてるから……。真壁くん、それを助けてくれたんですね」
小春は両手でマフラーを受け取ると、愛おしそうに胸に抱きしめた。
そして、ずぶ濡れの陸をまっすぐに見つめ、花がほころぶような笑顔を向けた。
「真壁くんって、本当に優しい人なんですね。……私、すごく嬉しいです」
その笑顔を見た瞬間、オフィスで鬼頭課長に浴びせられた怒号も、「無能」「給料泥棒」という呪いの言葉も、すべて胸の奥で音を立てて溶けていくような気がした。
泥だらけで、寒くて、情けない一日だったはずなのに。
胸の奥だけが、ぽかぽかと温かかった。
――だが。
その温もりは、数時間後の深夜、無残にも粉砕されることになる。
「ごほっ、ごほっ……」
築三十年、六畳一間のアパート。
温かいシャワーを浴びて泥を落とした陸は、疲労困憊のまま布団に倒れ込み、泥のように眠っていた。
深夜二時。
突如、部屋の空気が鉛のように重くなった。
ズズズ……と、畳が軋むような地鳴りが響く。
(……金縛り……?)
目を開けようとしても、瞼が岩のように重くて動かない。
胸の上に、数百キロの巨石をドンと乗せられたような強烈な圧迫感。息が吸えない。苦しい。
ゴロゴロ……と、喉を鳴らすような低い音が暗闇に響いた。
『おい、陸』
雷が落ちたような、低く、しゃがれた野太い声が脳髄に直接響き渡る。
『いつまで惰眠を貪っとるんじゃ、この大バカたれが!!』
「ぎゃあっ!?」
目蓋が強制的に跳ね上がった。
心臓が跳ね上がり、陸は飛び起きようとしたが――体がぴくりとも動かない。
部屋の中央、安物の敷布団の真上に、それは「浮いて」いた。
着古した藍色の作務衣を纏い、太い腕を胸の前で組んだ、筋骨隆々の頑固オヤジ。
頭部は完全に丸坊主で、まるで川原の巨岩を削り出したかのような角張った輪郭。顔中には無数の深い皺が刻まれ、太い眉の下から覗く眼光は、暗闇の中でらんらんと金色に光っていた。
「ひ、人……!? ど、泥棒……!?」
『泥棒だと!? 無礼千万な小僧め! わしを誰じゃと思うとる!』
オヤジが一喝すると、ビリビリと部屋のガラス窓が震えた。
『夕暮れ時、貴様が川から拾い上げたマフラーの主よ! あの道端で数百年間、人間の営みを眺め続けてきた石地蔵の化身――石頭岩造じゃ!!』
「お、お地蔵様ァァッ!?」
陸の悲鳴が夜のアパートに木霊した。
お地蔵様といえば、普通は穏やかな顔で民を見守る菩薩のような存在ではないのか。目の前にいるのは、どう見ても昭和の解体工事現場を牛耳る頑固親父そのものだ。
岩造はフンと鼻を鳴らし、陸の枕元へどかりとあぐらをかいて座り込んだ。
その巨体からは、線香の香りと、雨上がりの濡れた土の匂いが立ち込めている。
『……まあよい。あの赤いマフラー、小春ちゃんがわしの冷えた首元を案じて、ひと目ひと目編んでくれた極上の逸品であった』
急に岩造の声がデレけた。
だが、次の瞬間、その鋭い眼光が再び陸を射抜いた。
『そのマフラーを濁流から救い上げた貴様の根性だけは、褒めてやる。……じゃがな、陸!』
ゴツン!
「痛ってぇぇぇっ!?」
岩造の巨大な拳骨が、陸の額にめり込んだ。
霊体のはずなのに、まるで墓石で殴られたような容赦のない激痛が走る。
『貴様の今日の働きぶりは、なんじゃあの無様さは!!』
「な、なんで会社のことまで知ってるんですか……!」
『見とるわ! 川沿いを通る貴様の背中から、負け犬の腐ったオーラが立ち込めておったわ! 上司に怒鳴られ、電話に怯え、机の上の紙を右から左へ動かすだけで一日を終えおって!』
図星を突かれ、陸はぐうの音も出ない。
『おい陸、貴様は「気合が足りないから仕事が終わらん」と本気で思っとるのか?』
「え……? だ、だって、鬼頭課長がそうやって……」
『あの上司も大バカたれじゃ!』
岩造は一喝し、太い指で陸のこめかみを乱暴に小突いた。
『気合で仕事が片付くなら、念仏を唱えれば城が建つわ! 貴様の頭が真っ白になったのは、気合が足らんからではない。脳みそという名の「作業台」の上に、石を際限なく積み上げすぎたんじゃ!』
「さ、作業台……?」
『そうじゃ! 人間の脳が一度に覚えておけることなど、せいぜい三つか四つが限界なんじゃよ! それを貴様は、課長の伝票、営業の仕様書、工場のFAX、電話の伝言……全部を頭の中の狭い台の上にそのまま放り込みおった!』
岩造の言葉が、不思議なほどすんなりと陸の頭に染み込んでいく。
『台の上が石で埋まれば、新しい石を加工する隙間などあるわけがなかろうが! 作業台が埋まってフリーズした間抜け面に、貴様の上司は「ノロマ」と怒鳴り散らした。違うか!』
「そ、それは……まさにその通りですけど……」
自分の頭の中で起きていたパニックの正体を、完璧に言語化された衝撃に、陸は目を見張った。
このオヤジ、口は最悪に悪いが、言っていることが恐ろしく的確すぎる。
岩造は腕を組み、不敵な笑みを口元に刻んだ。
『川で溺れかけたマフラーを救ったその愚直さ、無駄にはせん。わしに恩を売った貴様が、職場で無能と蔑まれ、すり潰されるのは我慢ならんのでな』
岩造の輪郭が、カッと青白い光を帯びる。
『明日から、わしが貴様の腐った頭を土台から叩き直してやる! 気合や根性などというあやふやな泥を捨て、揺るがぬ「仕組み」の石垣を組む知恵を授けてやるわ!』
「え、えええっ!? し、仕組みって……!?」
『四の五の言うな! 小春ちゃんが安心して働ける平和な城を作るため、まずは貴様が無能の泥沼から這い上がるんじゃ!』
岩造の怒号が部屋中に轟き、まばゆい光が陸の視界を真っ白に染め上げた。
『起きんかバカたれ! 明日の朝から、戦は始まっとるぞ!!』
「うわああああっ――!!」
陸の絶叫とともに、アパートの目覚まし時計がジリリリリと朝の六時を告げて鳴り響いた。
【岩造の石頭メモ】
・気合で仕事をするな。頭の中の作業台はせいぜい3〜4個で満杯になる。
・マルチタスクでパニックになるのは無能だからではない。頭の中にタスクを溜め込んでいる構造的欠陥だ。
・仕事を早くしたければ、まず脳の作業台を空にする「仕組み」を作れ。
読んでいただきありがとうございます。
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